アスペルガー医師ロンの日常

医師でもあり、アスペルガー症候群当事者でもあり、更には911GT3&ロードスター乗りでもあるワタクシのささやか(?)な日常

THIS ADDICTION

 ロンマニアの皆様、こんにちはm(_ _)m


「音楽のことは忘れろ。ジェネレーションギャップのことだけ考えればいい。ヒッピーは退屈で古くさい連中だと言い、奴らに火をつけろ。役立たずのお前らの世代を恐怖させ、脅し、侮辱しろ。その途端、お前らは斬新な思想となる。世間の人間はお前らに同調したがるだろう。無に等しいお前らが名声を獲得し、街では誰もがお前らについて語り合う」

By マルコム・マクラーレンセックス・ピストルズのマネージャー)


 といった今日この頃、皆様はどうお過ごしでしょうか。


*ネットがもたらした音楽の原点回帰

 ワタクシが物心ついた時、音楽媒体の主体はアナログレコードだったのである。ソレが成長するとともにアナログレコード→カセットテープ→CD→DL販売と形態が変化していき、今じゃSpotifyに代表されるようなストリーミングが新たに登場してきたのである、こうやって最新のトレンドに対しアンテナが鈍ったのは、偏にワタクシのオッサン化が進んでる証左なのであろう(笑)こうやって時代が変わったせいもあるんだろうが【アメリカの音楽売上が過去最低記録を更新した】んだそうである。コレに関してのワタクシの意見は以前も述べたように「真に生演奏を聴く価値のあるアーティストだけが残る、実に良い意味での過渡期」である。今までの音楽業界はムダが多過ぎた。そう思うのはワタクシだけじゃない筈である。


 第一、顔だけのガキが広告代理店のゴリ押しにより名声と大金を容易にゲットして、反対に実力もセンスもあるアーティストがライブハウスをドサ回りする、今のこの状況のが異常なのである。今後この傾向が続けば、音楽が無くなる事は無いにしても、規模はビックリするほど小さくなるとワタクシは予想するのである。全ジャンルの音楽が今の演歌やクラシックやジャズみたいになって、ホントに好きな人が大なり小なり支えていって、時折ジャンルを超えた大物が数年に一度現れる。そんな感じになるんじゃないかと思うのである。でもワタクシは、その方が遥かに健全だと思うのである。カート・コバーンが良い例であるが、ムダにカネと名声があったばかりにソレに押しつぶされて音楽が消える。そんな悲劇も減るだろうからである。


 このままじゃ音楽文化が廃れちゃう?廃れるんだったら、所詮音楽なんてその程度のシロモノなのである。所謂”自然淘汰”ってヤツである。ぶっちゃけた話、音楽含めエンタメなんてシロモノは、いわば盲腸みたいなモンなのである。基本的にエンタメが無くったって、世の中回るからである。だからホントの事言えば、音楽家や作家やタレントが無暗矢鱈に大金貰える状況って異常なのである。無論、優れた才能を持った人間が大金を得る事については否定しない。でも今の状況は、才能の無いヤツですら、広告代理店やその他中抜き企業のゴリ押しでカネを稼げるようになってしまってる。その状況がこの音楽不況で是正されるなら、そりゃ望ましい事なのである。


セクロス&バイオレンス

 マンガ家の江川達也曰く【宮崎駿(以後パヤオ)のアニメは巧妙にエロと暴力が隠されていて危ない】んだそうである。まぁ何ちゅーか「嫉妬乙」としか言い様が無いのである┐('〜`;)┌何故ならワタクシが言うまでも無く、エロと暴力って作品を彩る最高のスパイスだからである。使わないと味気が無いが、かと言って使い過ぎるとスパイスの刺激が料理を台無しにする。そして子供向けの作品にそのスパイスを使うには、刺激が強過ぎて諸刃の剣となる可能性が非常に高い。そうパヤオのやってる事というのはエロと暴力という強烈なスパイスを、子供向けの作品にこの上なく絶妙な塩梅で投入し、大人から子供まで万遍なく楽しめるように仕立てているのである。つまりパヤオのやってる事ってのは、実はとんでもなくセンスの要る事なのである。


 だからこの記事読んだ時のワタクシの率直な感想は「流石パヤオ!ワタクシ達にできない事を平然とやってのけるッ。そこにシビれる!あこがれるゥ!」だったのである(笑)露骨なエロシーンと暴力シーン入れなきゃ人気が取れず、今尚ソコから脱却できない江川とは格が違い過ぎて話にならんのである。でもってワタクシは、コレこそが正しいエロと暴力の使い方だと思うのである。その存在を否定せず、かと言って大っぴらに肯定もせず、昇華して作品に取り込む。何だかんだ言って、やっぱパヤオのセンスは最高だと思うのである。エロや暴力ってのは露骨に描くよりも、上手く深層心理に忍ばせた方が遥かに刺激的なのである。何故なら一度忍び込ませれば、後は脳内で妄想や空想によって自己倍増するからである(爆)


 ワタクシが同人誌を好きになれん理由がコレである。エロや暴力が露骨だから寧ろ逆に萎えるし、その程度のセンスだから中身も薄っぺらい。同人誌を「薄い本」って呼ぶのは、そういう意味だとワタクシは推測する次第である(笑)そんなヤツ等が「表現者が委縮したり、コミケが開催できなくなるから、児童ポルノ法改正反対!」って叫んでも、ワタクシは「反対するより先に、引っ掛かるような露骨なモンしか書けないテメェを見直せば┐(´∀`)┌」って答える次第である。流石にパヤオのレベルまでは要求しないが、そういう「ムダに脱がさずにエロを表現する」「ムダに血を流さずに暴力を表現する」ってのが出来れば、規制なんかいらない&されないとワタクシは考えるのである。


表現の自由vsエログロ規制

 無論、ワタクシも表現者の端くれとして、表現の自由の重要性は十分分かってるつもりである。じゃあ「表現の自由とは何か?」って話である。ワタクシはコレに対し「何でも表現して良いって事ではなく、表現しちゃいけない事は表現しない事」と答える次第である。つまり表現の自由と規制ってのは、相反するモンではないとワタクシは考えてるのである。じゃあエログロ規制と表現の自由と規制の境目についてどう考えてるか、ワタクシの言い分をまとめてみたのである:

ロン流表現の自由の解釈・バージョン1.0:

  • エロと暴力は人間というナマモノが本能的に抱えてるモンだから、その存在は否定はしない
  • が、人間が更に人間性を高めるにおいて、性欲と暴力衝動は何時か克服されなきゃならないシロモノである
  • 表現の自由があるから、描く事も売る事も否定しない。が、ソレは”やがて否定されるモン”であるゆえ、陽の当たるトコでやるのはNG
  • もしエロと暴力を陽の当たるトコで表現したいのであれば、ソレは昇華された形で表現されるのが望ましい
  • 基本的に表現の規制には反対であるが、表現者がエロ&暴力の”やがて否定されるモン”という立場を弁えず表現するなら、規制はやむなし

といったトコである。エロも暴力も、やりたけりゃ存分にやって良いのである。かくいうワタクシも、エロゲーには大分お世話になったからである(笑)ただしソレは「テメェの行動に責任を取れるヤツが、誰にも迷惑かけずに陰でコッソリとやる」という前提の下でのみ成り立つ行為であり、決して権利と居場所を求めて表へ出てはいけないのである。


 あとワタクシが思うに、児ポ法含め各種規制に反対するオタク連中ってのは、本陣では「表現の自由云々なんかどうでも良い」って考えてるんじゃないかなと思うのである。ワタクシはこの手のオタクに何人か知り合いが居るのであるが、ソイツ等の意見をまとめてみた結論は「居場所を失いたくないから」である。コミケ常連の知り合い曰く「大勢のオタクが集まる事でソコに居場所を感じ、自分が1人じゃないって安心感に包まれる」んだそうである。規制云々が入ると表現が委縮してコミケが廃れて、自分のアイデンティティーと居場所が失われる。一般社会に居場所が無いヤツは、ソレが堪らなく怖いんだそうである。が、ンなモンはワタクシの知ったこっちゃないので(笑)さっさと締めるに限る今日この頃であった。