昨日のラジオは散々でした・・・・

ここ最近、スカイプねとらじのつながりが凄く悪くて、それが自分たちのパソコンのせいないのか、そのもののせいなのか、わかりませんが・・・。けっこうストレスフルな状態です。昨日は、ご迷惑かけました・・・。昨日はおもいつき出したが、ドラクエSSがあまりに素晴らしくて、少しでも多くの人に読んでもらって、「その上で」話したいというのが、あって、、、やったんですが・・・・全く目的がはたせなかったです・・・。残念。もう少し環境を整備するように努力します・・・。

最近結構メールをもらいますが・・・・

最近良くメールをもらうのですが、なかなか返信できなくてごめんなさい。。。コメントも返信少なくて済みません。。全部読んでますし、いろいろ考えるきっかけになってうれしいです。けど、返信遅くても許してください。twitterでつぶやいているときは、ぜひ声をかけてくれるとうれしいです。そういう時は、しゃべれる余裕がある時が多いので、どしどしはなしかけてもらえれば。たとえば今とか(笑)って、、、、ちなみに本日の夜に、ラジオをやるかもしれません。夜の9時ごろから、LDさんとはしくんと、、、、あくまでかもですが。

その先の物語。

http://maouyusya2828.web.fc2.com/menu.html

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」

これなんだが・・・・昨日友人と話していて、やっぱり凄い作品だな、と確認し合った。というのは、この作品は、僕がずっと見たいと言っている「その先の物語」の一つの類型なんだな、ということが分かってきたからだ。

並行世界・・・・それは、ようは、人の内面の中で、人が決断にいたる物語であって、言い換えれば、それは、「世界」ではなくて、人の心の中に閉じ込められたナルシシズムの世界だった、ということだ。けれども、この作品は違う。たしかに並行世界として確実の、世界を見渡せる箱庭として設計していながら、この世界は、ちゃんと「世界」として成立している。ここは誰かの心の中ではないからだ。まず「その先の物語」の前提は、その世界が内面世界をメインとした話はなく、いいかえると叙情詩ではなく叙事詩的な構造をとる群像劇、とまでは言わないけれども、多人数の視点が独立して存在する「世界」としての性格を備えるようだ。もちろん近代小説以降のものは、内面の一人称的視点や、内面の発見を無視できないとは思うのだが、どうもこういう構造をとらないと、すぐに一人称視点の世界に回収されてしまいやすいようなのだ。


もう一つ。この物語は、3ヶ月くらいで即興に近い形で書いたとは正直いって信じられないほどに、構造的に完璧な論理構造を備えている。特に何よりも、この作品は『終わり』から始まっているという特徴をもっている。『終わり』というのは、勇者と魔王のシステムにとっては、彼らが「出会う」ことに寄¥よってこの世界は終えんを迎えるわけだし、システ(物語内のルールね)でなくても物語としても、勇者(=善)と魔王(=悪)の最終決戦、最終の二元的対立というドラマトゥルギーの頂点「から」始まるんだ。言い換えれば物語的には、エネルギーはどんどん下がっていく方向に動くはず。読者にとっては、頂点(=終わり)から物語が始まるという、本来ならば肩透かしの演出を行っている。


そのことは、魔王が勇者との出会いの後に最初にやることが「ジャガイモを植えて生産力をあげる」という異様に地味なことであることからもわかる。


これは、たとえば、物語で世界をいきなり良くしよう!とか、最終的に行きついた「世界を良くしていくこと」が、いかに地味で難しいものかを、、、、それを物語ると思うのだ。これは僕ら経済学を学んだものでは良くわかる発想だ。近代以降の大規模な社会においては、マクロが非常に複雑に織りなされており、「何が正しいことか?」ということは非常に曖昧模糊としてしまう。それは、「善きこと」が必ずしも正しい結果に結びつかないという、非常に偶発性に溢れたのが現代という空間だからだ。

そして、魔王はこのことを良く見通している。生産力をあげれば、戦争の可能性が高まること、、、、「その次の世界」を見ようとする彼女の行為が、より大きな血を、、、このまま世界が並行政界の箱庭として安定的に回るよりも、もっともっと大きい血を呼ぶこと、、、「進歩」がいかに世界を血で汚すかに自覚的(=再帰的)だ。そして、それをわかりきった上で、それでも「その先が見たい」と彼女は願う。

そして願うだけではなく、「行動」に移す。その行動が、ジャガイモの育成方法を広げていくという、教育や啓蒙になるところが・・・・いや素晴らしいとしか言いようがない。

こんな普通に描くと地味でつまらなくなってしまう話を、「歴史」に作り上げていくところは、、、素晴らしいとしか言いようがない。友人がいっていたが、この次の仕組みは「歴史」に接続するしか類型はないのかもしれない・・・。

才能の差がもたらすバッドエンド

のりしお 2010/03/29 21:46


蛸壺屋というサークルの同人誌を思い出しました。
レールガンをグッドエンドとすると、その逆方向、才能の差がもたらすバッドエンドを描くのが好きな作家さんです。

http://d.hatena.ne.jp/esu-kei/20090818/p2

のりしおさん、情報どうも。


http://www.takotuboya.jp/cg.html




これ、救いようがないほど暗いですね・・・(笑)。「あれ」をみて、これを想像する人もいるんだーと(苦笑)感心します。おっしゃるとおり、才能に関するバットエンドはまさにこうでしょうね。

とても良くできているけれども、これって、僕が今までいったいた90年代までのアダルトチルドレンの話なんですよね。類型としては完成しているし、最後の最後に運送屋(=肉体労働)をしている律が一番、世界の等身大の実感を持ってまともに生きている、というところに回帰するあたりも、まさにこの類型。

けど、、、ちょっと今の時代だと、、、「違うな」と思うのは、確かにこれは「才能に狂わされる周りの嫉妬」を平均的に描くとこういう類型になるんだと思うんですが・・・これって、ちょっと読んだ感じでは「成長を信じている」んですよね・・・・それが、僕には違和感。というのは、そういうふうな「自己認識の低さ」の時代ってもうすでに終わったと僕は思っています。終わった、というのは「なくなった」というわけではないです。これはこれでとてもちゃんと完成している類型で、ファンもいるだろうし、良くできているものだと思います。けど、時代のメインストリームではない感じがする。

というのはですね、嫉妬や憎悪など悪い意味での憧れなどの強烈な感情が生まれるのは、「自分の成長を信じる」ということが正しいという前提になっているんですよ、、、だから、「成長できない自分に悶え苦しむ」という負のスパイラルに入るんです。でもね『けいおん』とかに代表される今のあたりの日常脱力系のコアの部分は「そもそも成長は信じられないし、そんなものいらないんじゃない?」という等身大脱力系の価値観だと僕は思います。この世界に来ている人は、、、たぶん「ムリをしない」連中なんだと思うんですよねー。過剰なことを求めない。

そういう価値観からすると、そもそも必死になって嫉妬したり精神がおかしくなっていくことが、ちょっと接続されない。あのメンバーは(というかこの辺のキャラ設定)は、こういう不健全な関係に陥らないと思うんですよ。そもそもHPのサンプルであったけど、憂ちゃんと唯の姉妹関係が、もうあまりに悲惨すぎて、、、不健全すぎて、感動した(笑)。つーかねーよ、これ。天才の姉の奴隷となって、影となっていくる喜びを感じる妹・・・(苦笑)。


そういう意味では、なんというか、今の僕の「いるところ」って言うか…自分が楽しんでいるさまざまな物語の中では、、ちょっと順序が古いなーと思ってしまう(この人の物語自体が古いのではなく、受け取り手の僕がそういうものを前の世代のものとして認識してしまうという意味ですよ。)。

このへんの自己評価の低さや心の非充実感は、なんというかな・・・それは、人間が生きていく上で、かなりの人々にとってデフォルト(=前提)なんだけれども、「そればかり惑わされる」とのは、いまの時代では違うでしょう?と思うし、それへの解決方法も結構みんな分かってきていて、、、、等身大に脱力し生きる方法がある程度、浸透した時代が今の時代だと思うんだよね。団塊のJr以下の世代は、そもそも成長を神聖視して絶対に生きてはいないでしょう?。マクロ的にはね。とすると、僕は何度もいっているんだけれども、「この次」の世界を見たいんだよね。もちろん、人間はそうさ・・・自己評価の低さや「あるべき姿」とのギャップで悶えながらのたうちまわるものだけれども、、、けど、それを「自分とは関係のない世界」にわめき散らしてもどうにもならない、むしろ悪くなるだけって、わかっているでしょう?。とかとか、そんなことを思いました。

ちなみに、この作者完璧にM好きですね(笑)。マゾっけのあるシーンが、もう乗り乗り(苦笑)。僕にはない志向なので、ひきまくりです(苦笑)。