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 円城塔 “エピローグ”






エピローグ

エピローグ






 おもしろかった。
 円城塔って、SFのひとつの先鋭地点だと思う。



 あまりこういうことから書き始めない方がいいとわかりつつ、でも同時に、どこかでこれに関して自分の意見を明確にしておきたいと思ってることがある。
 未だに続く伊藤計劃のトリビュート・フェア的な状況について。
 これ、今もときどき話題になって是非が議論されてるのを目にするんだけど。(というかちょうど今現在まさにそんな状況のようで。)
 俺自身に関して言えば、伊藤計劃をめぐる今の風潮にははっきりと辟易している。

 伊藤計劃の意義は肯定してるしどちらかといえば好きな作家。でもなんでいつまでも日本SFが伊藤計劃に引きずられなければならないんだ、っていう思いがあって。それには、伊藤計劃という名で日本SFを語り続けようとしなくてもここには円城塔という現在形で進行し続ける作家がいるはずなのに、というやる方のなさも理由の中に含まれている。
 ……もちろん伊藤計劃と円城塔はぜんぜん違うスタイルの作家だし、円城塔の感想を語ろうとしてるのに伊藤計劃をめぐる状況へのdisが必要なのか、ってのはあるんだけど、円城塔は『屍者の帝国』という作品で伊藤計劃あるいは彼にまつわる風潮と分かちがたく結びついてしまっているので。
 『屍者の帝国』は、作品内容自体はつまらない、というか円城塔の特長がまったくもって不完全燃焼、だけど円城塔による伊藤計劃の引き継ぎが「屍者の使役」という小説内アイデアの実践になっている、という作品外でのおもしろさには価値があるというのが私意。もうこのことが伊藤計劃トリビュート問題を総括し切ってしまってる、とも言えるぐらい。

      • 延々と続く伊藤計劃トリビュート問題、っていうのは結局のところ作家としての伊藤計劃の問題ではなく、日本SFの生存戦略の問題だとは思っている。伊藤計劃自身は単に完成されたオリジナル長編を2作品残しただけ、「これからを期待させる」という段階で去ってしまった作家であって、あらたな地平を切り拓いたというようなインパクトを残したほどには至っていない、との認識。そのような作家がなぜ今のような扱われ方をされるようになったのか、というのは別個の現象として考える必要がある。……というようなことも含めて批判も擁護もさんざん既出、ではあるのだろうけども。

 
 で、円城塔の『エピローグ』について。
 『屍者の帝国』以来となるこの長編小説は、いつまでも「伊藤計劃以後」なままの時代風潮(あるいは戦略)をさすがにそろそろ終わらせ、円城塔以前・以後という次なるピリオドを区切るだけの力量を持った作品だと言いたい。
 こういう小説書けるのは円城塔ならではだし、真骨頂。同時代での才という意味でなら何よりもまず円城塔こそを称賛すべきだろう、と思うのだが、類例が容易に生まれるようなスタイルではないからこそ固有名を冠するブームになっていない、というのはあるのかも。

      • と言いつつ、チャールズ・ユウの『SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと』っていうのは円城塔と同じタイプのSFだったなー…とも思う。あれがあったから、『エピローグ』が円城塔の久しぶりの長編作品って感じがあんまりしなかったというのもある。


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―Angela Mitchell