カンブルランの魔法 – ベルリオーズ《ロミオとジュリエット》(読響)

 シルヴァン・カンブルランが読売日本交響楽団を率いてベルリオーズの《ロミオとジュリエット》を演奏した。大掛かりな管弦楽と合唱、そして独唱陣が必要なこの「劇的交響曲」は、実演される機会が少ない曲のひとつだ。ローラン・ナウリ(拍手!)を筆頭に、独唱・合唱とも見事に持ち場を守ったが、この日の白眉はなんと言ってもオーケストラ。そして、あの管弦楽を実現させた指揮者・カンブルランである。当夜のオーケストラにはカンブルランの「魔法」が効いていた。
 カンブルランの「魔法」とは何か。それは、ヴィブラートとノンヴィブラートを表現手段としてしっかりと使い分けていたこと。そしてそれが、3つの効果を生み出しこと。両者の使い分けはまず、文学的内容を表現するのに効果を挙げた。すなわち、素朴だったり諧謔的だったりする場面ではノンヴィブラートを、愛の情景や、葬送・死・祈りと言った場面ではヴィブラートを使い、一面的になりがちな管弦楽サウンドに明確な対比を施す。ひとことにヴィブラートと言っても、その濃淡は細かく設定されており、愛と死と祈りとでは異なるサウンドを実現する手の込みようだ。
 さらに、ノンヴィブラートはベルリオーズ一流の管弦楽法を引き立たせるのに一役買った。これが2つ目の効果。ベルリオーズ管弦楽法の肝は、弦楽器と管楽器とのブレンドによって、弦でもない管でもない音色を生み出し、それを表現に結びつけていく点にある。《ロミオとジュリエット》ではとりわけ、素朴だったり諧謔的だったりする部分でベルリオーズ管弦楽法が冴えている。そこでベースになる音はノンヴィブラートだ。これは音色作りには欠かせない要素。音色の差異は、倍音の配合の違いによって生じる。弦でも管でもない音色をつくるというのは、弦でも管でもない倍音の配合を作り出すということだ。そのとき各倍音、この場合は新しい音色の構成要素である各楽器が、まちまちにヴィブラートをかけていたら、音色のブレンドは成功しない。かといってオーケストラの全員がまったく同じタイミング、同じ振幅でヴィブラートを掛けることなど不可能だから、音色の精緻なブレンド管弦楽で実現するためには、各楽器の音はノンヴィブラートでなくてはならない。
 その点をよく弁えたカンブルランは、ノンヴィブラートを利用して絶妙のバランスで各楽器を重ね、ベルリオーズの目指した音色の綾を見事に表現した。当夜の《ロミオとジュリエット》はさしずめ、ベルリオーズの著作『管絃楽法』の「生きた教材」だったと言える。
 3つ目の効果とは、先だっての2つの効果が車の両輪として働き、作品の彫琢に寄与したこと。カンブルランは「素朴・諧謔=ノンヴィブラート」「愛・死・祈り=ヴィブラート」という対比と「ノンヴィブラート=音色=色彩豊か」「ヴィブラート=モノクローム=階調豊か」という対比とを上手く組み合わせて、《ロミオとジュリエット》の演奏効果を高めた。
 標題性と管弦楽法という一見異なる問題圏を、ヴィブラートとノンヴィブラートの使い分けという方法で一挙に解決したカンブルラン。これはもう、相当に高レヴェルな音楽的アクションだ。問題は、15年前には行わなかったこうした解釈をなぜ今、彼がおこなうようになったのかということである。それは、この15年の古楽運動の成果のひとつ、「ノンヴィブラートをベースにヴィブラートを装飾的な表現手段として用いる演奏法」が浸透したからに他ならない。重要なことは、カンブルランもオーケストラも古楽奏法を参考にしているとはおくびにも出さない点。これは、古楽奏法が「ふつうの」音楽表現の一手になったことの証左だろう。現在この程度には、古楽は音楽表現の内側で自分の存在感を消しつつある。そしてそれは、古楽と、その精神を心に秘める音楽家の勝利に他ならない。


読売日本交響楽団 第507回定期演奏会
2011年9月12日(月) サントリーホール
エクトール・ベルリオーズロミオとジュリエット》作品17
シルヴァン・カンブルラン(指揮)
カタリーナ・カルネウス(メゾ・ソプラノ)
ジャン=ポール・フシェクールテノール
ローラン・ナウリ(バス)
新国立劇場合唱団(合唱指揮:三澤洋史)



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