内田樹という迷惑・予知能力

あの人は予知能力を持っている、という。
「予言」というのは、その内容がどうのという問題ではない。
するか、しないか、の問題なのだ。
すれば、だいたい当たる。当たるような言い方をすればいいだけの話だ。していれば、そういう技術は自然に身についてゆく。
そして、自分には予知能力があると信じ込むこと。
相手が、「この人には予知能力がある」と信じてしまえば、その時点でもう、半分以上当たったも同じだ。
本気で自分には予知能力があると信じ込めば、自然に未来が見えてくる。
未来が存在するから見えてくるのではなく、見えてくると信じているから見えてくるのだ。
そして、見えているほうが得する世の中だから、その能力は尊重される。
未来は、「見える」のだ。心底見えると信じ込めば、見えてくるのだ。
未来が存在するからではない。
その人の心の中の問題だ。
そうして一発当てれば、たちまちスターだ。
みんな、未来を知りたがっている。
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いつの時代も、未来を予知できる人間なんか、ほんの少ししかいない。それは、原始時代からずっとそうだ。古代において霊媒師や呪術師の社会的地位が高かったということは、それだけ希少な存在だったことを意味する。そういう予知能力が何か「原始的な本能」や「根源的な意識」のように言う人は多いが、それは、人間の本性から逸れていった意識なのだ。
誰もが予知能力を持っていた時代など、この地球の歴史のどこにもない。
なまずや猫が地震の前に異常な行動を取るのは、あくまで「現在」の異変に対する反応であって、未来を予知しているのではない。
たとえば、そのコーヒーカップの向こうにさくらんぼが置かれてあるとする。
そこで、さくらんぼが見える、と言う。さくらんぼがあるのを知っているから、だんだん見えているような気がしてくる。これが、未来を予知する能力である。そしてそのとき意識は、コップが存在することをあざやかに認識するという体験を喪失している。
未来を予知する能力は、「現在」に対するあざやかな感動を喪失したときにもたらされる。
人が手相見や霊媒師になる契機として、たいてい人生の不幸に遭遇するという体験がある。
そのとき彼らは、不幸という「現在」を味わうことを拒否して、「未来」に逃れていったのだ。
霊能力のある女は、たいてい女を捨てている。女を捨てている女のほうが、本格的な能力を持っている。彼女は、女という現実を捨てて、霊能力という未来を獲得した。
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「人を見る目がある」などという。
内田氏は、現代人は「人を見る目」が足りないからそういう「予知能力」を養う教育が肝要である、といっている。
そうだろうか。
「あの男は今は羽振りがいいが、そのうちへまをして落ちぶれるだろう」というとき、その人の意識は、「あの男」の現在の輝きに対する感動を失っている。
「予知能力」を人間の本性や社会正義のように言ってもらっては困るのだ。
「蟻とキリギリス」の話のキリギリスみたいなニートの若者は、どうせ将来はろくなものじゃないのだから、友達は一人もいないのかといえば、そうじゃない。彼がもし魅力的な人間なら、好感を寄せるものも必ずいる。彼のその人間的な魅力という「現在」の輝きに反応できる感性を持ったものは、彼が将来落ちぶれようが落ちぶれるまいが、きっと好感を寄せる。
内田さん、マムシみたいな恨みがましい目で他人の将来のありさまばかりうかがっている人間が、そんなに偉いのか。
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人に対する感動を失っている人間ほど、「見る目」があるのだ。
惚れた女に対しては「あばたもえくぼ」になってしまうが、興味のない相手なら冷静に観察できる。ようするにそんなようなことだ。
「あばたもえくぼ」になってしまわないで、誰が結婚などするものか。近頃の若者が結婚したがらないのは、昔の若者のようなおろかな感動がなくなったからだろう。徹底的に未来に対するスケジュールで動いている世の中だもの、それは、しょうがないことかもしれない。彼らは、すでに「人を見る目」を持たされてしまっている。
彼女はとてもチャーミングな美人であるが、彼女だっていつかは、しおれたばあさんになってくたばっちまう。そんな未来が手にとるように見えるのなら、何も無理して結婚することもなかろうと思ってしまう。
結婚すれば、いろいろわがままや醜いところも出てくるだろう。一緒にいるだけでうっとうしくなることもあるだろう。子供を生んで体形が崩れてしまえば、セックスする気にもならなくなるかもしれない。そしてあげくの果てに「あんたのせいじゃないか」と言われる。
そんなあれやこれやの未来がはっきり想像できるのなら、とても結婚などできやしない。
また因果なことに、これらの想像は、ぜんぶ当たっているのだ。結婚なんて、たいていそんなものだ。
それでも男と女が結婚しようとするのは、相手の今ここの輝きをこの生のすべてと感じてしまうからだ。今ここを、永遠のように感じてしまうからだ。そういうおろかな体験を、感動という。
さらに因果なことに、それもまた、意識のはたらきの本質にほかならない。
根源的な意識は、過去も未来も知らない。根源的な意識とは、予知能力のことではない。今ここの世界の輝きに深く感動してゆく意識のことだ。
ばかにならなきゃ、結婚なんかできない。意識の根源のはたらきとの通路を持たなければ、結婚という愚かな選択はできない。
「あなたを抱きしめたい」という願い、それがすべてなのだ。
未来を予知する能力なんか持ったら、結婚なんかできない。
「あなたを抱きしめたい」という願いを失ったとき、人は、未来を予知する能力を獲得する。