『伊豆の踊子』(1974)

監督:西河克己山口百恵三浦友和
『伊豆の踊子』伊豆の踊子』(1963) (監督:西河克己吉永小百合高橋英樹大坂志郎)同監督による10年後のリメイク作。

●西川克巳監督の1963年の吉永小百合版「伊豆の踊り子」を観てから、その10年後に同じ監督がリメイクしたいわゆる山口百恵版「伊豆の踊り子」も一度観てみたいと思っていた。当時のトップアイドルであった山口百恵を映画初出演で主演に据えて、相手役は三浦友和。アイドル的な部分よりも、思った以上に階級差別的な部分を描いていた1963年の「伊豆の踊り子」が10年後にはどのように描かれているのかを観たいと思っていた。

●当時の山口百恵が15歳。だが、映画の中の山口百恵に15歳という初々しさやまだ年端も行かない少女の弾けたところや眩しいところが全然感じられない。まだ恋心が芽生えたばかりの少女というよりもうある程度男女の駆け引きをこなしてきた20歳過ぎの”女”という感じ。

●1963年版「伊豆の踊り子」での吉永小百合は18歳になっていたのだが、明るさ、初々しさ、弾けるような笑顔はまさに少女の輝きを持っていた。山口百恵は暗く陰があり、初恋をしたというような甘酸っぱいきらめきは表情に出ていないと言っていいだろう。

●当時のアイドル映画という感じで作られた「伊豆の踊り子」なのだろうから、シビアなことを言うほど映画として突き詰められていないのだろうとも思うので余り山口百恵を酷評するものでもないが、やはり吉永小百合との差は歴然としている。

●役者と歌手オーディション出のアイドルという土台の違いがあるのだからこれは致し方なしとすべきであろうが、1963年版が文芸作としても納得の出来る一作であったことと比して、1974年版は映画の質の面でもかなり低きに落ちていると言わざるを得ない。川端康成作品の映画化という観点よりも、アイドル映画としての部分を優先させた作りをしているのであろう。主役の出所も、作品の製作意図も異なる二作品を比較するのは酷だとも言えるが、作品としての視点から比較すればやはり1974年版は1963年版よりも大分出来が落ちる。

●1964年版は吉永小百合高橋英樹大坂志郎が三本柱として映画を深みのある物にしているが、1974年版は山口百恵にフォーカスを当て過ぎ、書生役の三浦友和や、かおるの兄、英吉役の中山仁が人物として深みがない。特に1974年版の大坂志郎の主役を食うほどの見事な演技を見ていると1973年版の中山仁が同じ役回りでありながら余りに脇役過ぎてしまっていて少々がっかりとしてしまう。

三浦友和は確かに絵で書いたような好青年っぷりである。

●1963年版では学生服だった書生が、1974年版では袴姿。原作の時代を考えれば1974年版の袴姿の学生のほうが絵としてもしっくりくる。この部分は1974年版の方がイイ。というか監督が1963年版の学生服を失敗したと思って修正したのだろう。

●1963年版では温泉街で病気になり死にかけている娼婦にかおるが偶然出会うという設定で、貧富の差、当時の恵まれない立場の女性を描いていたが、1974年版ではかおるの幼なじみが温泉街で働いていて、酌婦の仕事から体を売りそして病に倒れたという設定に変更されている。手紙をもらった幼なじみに会えると楽しみにしていたのが、病で死にかけているのを見つけ、驚く・・・とまで行っていて、その後はそのまま旅立ってしまう。病気の娘を男達が運び出すくだりまでは描かれているが、かおるは何もせず、兄に事を伝えただけで話がながれていってしまっている。ここは挿話が尻切れトンボになり話を台無しにしてしまっている。

●下田から出る船も時代設定に合っていない随分と近代的な船だ。(調べたわけではないが)そこまで拘れなかったのだろうけれど。

●ラストシーンも疑問。踊り子の恋の儚さ切なさではなく、結局は旅芸人、水商売の女なんだとでも言うような終わりかたをしている。

●リメイクがオリジナルを超えた例が無いというのは定説になっているが「伊豆の踊り子」でもそれは当てはまる。

田中絹代版や美空ひばり版は未見だが、吉永小百合版は数ある『伊豆の踊り子』の映画化でもその出来はかなり高いレベルにあるのではなかろうか?

●大物女優への登竜門などと言われてきた『伊豆の踊り子』だが今後再び映画化はされるのだろうか? 長澤まさみ辺りで映画化されたら?と思ったこともあったが、もう長澤まさみがかおるをやるには歳が過ぎているし、果たして今後吉永小百合版を超えるような作品は生まれるだろうか????