英國戀物語エマ第二章
クソもミソもいっしょやなあ。
クソはクソ、ミソはミソとして楽しめばいいのに何故混ぜるかな。
須くメイドは主家のものに手をつけるべし、は『アンダー・ザ・ローズ』、まあ、階級社会たってちょぼちょぼよ、は『エマ』。ハンス×エマ、みたいなんてさ、くっきりとは立ち上がってこないわけですよ、原作だと。精緻極まりない作画の影でだらだらと構造のくっきりしない話が流れていくのが『エマ』のいいところ、雰囲気漫画性であって、それをスポイルするアニメ化であるような気がしてならない。
言い換えると。オリジナルエピソードがどうにもこう、あんだろ色。
声優的には冬馬由美をメーンに吸えたことによる偏向があちゃらこちゃらに出てるなあ、と。まあ、よくそろえた、とは思うが。
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ピュア自分確認*1のために、アンチ豊口とかアンチ桑島とかで検索をかけることが俺にはあるのですが、その結果を確認して思うのは、中の人観念に安住する衆生の度し難さであることです。
声優が中の人でなければならないのだとすれば、アニメから流れる音声がある声優のものとして認知されることは、それ自体、大きなマイナスであると言えます。豊口めぐみであれ桑島法子であれ、その声優の声だ、と知れてしまえば、それは外の人に他ならないのですから。
声を聞く機会が多い、とか、娘役の中で*2違いを出されたとか、そういう要因で声を覚えてしまった声優は、中の人派にとってはオートマチックに存在論的に劣った=ヘタクソ・ミスキャストな声優です。まあ、中の人派も一枚岩ではなくて、裏話主義者*3は声優を認知してナンボ、なとこありますが。てか、彼らはスタッフマニアの変種と見れば実は外の人派に近かったりするのかなあ。
さておき。我々外の人派は時に拡大嵩夜主義的な立場を参照しつつ、己の認識が声優の評価に影響を与えていないかどうか絶えずチェックしていかなければなりません。誰だ我々。
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ところで。田中理恵の評価が高くて水樹奈々の評価が低い世界がある*4のも、あのへんのファン層が中の人性を前提していないからなんだと思う。まあ、声優批評準備会派的な意味での外の人性重視、ではないですが、ある意味超拡大嵩夜主義者よね、彼ら。派手な分かりやすさがすべて、という。