Angel Beats! 第6話の感想

よし来た。ついに来た。てゆうか、これが6話にして来てしまった。えーと、CLANNADと智アフとリトバスと沙耶シナリオのネタバレあります。

「そんなまがいもんの記憶で消すなぁーー!!」
「俺たちの生きてきた人生は本物だ! 何ひとつ嘘のない人生なんだよ! みんな懸命に生きてきたんだよ! そうして刻まれてきた記憶なんだ! 必死に生きてきた記憶なんだ、それがどんなものであろうが、俺たちの生きてきた人生なんだよ! それを結果だけ上塗りしようだなんて。お前の人生だって、本物だったはずだろぅ!」

うん、なんか書くまでもないけど、「どんなことだってそれはそれで本物のはずだ」という指向。強盗になんか奪われまくるようなそれはそれは不幸な人生であったとしても、しかしそこでお前が苦しんだり悲しんだりしながら生きてきたことは本物で、たとえ行き着く先に幸せがないとしても、悲劇としてバッドエンドしかないとしても、その人生は、それは「本物」なのだ。結果だけ上塗りして手に入れる幸せの幻像を手に入れてしまえば、お前が苦しんで生きてきた不幸の実像が失われてしまう。それは「本物」なのだ。「幸せ」は偽りでしかなく、真実は「不幸」でしかない、偽りを受け入れれば「幸せ」になれるけど、お前が苦しんできた、本物のお前の人生は消えてしまうぞ――。


ということで、「どうして朱鷺戸沙耶さんの秘宝がタイムマシンじゃなかったのか」を麻枝さんが見事説明して下さった回でした。そもそもこの流れには変遷がある。『CLANNAD』では、渚が死んだ人生は、そして汐まで失ってしまう人生は、それはそれで(あの)朋也には「本物」であった筈なのだ。渚が死んで途方にくれたことも、生きる目標や目的を失って自棄になったことも、汐を放置し続けてきたことも、そしてそれを止めることにしたことも、苦しみながらももがきつつ進んでいく様も、全部「本物」だった筈なのだ。いや実際に本物ではある、それは嘘でも夢でもなくもうひとつの人生なのだけれど、けれど、しかし最低でも等価値な、別の人生も提示してしまっている。朋也の人生はどちらも本物ではあるのだけれど、同時に、どちらも達成され得ない(あの描かれ方を見れば明らかでしょう)。代わりに、本物をプレイヤーに押し込めることに成功することによって「CLANNADは人生」に成り得たのですが、それはまた別のお話。ちなみに京アニ版は本編最後に番外編の「一年前の出来事」を入れてたように、「はじまった時点で全てが終わっている(決まっている)」という解釈によりまったく別のモノとして纏まっている。では『智代アフター』。ここでは『CLANNAD』のような、現実に「何かをなかったこと」にしてしまう要素はない。ですが、心的に「何かをなかったこと」にしてしまう、記憶喪失が重要なものとなっています。とはいえ『CLANNAD』におけるようなソレはない。てゆうか『智アフ』をこの文脈の俎上に載せるほどの理由は(リリースタイミング以外に)なかったりするのですが。敢えて言えば、朋也視点であるが故、記憶喪失の朋也と智代との3年間がまったく描かれない点なんかでしょう。残念ながら、プレイヤーにとっては、智代が3年間苦しんでもがいて悲しんでそれでも歩みを進めてきたことは、事後の語りと周囲の反応などからの推測でしか計り知れない。もちろん朋也にとっても同様で、だからこの視点である以上当たり前なのですが、ですが、(私たちが)気をつけないといけないくらいにそれは遠くでしか語られない。で、『リトルバスターズ!』。言うまでもない苦肉の策。ナルコレプシーを解消するため、「生まれ変わる」例のひらがなだらけの一幕です。これは麻枝さんの当初のシナリオ(のラスト)に対しスタッフから疑義が発せられ、それに対応するために書き換えられた(書き加えられた)部分なのではないかと推測されますが(当初どおりならば「いらない」箇所なので)、しかし悲しいことに、ある意味では催眠術であった。そうしなければ生き残れないとはいえ、そうしてしまったことで、ナルコレプシーの理樹が生き残れなかった。もちろんこれは、結果だけ上塗りされたのではなく仕組みが上塗りされた(象徴的秩序の再構築)のであって、催眠術ではないのですが、多少力技に感じてしまいました。というのも、ここでは、根本となる悲しみや苦しみが在っても、その後に出会ってきた悲しみや苦しみが無かったから。当たり前の話です。「そもそものはじまり」の時点を変えるのですから、「続き」の部分が無くなって(この秩序では居場所をなくして)しまう。

とまあ申し訳ありません、駆け足&思い出しで書いているので事実誤認やうっかりミスが多発しているようなまとめですが、とにかくそんな感じの(ファジーに読んでね!)変遷があったわけです。「必死に生きてきた記憶なんだ、それがどんなものであろうが、俺たちの生きてきた人生なんだよ!」。『CLANNAD』では、それは唯一のものとして扱われなかった。『智アフ』では、取り立てて言うほどではないといえばそうなのですけど、しかしながら「智代のソレ」が、朋也に対するが如く優しく濾過されていた。『リトバス』は、その不幸を受け入れられなかった。恭介たちが死ぬけれど理樹の悲しみや苦しみが残るという本物ではなく、恭介たちが助かるけど理樹の悲しみや苦しみが消えるという本物。どちらも本物の人生ではあるけれど、生きてきたそれまでを明後日の方向に慮外してしまうような処置ではあった。そして『リトバスEX朱鷺戸沙耶』。「タイムマシン」というやり直す手段を目の前に提示されても、それを蹴る。彼女の人生は彼女の人生なのだ、欲しいものが得られなくて、短い人生で、苦労もしたし悲しいこともあったけれど、それは彼女の本物の人生だ。「理樹くん」「あたしと出会うルートは…」「バッドエンドなのよ」(リトバスEX本文より)、だけれども、そこで手に入れた、「これはあたしの青春だ。その中を精一杯に理樹くんと駆け抜けた」「よかった…。こんな温かな世界に…一時でも居られて」(リトバスEX本文より)は、彼女の本物の人生だ。死後に迷い込んだ学園で手に入れた、彼女の本物の人生。だから秘宝はタイムマシンではなかった(と僕は思っている)のです。過去に戻れてしまえば、やり直せてしまえば、”これらは嘘になる”。少なくとも唯一の本物ではなくなる。叶わなかった夢が叶うようになるかもしれないし、悲しい思いや苦しい思いをしなくて済む人生を送れたかもしれない、けれども、ここで得られた彼女の青春も、消えてしまう。
なんて言いつつ、その辺(秘宝絡み)作中では未確定的に扱われていまして(つまり、こんな自信満々にタイムマシンじゃねーよとか僕ほざいちゃってますけど、本当は実はタイムマシンだったかもしれないってことでして。そもそもKeyは(作り手自身がインタビューで語るように)「自由に解釈下さい」的な側面が強いので、タイムマシンじゃない・である、はどちらも一解釈であるのですが)、そこがまた面白いところでもあるんですけどね。リトルバスターズのみんなと笑いあう一枚絵がエンディングで提示されるけど、実際にそうだったわけではない。ただ、「その絵はある」。最低でも、そのくらいの幻像はある、幸せな実像。それは私たちにとっても。私たちにとってこそ。


ということで、AB!をその変遷のラインから見ると、沙耶から続く方向に向かっているんじゃないかなと思わせるに充分なセリフでありました。しかもまだ、第6話なのにこの発言ですからね。まだまだ、二転三転、二飛躍三飛躍する余地が残されているだけに期待が大きいです。

「お前の人生だって、本物だったはずだろ!」
「頑張ったのはお前だ、必死にもがいたのもお前だ、違うか!」

そう、この一言だけで充分であった。



以下メモ。

■ SSSが反省室に入れられていた様子は見せず(解放された瞬間からはじまる)、殺されまくるSSSはほぼ見せず(ほぼ死体からはじまる)、元副会長のお話聞いてたら、いつの間にかその死体すら無くなってしまっていた。これは、特にその最後のは、別に書き忘れとかじゃなくて、実際に死体のひとが成仏して消えたとか、何か理由があって(たとえば復活する前に一度姿を消すとか)消えたとかなのだろうけど(当たり前か)、それでも意味深長的です。結果として、光景が凄惨すぎない程度に――凄惨すぎる場面が多すぎない程度に調整されている。雨の中でしか死体は存在できていないのです、雨が視界を覆って、雨が洗い流してくれるような場面でしか、死体は存在できていない。

■ 一言でいうならば、大山くん可愛い、しかないですよね。冒頭、松下五段はユイの「胸揉んだことあんのか?!」発言に赤面しますが、一方、大山くんは高松の裸体に「なんで脱いでるの?」と赤面するのでした。たとえ同性であったも現前する裸体に律儀に赤面してくれる大山くんはマジ大山です。(僕の中では、大山くん>天使>>>>越えられない壁>>>その他)

■ 会長代理に捕まりそうになった野田が斧を向けたのは、まったく見当違いの方向で、まったく会長代理ではない、ただの一般生徒。このような、狙ったわけではないけれど生じる錯綜・誤解、そして狙わずに牙を向けてしまう失踪ぷりこそが、野田くんでもあるのでしょう。

■ 授業中の天使の席は前から5番目くらいのところだったのに対し、音無くんが麻婆誘ったときの天使の席は、前から2番目。前回(第5話)のテストのとき、はじめて音無くんが彼女の名前を知ることとなり、彼女が天使からヒトに失墜するときも前から2番目。さらに前回は教室右端(廊下側)で、今回は左端(窓側)であった。学校内の他の教室・部屋にダイレクトに続いていくという廊下側に対し、直接的にはどこにも繋がっていないけど、空という自由・可能性を想像・象徴させるところへと繋がっていく窓側。その配置の差異に、天使自身の変化の差異の隠喩を読み取ることもできるでしょう。たぶん。



■ 学食での食事風景は、綺麗に、天使→光にあたる(窓に面す)、音無→そこと隣接して陰である(壁に面す)、というように分かれている。あまりにも綺麗に。ただし窓の外には空も風景もなく、光しかない。あと柱の形が、まるで天使ちゃんが十字架を背負っているかのようになっている。



■ 天使と共に特殊反省室(仮称)に入れられる音無くん。SSSの仲間と共に入れられた姿は描かれることすらありませんでしたが、それはさておき。天使、音無くん、水滴、爆音、無線機から聞こえるゆりっぺの声。今のこの場・状況や、音無と彼女たちとの関係を象徴しているようなレイアウトです。天使は同じ部屋にいるけれど寝ているだけで、ゆりっぺは離れたところに居るけれど声だけが届いている(双方向ではなく一方的に……そしてそれは常のことでもある(音無に対しては、常にと言えるくらいにゆりっぺが一方的に語りかけている))。そして、爆音=戦いのはじまりと共に落ちだしてきた水滴は、音無くんと天使の間に落ちる。音無くんと天使の間にたわる、この場を寝食する――部外者的なものがこの水滴、戦場から溢れ出しここまで届いている戦いの証拠であり、それはふたりの間に落ちるけれど、しかし意外なほど「小さい」(もちろんこの水滴は涙に繋がっている)。

■ 「もし俺に記憶があったら……。最初にバカな質問をしなければ――この世界で俺は、お前の味方でいたかもな」。そういえば、音無くんが思い出していましたが、第一話で彼女に銃弾を与えた場所は「橋」。橋があちらとこちらの分岐点を象徴する――想起させるのは言うまでもないですが、あの時、たとえバカな質問をした後でも、あのとき撃たなかったら、また違っていたのだろう、みたいには見えます。……しかしそれ以前に「もし俺に記憶があったら」を付け加えている。



■ さり気に手を繋ぐ音無くん。天使ちゃんとの身体的接触ランキングは断トツの一位です(てゆうか、音無くんしか触れていない)

■ 「何年かけて作ったと思ってるんだ」というセリフには少し驚きで、つまり生徒会長代理は何年もかけてこのクーデターまがいを企んでいたということでしょうか。要するに、神になる方法。神になるためには天使が邪魔で、天使をどうにかして閉じ込めるために何年もかけてあの檻を作った――翻れば、代理は何年も前からここに居たということになりますが、天使もまた何年も前からここに居たということになります(※それが立華奏と同一人物かはさておきですが)。

■ 「ここは神を選ぶ世界だと、誰も気づいていないのか」「生きる苦しみを知る僕らこそが神になる権利を持っているからだ」 ――これもまた、生徒会長代理が勝手に言ってること? 本当は神を選ぶ世界なんかじゃなくて、彼が勝手に、ここは神を選ぶ世界だと思い込んでいる――ああ、なにせ彼は父の愛を求めていたのだから、自分が神となって自分自身でそれを得ようとするのも道理でしょう。思い込むだけ動機がある(しかし出来すぎですがw)。話し振りからは判断しがたいところもありますが、果たしてどうなんでしょうか。ぶっちゃけ、これが第11話くらいなら、どんな真相であろうとそうなんだって思えるけれど、まだ第6話ですしね、もう何回転かしてもおかしくないんじゃないかと。

■ 天使はヒトに「なった」。天使はヒトだったというより、天使はヒトになった、(前回から続いて)そうと思わせるくらいの勢いの描写、つまり音無くんの視る、彼女の孤独。でも逆に言えば、これのお陰で天使ちゃんはヒトになれた、ということでもあるでしょう。現時点においては。

いまだ天使にも現実にも遠い、Angel Beats! 第5話

以前にも記したように(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20100421/1271857146)、『Angel Beats!』における語りというのは、基本的にゆりっぺのそれが前提とされてきました。設定や状況などの根本的な事柄について、まずは前提として「ゆりっぺを通して語られる」。天使が天使であるということ、ここが死後の世界であるということ、それらはゆりっぺによって「そうなのだ」と語られており、そしてそれらについて作中では「ゆりっぺがそう言ったから」以上の根拠がほとんど示されていなかったのです。かといって、ゆりっぺが世界の真実を知ってるから彼女の発言が絶対だ、なのかと言えば、そうとも言い切れない。そして前々回・前回あたりから、ゆりっぺは真実を知っていて真実を語っていたのではなく、ただ推測から発言していただけなのではないかということが表面化してきて、さらに今回でそれが決定的になりました。たとえば、「天使はやっぱり天使じゃない」という点に関してですね。

「天使はヒトだ。失意の底で慰めに麻婆豆腐を食べに来る天使がどこにいる。生徒会長の義務から、風紀を乱しまくるあたしたちを野放しにしておけなかったんだ。あたしたちがギルドで兵器を生み出したから、彼女も対抗してガードスキルを生み出し始めた。これが事の顛末か」

今まで天使だと言ってきたのはゆりっぺの推測であり、彼女は天使じゃなくてヒトなのだと。しかしこれもまた、ゆりっぺが「推測する」結論でしかありません。推測から「天使だ」と導き出したのと同じ様に、推測から「ヒトだ」と導き出している。いまだ「ゆりっぺを通したもの」が語られていて、天使(=たちばなかなで)そのものにはまだ遠い。これは「音無くんの語り」においても同じです。

上述のように、今まではゆりっぺを通して語られるというのが前提としてあった、しかしその信用性が揺るがされ、そして――天使に対してあれこれとその想いや印象を言うように――音無くんを通して語られる、というのが今回において(今回から)強く前提として入ってきました。
たとえばこれ。

「食券を一人で買い求めて、この学食の隅の席で、ひとりで麻婆豆腐を食べている、彼女の姿を思い描いてしまったからだ。信用も失い、役目も失った彼女のその姿は、痛々しいほどに、孤独だった」

これは天使(たちばなかなで)の本当の孤独ではありません。音無くんが思う彼女の孤独です。彼女が”本当は”どう思ってるかは分からないはずなのです。自分じゃ孤独とも何とも思ってないのかもしれない、もしかすると(音無が知らないだけで)仲の良い友達がいてその子と一緒にご飯食べるのかもしれない、信用を失ったことなどなんとも思ってないかもしれないし、役目だって失ったように見せかけて、本当は別の役目を持っているのかもしれない。麻婆豆腐だって好物じゃないかもしれないし、学食にだって麻婆買いに来たんじゃなかったのかもしれない。学食で食べないかもしれないし、隅の席だとは限らない。そして何より、天使自身は、そこに/自分に、孤独という感慨を持たず、普通のものとして生活していくのかもしれない。
これは、音無くんを通して語られる、天使の孤独。「思い描いた」というように、彼の幻視でしかないわけです(勿論、その幻視が、現実と同着してしまう可能性はあります。しかし、幻視の方が先立っている)。


少しそのことについて続けましょう。
今回は繰り返し・反復が強調されていました。天丼ギャグでもあった椅子吹っ飛びや、作戦を立てる→紛糾する→喧嘩するなぁ!→音無弁解、というのが繰り返されていたようにAパートから強くそのような指向を見せていました。しかしここでの繰り返しは「まったく同じ」ということではなく、たとえるならばスパイラルのように繰り返しながらも上位・上部・あるいは別のところに達するもの。今回における繰り返しの最小単位であり、記録であるから完璧な再現前である「吹っ飛んだ後のREPLAY」ですら、まったく同じ映像と音が繰り返されるというものではありませんでした。やってることは同じでも、現前と再現前には、アングルは変わり、細部まで描写され、音楽が演出されているという違いが生じている。3回繰り返された椅子吹っ飛びも、毎回少しづつ変わったものになり、作戦を立てる→紛糾する→喧嘩するなぁ!→音無弁解も、やってることは(ざっくばらんに言えば)同じでも、やる度に結果(天使を陥れる)へとどんどん近づいていく。もっとマクロに見れば、今までやってきてそして今回も行った、天使にちょっかい出すといういつもの行動も、ある種の「繰り返し」なのですが、ただ繰り返されて元の位置に戻ってしまうだけなのではなく、「結局、いつものように一方的に俺たちがどたばたと騒ぎ立てて、それで、いつものように落ち着きを取り戻していく。それだけだと思っていた」と音無くんが語るように、繰り返した先に別の場所に至っている。さらにマクロに見て、AB!が死後の世界で成仏したあと生まれ変われるとすれば、それだって命を繰り返していることになるのですが、中身はまったく違ったものになり、居る場所もまったく違うところになるでしょう。

後半のライブパートも、第一話の「繰り返し的」であり、当然歌い手の差異や状況の差異などもあるのですが、ここでは天使を見る音無くんが決定的に異なっています。

「撃ってやる……でも、あんな華奢な体を銃弾で、か……?」

第1話においては、橋を守っていたら天使が現われて、自分が刺されたのを思い出して、「やらなきゃやられる」と思って(思い込もうとして)、目を瞑ったまま撃つ。そして当ったら、(その悲壮さに)もう充分じゃないかと目を逸らす。

対し5話では「撃たない」という違いがあります。第1話の時は、どうしていいのか分からない中、迷いながら迫られながら思わず引き金を弾いてしまう……という感じに、正体不明の天使という存在と一応課せられた自分の任務との狭間で右往左往していたのに対し、第5話では一転して撃たない。それは天使との接触で、彼女は正体不明の化物なんかではないと思ってきているからでもあるでしょう。しかしその「正体不明さの払拭」というのは、音無くんが「思った」天使像――言わば音無フィルターであって、「天使そのもの」にはまだ遠い。真面目に授業受けて、騒ぎには大事にならないよう敏感に反応して、困ってる人に声を掛ける優しさがあって(音無が「テストに不安を感じている」のだと勘違いして声を掛けたように)、頑張ってて、でも孤独な、というのは、確かに彼女の一面ではあるのだろうけど、しかし音無くんの自身のフィルターを通したものでしかない。けれどその分――何者なのかを、音無くんなりに理解した分――正体不明さは払拭された。


ただそれは、「本当の天使(<現実>の天使)」をどっかに追いやってることでもあります。天使が正体不明だった第1話においては、橋の上で、お互いを認識し、同じ目線の高さで、少し歩けば届きそうな距離で、音無くん自身の眼で見たいたように――つまり(何も介さず)直接的にぶつかっているように――、天使が正体不明であったのに対し、音無くんなりの答えを持っている第5話のライブ会場では、高い場所から、天使は音無くんに気付かず彼だけが一方的に認識し、離れた距離で、裸眼ではなくスコープ越しであるというのが暗示的です。相手に気付かれず届かない離れた場所から一方的にフィルターを通して見ている。これは「本当の天使(<現実>の天使)」をどっかに追いやって、自分の見ている天使を見ているということの隠喩的には読めないでしょうか。
天使との接触が、両者(第1話と第5話)において象徴的でもあるかもしれません。天使との接触が、(冒頭で刺された時と橋での攻防にて)刃物越しと銃弾越しでしかなかった第1話。呼び止めようとした天使が音無くんを掴みますが、上着をちょっと掴むだけ、あくまでも服越しでしかなかった第5話。刃と鉛の弾で、お互いに(”すぐ消えるけれど”)傷を負わせられた、――つまり武器を介してだけれど傷つけられるように触れた第1話が、そうであるからこそ何のフィルターも介さず見られたのに対し、フィルターを通すことにより本当の・<現実>の天使を見ないという第5話が、「服を掴んだだけ」の接触でしかないというのは、ある種象徴的ではないでしょうか。


さて、そんなわけで、音無くんが語る天使は、ゆりっぺが語る設定面と同じく、実は本当である可能性もあるけれど、しかし本当でないかもしれない、ただの幻視かもしれない、少なくとも<現実>の天使ではないかもしれないものでした。ひとり学食で麻婆豆腐を食べるという図でもって、音無くんを通して語られる、天使の孤独。「思い描いた」というように、彼の幻視でしかないのです、が、作中では「音無を通した」ものであるというのをあまり意識させない作りになっていました。というのも、「天使を通した天使」という語りが存在せず*1、また「何も通さないで見た天使」という語りもほとんど存在せず強調もされていない(そもそも天使の正体がまだ完全には分からない以上、何も通されないと(この情報量では)何も分からないだけになってしまいかねないという面もありますが)。つまり、作中で描かれる天使というのは、「ゆりっぺ(またはSSSの立場)を通したもの(天使は敵である→あれ、あいつ天使じゃなくて人間じゃね?)」と、「音無くんを通したもの(彼女は何者なのか、彼女と本当に戦っていいのか→もはや可哀そうなくらい孤独だ)」しか存在していないのです。だからそれが、たとえばこの世界や天使などの根本的な設定が、”ゆりっぺが語ったものしか語られなかったからこそ”(=世界や設定について、天使を通した語りも何も通さない語りも存在していなかったからこそ)それが前提として存在できたように、天使のこんな姿も、本当は違うかもしれないけど、それしかないのだから、前提として存在できている。
天使(たちばなかなで)は人間なのかもしれない、天使(たちばなかなで)だって孤独なんだ、ということが明かされるも、それは「ゆりっぺを通したもの」「音無くんを通したもの」でありました。これではまだ、本当の天使にも、何も通さない現実にも、いまだほど遠い。以前、主に傷における映像面において<現実>が剥奪されることについて触れましたが(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20100412/1271013978)、実はそれどころではなく、もっと徹底的に<現実>は剥奪されている。

ここまでもそうで、そしてここもそうだったように、そんなことを恐ろしく自然に、そして当然のことのように、さらに気楽(に見えるくらい)にやってしまうのがAB!なのでしょう。ひとりで麻婆豆腐を食べている絵を入れた瞬間に、「彼女の孤独はあれ(=音無が幻視たソレ)」という式が立ち上がり、天使=たちばなかなでが「本当に抱いている孤独」はどっかにいってしまうのに、些かの迷いなく、いとも簡単にそれを実行している*2。このようなことを当たり前に行うところが少し特徴的です。
たとえば、『Angel Beats!』の世界というのは、わたしたちのいわゆる現実とは別世界であり、社会的なるものも異なっており、本来「自明のもの」が徹底的に壊されている設定です。なのに、これまではゆりっぺによって、世界・社会(的なるもの)・設定がまるで「自明のもの」のように語られてきた。そして今回、(たとえば天使についてとかが)音無くんによってまで「自明のもの」のように語られだしている。これがAB!のカタチでもあるでしょう。「ゆりっぺまたは音無の語り(視点・フィルター)」という、本当かどうか分からない語りで(フィルターで)、自明のものを虚築している。どちらも、ゆりっぺ・音無くんにとってはひとつの真実・解答ではあるかもしれませんが、しかし天使(たちばなかなで)本人には程遠いし、この世界そのもの・<現実>にも程遠い。しかし、繰り返しの先がまったく同じことではなく変化が生じているように、このカタチもいつか変わってくるかもしれないでしょう。その時に見せられるのがいかなるものか・その時に彼らは何を思いどうするのか、そのあたり楽しみです。

*1:そもそも「天使を通した」語りは何も存在しないのですが。

*2:これによりたちばなかなでの本当の孤独は「視聴者にも分からない」という意味で真の孤独になった、とも言えるのですが。

Angel Beats! 第4話の感想

今回だけかもしれませんが、まさかのオープニング変更。(OPでの)校長室の壁に「鎮魂歌」と書かれていますが、これは岩沢さんへのものなのか、あるいは全体にかかるのか、それとも、ひとつ屈折を効かせて(つまり直裁な意味での鎮魂歌ではなく、比喩とか隠喩とかひとつ捻った意味で)、まったく別の何かに・何かにもかかるのか。校長室の片隅に岩沢ギターが置かれていますし、そういう意味で、まずこれは岩沢さんにかかっているのでしょうが……。

    • ちなみに、校長室の「あの位置」に書かれていた文字は、第1話:松坂牛(松屋牛)、第2話:マニア、第3話:俺の嫁、第4話:逆鱗。第1話は肉うどん繋がり、第2話は……なんだろう、第3話は岩沢さんが俺の嫁?第4話はユイの逆鱗に触れて逆エビ、――――とか読めないこともありませんが、無理があるといえば無理があるので、(本編中のソレに関しては)そこまで深い繋がりは意識されてないかもしれません(=緩い繋がりは意識されてるかもしれません)。
    • 前回までのオープニングは天使が演奏するというカタチでしたが、今回はユイが演奏するというカタチ。しかもまるっと天使と入れ替わるような格好で(※前回まではユイの出番なし、今回は天使の出番なし / 天使→キャラ紹介→天使→キャラ紹介→天使…… というOP形式の「天使」の部分が、殆どそのまま「ユイ」に置き換わっている)。造形的にも、悪魔の尻尾とちっちゃな羽を持つというユイのそれは、ある意味天使(から想像されるもの)と対称的であるかのよう。背丈は同じくらいながらも、無口な天使とアホでうるさいユイというように、内面の逆性。さらに、セカンドフライが天使の策略だったとすると、それを(無意識で)止めたユイはまさに天使の真逆、天敵、対称的な存在、となるでしょう
      • …………とか書きつつ、それはどうなのかなーと自分でも思うのですが。たとえばキャラ設定的な対応は(天使とユイで)なされてなくても、アホなユイが思いがけず入念に仕込んだ天使の何かを打破してしまうような(※現に今回がそうかもしれませんが)、そういうような対称性はあるかもしれません。
  • まるでゆりっぺが「理不尽」に見えるのがすごいところ。つーかゆりっぺさんがもう理不尽に酷い人にしか見えないんですケド。もしも上司がゆりっぺさんだったらボクは逃げるよ!
    • 「よし。順当に戦線チームが勝ちあがってきてるわね。みんな死より恐ろしい罰ゲームとやらを怖れて必死ね。滑稽だわ」「天使の思うままにならないことなんてかつてあったかしら……いい気味ね」「天使にフェアにぎゃふんと言わせようとしてたのに……まったく使えない連中ね」「二人とも……消えてくれ」    今週のゆりっぺさん語録。しかも、自分は参加せず命令して遠くから見ているだけなのにこんなこと言っちゃうのが凄いところ。ヤダゆりぺさん上司にしたくないキャラNO.1すぎ……!つーか第1話から思い返してもこのひと、ある意味では理不尽の嵐じゃねーですか……。 ゆりっぺは理不尽に抗う=抗議するために神へ復讐する(と語られている)のですが、しかしその行動は、何処かの誰かに理不尽を強いることになっています。理不尽に抗うものもまた、誰かにとっての理不尽である。よりによって先週「神なんていないかも、あの子は天使なんかじゃないかも」と言った後の今週コレですから、よりです。この行動が、天使への嫌がらせ(よく言ってもせいぜい牽制)のように見えてしまう(実際「天使の思うままにならないことなんてかつてあったかしら……いい気味ね」「天使にフェアにぎゃふんと言わせようとしてたのに」―――この発言ですからね)。もちろん、こういうゆりっぺが強調されているのはワザとだと思われるのですが。たぶん。
  • さらにNPCが良く分からなくなりました。本当にNPCかよ……あるいは、NPCという言葉の内実はどういうものなのだろうか、的な意味で。特に生徒会副会長なんかはどうなのでしょう、NPCというより天使と同じ部類の何かと捉えた方が近そうな気がします。
  • 指一本で竹箒を支え続ける(ぐらぐらと揺れながらも、最後まで)――というのは、のちのち椎名さんの内面を考えるに重要に(メタファー的な感じで)なってくるかもしれないなと思いつつメモ。
  • 打球をそのまま弾き返す、ボールを全力で投げ返す野田と音無――というのも、二人の関係や野田の内面を考えるに上と同じになってくるかもしれないかもと思うのでメモ。

「何があったんだ」「わかんねえ。よく覚えてねえんだ」
「それを捕れたのか、落としちまったのか、それだけは思い出せねえんだ」
「いや、捕れてたんなら忘れるわけねえよな」
「きっと捕れなかったんだ」

そこから、(思い出される、)続き(の記憶)。
勝山さんが「フライが取れたか取れなかったかに関する記憶と、その後の記憶が同質のものなのかが判断できない」(http://twitter.com/katu_peke/status/12717510803)と仰っていて、確かに、これ、描かれ方を見ると何かひっかかる部分があります。覚えてないとかいいつつ、そして実際に覚えていなかったのに、「いや、捕れてたんなら忘れるわけねえよな」「きっと捕れなかったんだ」と(モノローグで)言った直後に、「捕れなかった」続きが挿入される(しかも「思い出した」とかそういう独白は無しで、唐突に)。
「きっと捕れなかったんだ」ではじまる続き、これは本当に日向の生前の出来事なのか、あるいは、そうだとしても、この映像は日向が思い出しているソレなのか? という疑問が入る余地があるような作りではあります。またこの挿入のされ方も、なんか変な唐突さ。まるで、「きっと捕れなかったんだ」、ここで分岐したかのよう(「捕れてた」と日向が思えば、捕れてた続きがはじまっていたのかも、と思わせるくらい)。

や、そんな意味はないかもしんないですけど。なんか邪推させるなーと思っただけでw


さて、最終回ツーアウト1点差ランナー2・3塁で簡単なセカンドフライという状況、これが偶然であるのか、あるいは天使ちゃんなり副会長なりの誰かが狙ってやったことなのか。路上に出ていたときの彼女と被る姿になったら、急に不自然に教師が立ちすくんだ、岩沢さんのときもそうだったのかもしれません。「成仏する」ような状況を作り出している誰か(=天使)がいる。
かもしれないし、そうじゃないかもしれない、というところが相変らず面白いですね。ABはいつもこう、推理したり考えたりする要素を提示してくる作品で。
さて、天使の策略だったにしろそうじゃなかったにしろ、いずれにせよ、日向の「成仏するかも」を止めたのは、ユイのまるで空気を読んでいないかのような行動でした。別にユイは、日向がボール捕ったら成仏しちゃうかも*1しれないから強引に止めたのではなく、アホだから隙ありーと言って攻撃に移っちゃった*2。最終回一点差一打逆転のピンチでこんな行動するなんて誰が考えつこうか。アホが考えつこう。つまりアホが、死(=終わり)をも打破する、乗り越える。定められた終わりという限界を、アホが無意識に超越していく(可能性を持っている)。

ですがそうなるのは条件があって、たとえば今回、何でユイがここで攻撃に移ったかというと、端的に言えばこれまで日向に散々攻撃をくらったすの仕返しなんですが、もうちょい細かくみてみると、その直接的な動機が浮かんできます。

1回目・「ゆいにゃん」 → 日向「そういうのがムカつくんだよ」 → ユイ「ギブギブギブ」
2回目・俺らも途中参加させてとお前もお願いしろよと振ったら、「本気でこいや」とユイが大挑発 → 日向「ドスきかせてどうすんだよ」 → ユイ「か、間接が砕けます、ホームランが打てなくなります」
3回目・生徒会チームに「頭洗って待っとけよな」と挑発 → 日向「お前は2三振だったろうが。あと洗うのは首だ、頭だったら衛生上の身だしなみだ」 → ユイ「い、痛いです〜」
4回目・音無が松下五段を勧誘して外野の守備につけさせたのを見て → 日向「よーしよくやった。これで外野の守備もバッチリだぜ」 → ユイ「あ〜痛い痛い、なんでアタシが〜〜!ギブギブ!あとで殺す」

「あとで殺す」という思いをユイに抱かせたように、4回目のが決定打になっているんですね。そして4回目は、これまでと異なって何の脈絡もない。これまでは一応、ユイに対するツッコミ的な意味合いで用いられていて、実際4回目だけに「なんでアタシが」「あとで殺す」が入るように、それまではユイ自身も何で攻撃されるのか分かっている・道理が立っているものだったのですが、4回目の日向の攻撃、松下五段が加わったときは、ツッコミでも何でもないというか何の脈絡もない卍固め。これが「あとで殺す」→セカンドフライを見つめる日向の隙をつく、に繋がっているのでしょう。たとえば、松下五段加入のときに日向がユイにとってはやられる道理がない「理不尽な」卍固めをしなかったら、果たしてユイはあの時・あのタイミングで仕返しをしようと思っただろうか。ぜってー仕返ししてやると思わせるだけの(ある意味アホな)行動を日向が取ったからこそ、あそこでユイの攻撃が生まれた。アホなら勝手に終わりを乗り越えるのではなく、そんな行動をさせてしまうくらいのアクションを既にこちらが取っていたから、ということでもあるのでしょう。

*1:実際にボール捕ってたら成仏しちゃったのかどうかは不明ですが。

*2:ちゃんと分かってて(けどアホに見せかけて)やった可能性も勿論ありますけど。

キーボードが「だいじょうぶ〜」と言ってる問題について

実際にキーボードは「だいじょうぶ〜」なんて言わないし、そのように聞くのも難しいけれど、その音色を唯は、「だいじょうぶ〜」と聞こえたと述べる。
この包み隠しっぷりが非常に面白いと思うんですよ。
第2話の感想(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20100416/1271348859)に書いたのですが、深刻さだったり、痛みや傷や悲しみだったり、そういうのを存在させながら、直接に映さない=前景に置かないことによって迂回させてるor隠蔽しているように思うのです。デフォルメや可愛さや萌えなどで覆い隠してる。

そもそも微妙にズル優しいんですよね。たとえば、第2話冒頭(アバン)、部室のダンボールを片していたら、崩れてしまって(恐らく)律っちゃんのところに落ちてくる、なんてシーンがありましたが、しかし……

積み重なってるダンボールが落ちてくる悲惨な瞬間は映さない。これだけ映せば「ダンボールが崩れた」ってことは分かるけど、それがどう崩れて律っちゃんにあたって彼女が可哀そうなことになったかは決して映さない。こういうズル優しさが垣間見えます。たとえばデフォルメ化に関しても、唯が泣くところは何回か映されていますが、そのほとんど全てがデフォルメ化された泣き顔ですしね。リアルな泣き顔だったらとてもじゃない、深刻で見てられないくらいなんだけど、デフォルメされた泣き顔はそこにある悲しみも傷も痛みもデフォルメ化している。
はじめからそういうものが存在しないわけではない。泣き顔も在るし、失敗や痛みも存在する。1期13話に代表されるように、上手く行かない失敗も存在するし、11話に代表されるように軋轢が生じる痛みも在る。泣き顔なんてしょっちゅう存在している。そして今回、お金をちょろまかすというように、(年相応の)せこさやずるがしこさが在ることも見えてきた。しかしそれの見せ方は、本当にどうしようもないことまでにはならなかったり(たとえば1期11話・13話のように)、本当にどうしようもないところをそもそも描かなかったり(たとえば1期9話、入部した梓が軽音部の姿勢にとまどうという話。迷って、悩んだ梓は、唯「最近あずにゃん来ないね」澪「もう来ないかもしれないな」というように、一時期、軽音部に来なくなるのですが、この第9話は”そこが語られません”。軽音部室に向かわないで、悩んだり迷ったりしているであろう梓をほぼ全く映さず*1、その期間をほぼ全く映さず、いきなり、数日後だか数週間後だかの「最近来ないね」という場面にまで時間が飛んでしまう=数日間だか数週間だかのあいだ悩んだり迷ったりしている梓が存在してない)、そしてこの第2話のように、本当にどうしようもないところを迂回して安全に見せるということ。そこでは痛みや傷、悲しみや悪意がある濾過されている。

前回書いたこと(ちょっとだけ文章いじりましたが)。
言うなれば「描写の暴力性」。本当は、50万ちょろまかすとか結構深刻なことだったり、入部直後の梓の悩みなんかももっと深刻だったり、唯がマジ泣きしてたりするんですけど、この描き方がそこら辺の「深刻さ」を隠蔽している。変わりに前景化するのが、可愛さだったり萌えだったり、あるいは軽音部の仲間内での雰囲気・仲良しさだったりそれぞれのキャラクターだったりという*2、言わば「けいおん!」のけいおん性で、それによってその辺が塗りつぶされる・上乗せされる。そんな所が楽しめると書いたわけです。

喩えるなら、キーボードの音色は、それぞれの音でしかなく、「だいじょうぶ〜」と言っているわけがなく、またそれを「だいじょうぶ〜」と言っているように聞くことも難しいのだけれど、唯が「「だいじょぶ」に聞こえた」ように、提示・添付されている。ここで重要なのは、キーボードの音色そのものは残ってるという点です。まるで「だいじょうぶ〜」に聞こえないキーボードの音色そのものは存在している。その上で、そこに「だいじょうぶ〜」という解釈を上乗せしている。

しかしその逆の見解もあって(http://nekodayo.livedoor.biz/archives/1154115.html*3、非常に面白いなぁと思いました。僕が深刻さが塗りつぶされるのが面白いというように、その逆、塗りつぶされた隙間から見えるモノが面白いというのも当然ある。

唯が「だいじょうぶ〜」だなんて言ってるけど、本当はただの音じゃないか、と。その、(唯の)解釈により隠されている方もまた面白く、価値も意味もある。


その両義性が、より面白いですね。

実際のところ、何が「現実か」というのは、主体をどこに見据えるかで大きく変わってくるでしょう。たとえば、キーボードの音はただの音だ、「だいじょうぶ〜」なんて言っていない、というのは一つの現実でしょう。また、俺には「だいじょうぶ〜」と聞こえない、というのも一つの現実。そして、唯には「だいじょうぶ〜」と聞こえた、というのも一つの現実なワケです。

アニメのカメラ*4はここにおけるひとつの主体と考えられて(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20090122/1232557200)、ならばこの映像には、言うなればカメラに・ないし描き方によって、ある種の象徴的秩序が押し付けられている(もしくは提示・添付されている)ような状態でもあるかと思うのです。深刻さを隠蔽する、というのはつまりそういうことで、何かの出来事をある観点*5から描いているのだから、当然、その観点によって意味付けられ・価値付けられ・脚色されている。けいおんにはけいおんの、出来事に対する作品の認識の仕方=描かれ方というのがある。

50万円をちょろまかそうとした悪意(せこい、くらいのレベルかもしれませんが)がある。本心では新入部員が欲しいところもあるけれど気を遣って黙っている梓がいる。今回でいえば、集合写真で並ぶ順番無視して割り込んじゃうのもあんまりお行儀良くない(しかもそれを「良いクラス写真」なんて言っちゃうもんだから、余計に)ものではあるんですが、しかしそういったものの上に、たとえばキーボードの音が「だいじょうぶ〜」と聞こえたみたいな、「けいおん!」的な解釈を乗せて、それが画面に映し出されている。萌えや可愛さだったり、あるいは仲の良いところやそれぞれのキャラクターだったりといった「けいおん*6」が前景に出て、結果それらが隠蔽されるように後景に押しやられる(しかし無くなったのではなく存在している)、というのが面白いと思うんですよ。つか、この式があれば、もうどんな内容でも面白いんじゃないかと思えるくらいなんですけど。

これはまるで「欺瞞」みたいですよね。実際にお縄に捕まるほどじゃなくても、道徳的に悪いこととか、あんまり上手く行ってない部分とかあるんだけど、それを「けいおん!」の色で塗りつぶしている。でもそれはそれで一つの味でもあると思うんですよ。「代償」「生け贄」というと言葉が悪いですが、捨てるものがあれば残るものは相対的に・あるいは剰余享楽的に価値を持つ(たとえば軽音楽部なんだから部活に打ち込め・音楽を真面目にやれというまっとうな意見がありますけど、軽音楽部なのに部活に打ち込まず音楽を真面目にやらないというのが、そのまっとうさを代償にした価値を前提的に生み出してはいる)という面があるように、深刻さを後景化することで前景が前提的に価値を持つというのもあるんですけど、しかし考えてみれば、この欺瞞のようなものそのものが彼女たちの「現実」でもあるでしょう。キーボードが「だいじょうぶ〜」と喋るのが唯の現実であり、クラス写真取る時のあんまお行儀良くない態度も、それに気づかずに・それを省みずに「良いクラス写真」と思ってしまうのが彼女の現実であり、また、50万ちょろまかそうとしたのを、決定的な深刻さにならない程度の漂白するのが「けいおん!!」の現実であり、梓が折れるのを「梓は折れてるんですよ〜」という深刻さを見せておきながら、それ以上の深刻さを見せないのが「けいおん!!」の現実でもある。

そのけいおん色の裏に見える深刻なもの、”隠されているから”、そっちの深刻さの方が現実のように見えてしまいますけど、しかし少なくとも、唯たちにとっては、「けいおん!」にとっては、そっちだけが現実ではないでしょう(言うまでもなくそれは「現実的」ではありますが)。

深刻さを後景に追いやれば、萌えや可愛さ、キャラクターや放課後のティータイムが愉しめるし、逆に、それを生け贄にしてターンエンドすれば、今度は深刻さを愉しめる。たとえば「あずにゃん問題」にはぶっちゃけそういう面があるかと思います。梓が、折れるとか妥協するという部分も孕みながらも自分で決めたという決断=梓の現実、それを無視しなければ(その上でそこを作品における論理という問題の場に持ってこなければ)、それは問題化さえしない。


なんか長くなったのでしめますと、現実にキーボードが「だいじょうぶ〜」なんて喋ってはいない、けれども、唯にとってはキーボードが「だいじょうぶ〜」と音を鳴らしたのが現実であって、「けいおん!!」においては、キーボードが普通に音を鳴らしたのを唯が「だいじょうぶ〜」と感じた、というのを提示したのが現実である。それをどう愉しむかは、意外なほど、こちら側の裁量に委ねられているのではないでしょうか。

*1:いちおう、ライブハウスに出向くシーンがありますが。

*2:前回は萌えや可愛さしか思い当たらなかったけど、こういうところも当然あるなぁと思ったので前回から追加。

*3:ひとつだけフォローさせて頂きますと、引用された部分はそういう意味じゃなくてですね、あそこに書いた<現実>ってのはまさにラカン的な(ザ・リアル的な)意味ででして……って但し書きも無しでそんなもん分かるかというレベルですよね、すみません。なので改めさせていただきますと、アニメにおける描かれ方というのは、その時点でひとつの象徴的秩序の押し付け(あるいは提示・添付)のようなものだと思うのです。その奥に<現実>が垣間見えるようではありますが、しかし実際<現実>は見えていません。というか、この描かれ方の所為で、<現実的なモノ>としての境位が徹底的に迂回されてしまいます(というか、「描かれ方」というのが既に一つの象徴的秩序である以上、どう描こうが、<現実的なモノ>は垣間も見えず(<現実的なモノ>の身振りをした何か、にしかならない / <現実的なモノ>ではなく、<現実的なモノ>の身振りをした何かであるからこそ、そこに「実は裏では……」的な幻想を抱けるわけで(その時点で何かしらの象徴的秩序の中に回収されている))、もし垣間見えたとしても、それは”この象徴的秩序(における)”の方に回収されてしまうでしょう)。つまり、「<現実>との出会い方」――「出会い損ねている事実が普通に、私達が実生活で経験しているのと同じ様に隠蔽されている出会い方」が在る、ということです。ただ、この見解は、象徴的秩序こそを愉しむという僕の見解なので、確かに、逆の方を見るのであれば、見解も逆になるでしょう。

*4:どこをどう映して、どこをどう映さないか、といった人の(作り手の)判断込みで。

*5:仮に。「ある観点」だなどと限定的に指標付けられるものではないかもしれませんが。

*6:仮称。大それたネーミングでごめん。なんかいいのが思いつかなくて。

Angel Beats! 第3話の感想

岩沢さん



岩沢さんの、生前の回想に出てくる「ひと」の描かれ方が興味深かったです。顔が映されない、特に目は決して映されないというのもありますが、その「動き」もまたおかしい。上に引用した画像のところなんか特にですね。岩沢さんがお皿を落として割ったというのに、誰も声をかけず、動かず、ただ見ているだけ。岩沢さんが立ちくらんでも、そう。そして岩沢さんが倒れても、同じく。駆け寄るどころか、何らの反応も示さない。これがはじめから「見てない」というなら分かりますけど、見ていて、この反応(の無さ)。人間とは思えない。これじゃまるでNPC
学校の先生も、オーディションの審査員も、バイト先の同僚も、病院の先生や看護士も、両親も。顔がない。眼がない。そして動きがない。動かない。バイト先の同僚が何の反応も示さないように、両親は押し引きする動きをパターンのように繰り返すだけで、喩えるならば、まるでNPCのように、決められた動きしかしない。

……とはいえ、これが「本当」だと断じてしまうには早い。実際に、現実に、この動き・描かれ方と同じように、両親はパターン的に押し合いへし合いしていて、バイト先の同僚は倒れてもシカトしてくる奴らだった――というのは、どう考えても無理がある。「本当に」みんなこんな動きをしていたのか? とは到底思えないという意味です。本当の動きからは歪めて描かれているのではないだろうか。事実、顔が描かれない・目が描かれないように、「本当」からは歪めて描かれている。ならばこれは、「本当にそう」だったのではなく、「岩沢さんの認識」だったのではないだろうか。

これは、本当にこうだったのか、それとも、これが彼女の認識――「彼女の世界」なのか。彼女が見た世界、彼女にとっての世界。



岩沢さんが衝撃を受けた音楽を聴いた瞬間。彼女が「死んだ(と目される)とき」も、ベッドの上の彼女を残して世界は黒く消えるという、同じ表現したが、ここの表現は象徴的なのかなと思いました。岩沢さんの中の、衝撃が可視的に表現されていますが、この時、「世界はなくなってる」んですよね。周りの風景・背景=彼女のすぐ傍に実際にあるもの=世界が、消えて落ちてる(「全てが吹き飛んでいくようだった」という彼女の言葉通りに)。逆の場合を想定すれば分かりやすい。世界が残されたままなら、世界の中に居る私が受けた衝撃という図式に読めても、世界が消え去ったのなら、世界が消え去るほどの衝撃、あるいは、”世界など関係なく受けた衝撃”。ややこしい書き方になりますが、これは、実際に世界がなくなってるんだから当然ですが、(世界における)自分が受けた衝撃が世界における自分に在るのではなく、世界と関係なく=世界が消えても自分に在る衝撃でしょう。だから岩沢さんは、死んだ後でも(世界が消えた後でも)まったく関係なくその想いが引き続いてるし、それが彼女にとって、世界が消えた後でも「生まれてきた意味」として機能しているし、自分が消えた後でも続いている。そういうカタチの衝撃なら、たとえば、両親の・両親との仲が良くなろうが大金を得たりしようが、そんなことと関係なく、彼女の在り方=歌い続けることは変わらないと考えられるということです。それは勿論、実際にそうなっているように、たとえ死のうが。死んだ後でも。そして、死んだ後にさらに消えた後でも。

これがあたしの人生
こうして、歌い続けていくことが、それが、生まれてきた意味なんだ
あたしが救われたように、こうして誰かを救っていくんだ
やっと……やっと、見つけた

生まれたきた意味――この場合*1、「生前の」生まれたきた意味と、「今ここ」にいる生まれたきた意味。その両方、というか、その両者は同じというか。それは、この世界でも叶えられてるし、だから、この世界でも”見つけられた”のでしょう。生まれてきた意味を見つけてしまって、それを*2受け入れれてしまったら、もう運命に抗うことはできないんじゃないでしょうか。(実際のところの消える理由が何なのかは分からないので、仮にですが)
あたしが救われたように、こうして誰かを救っていくんだ。それは、「彼女たちの音楽が支えになってるの」とか、「そうよ!ガルデモのライブは、私達にとって唯一の楽しみなのよ!」というNPCのセリフが実証していますね。

ユイが『crow song』(第1話で挿入されてた曲)について「歌詞もですね、まさに岩沢さんのことを……」と言っています。

いつまでだってここにいるよ  通りすぎていく人の中  闇に閉ざされたステージで  いま希望の歌うたいたい  あなただって疲れてるでしょ  その背中にも届けたいよ  こんな暗闇の中からも  希望照らす光の歌を  その歌を
(ラストの部分。聞き取りなので、本物とは歌詞違うかも。)

本編ではユイのセリフは途切れていますが、文脈的にも、「岩沢さんのことを表しているかのように……」とか、そんな感じに続くかと思われます。ユイがどれくらい岩沢さんのことを知っているのか・親しいのかにもよりますけど(これまでの描写を見るとそんなでもないかのかな、と思いますけど(第1話とかスタッフにも遮られ岩沢さんに見られることもないおっかけレベルの描写だったし))、この発言は多分、岩沢さん自身のことではなく、「ユイから見た」岩沢さん自身のことを意味しているんじゃないかなと思うのです。というか、ユイが岩沢さんのことを深く知らなければ、エスパーでもない限りそうなる可能性が一番高い。しかし、最終的には、「岩沢さん自身」のことにもなった。

「音楽が支えになってる」「ライブが唯一の楽しみ」というセリフが、暗に示していますね。また、このライブに大量の生徒が集るという事実も。ライブが唯一の楽しみで、それを妨げようとする生徒会長や先生に反抗する。音楽が自身の支えになっていて、それを妨げようとする生徒会長や先生に反抗する。生徒会長や先生に反抗するくらい音楽・ライブが楽しみで、支えになっている。ということは、翻れば、もしかすると「それほど酷い」状況にいるのではないでしょうか。全員が全員ではないでしょうけど。少なくとも、この発言をしたNPCの彼女にとっては、この世界で生きていくことは、”そんな支えが要るほどに”、辛いものだった。厳しいものだった。―――ならば、つまり、『crow song』は(岩沢さん(ガルデモ)のライブ・楽曲は)まさに、暗闇の中において希望照らす光の歌、だったのでしょう(そして多分、それはユイにとっても、ある程度は)。
そういった、この「歌によって希望を得ること」。それは「こうして誰かを救っていくんだ」ということと同じですね。実際に、岩沢さんの(ガルデモの)歌は、こうしてNPCの彼女たちを救っている。


では生きる意味・生まれてきた意味を知り、理解し、納得したら消えるのか。公式サイトで天使が語るように(http://www.angelbeats.jp/story/「どうか、彼らが、彼らの物語を終えられますように。手を振って、見送れますように。よかったね、と。」)、それは「物語を終えられたこと」なのか。周りが自分に見い出すものと、自分が自分に見い出したもの、それが合致し、自分の意味が完成した瞬間に岩沢さんは消えたのですが、それが「消えること」にどういう意味を持つのか(てゆうかこの理解はどこまで妥当なのかw)。まったく正中が掴めないのですが、それこそが、現時点でのAB!の物語面の魅力のひとつでもあるんですよね。

inゆりっぺアイ、out天使アイ

さて、こうなってくると、見事にNPCという定義の「怪しさ」が浮き彫りになってきますね。音楽が支えになって、ライブが唯一の楽しみで、その為には生徒会長や教師に反抗する。そんなことを思い、そんなことをする奴等が、本当にNPCなのか? と。
そもそも「NPC」というのは、ゆりっぺが推測的に導き出した回等だと考えられます。一般生徒のことを「NPCだ」と説明した後に、ゆりっぺはこのように続けます。「たとえよ。連中はこの世界に最初からいる模範ってわけ」(第一話)。NPCって名称はあくまで「たとえ」なワケですね。人間となんら変わらないような反応をしてくる。けれど模範的な行動ばっかで、変な行動はしない。そんな奴等がいたら、たしかにNPCと喩えたくなる―――ですが、それはあくまでも「たとえ」。本当に「NPC」だとは限らない(勿論本当にそうかもしれないけど)。
Angel Beats!』の設定などの説明は、基本的にこうなんですよね。「ゆりっぺの口から語られてる」ものばかり。天使が天使であることにしろ、ここが死後の世界であることにしろ、「ゆりっぺがそう言ったから」以上の根拠が示されていない。それでいて、当のゆりっぺとて、世界の真実や本当を知っているワケではなく、状況証拠からの推測で語っているように思える―――けれど、音無くんが来る以前の「この世界」の様子が”ほとんど語られない”以上、どこまでがそうなのか分からないように出来ている。
生前の記憶があることから、ここを死後の世界と推測したのだろう。その世界で私達を成仏させようとする奴がいて、じゃあそれは天使だろう。模範的な行動しかしないのだから、あいつらはNPCなのだろう。自殺の記憶を持った奴がいないのだから、自殺した者はこの世界にいないのだろう。 という推測から、ゆりっぺの結論(仮説)が導き出されているように見える、けれど。 全てが推測なのではなく、ある程度は世界の真実・設定を(何らかの理由で)知っていて、それを語っているのかもしれない。

このあたりが非常に上手いです。真実を語っているのか、憶測を語っているのか、憶測だけどそれが真実ですという正解を語っているのか。その正中が、掴みきれないように出来ている。たとえば、NPCがライブ・音楽に熱狂すること。「模範」の奴等が生徒会長や先生に逆らってまで音楽に熱狂するってことは、奴等は「模範」ではないんじゃないか?―――つまり彼らは本当に「模範」なのか? 本当にNPCなのか? という疑問が生じてくるのですが、しかし、生徒会長や先生に逆らってまで音楽に熱狂する・あるいは自分の大事なものの為なら生徒会長や先生に逆らえる、という姿勢まで含めて「模範」なのかも? という疑念も生じてきてしまうのです。いまやネット上には物語が二・三十本書けそうなくらいAB!の真相案が溢れていますが、その辺はこのように、信頼していいのか分からない真実の語り手を配したところにもあるでしょう。そして、このような世界・設定・真相の語られ方―――つまり、ゆりっぺの目を通したものが語られるという語られ方(あるいは、はじめに提示されたものはゆりっぺの目を通したものであった、という語られ方)、そして対するように、質問に答えることはあっても、攻撃に防御や反撃をすることはあっても、外側から見たそれしか語られないように、天使の目を通したものは何も語らない。あくまでも現時点ですが、これにも先々、意味が生じてくるでしょう。

以下、箇条書きでメモ。

  • OPの部屋は天使の部屋でほぼ確定。ただ、まったく同じ間取りで部屋にあるものも同じ部屋が他にもあって、そこかもしれないとか、(ここが死後の世界だとすれば)現世で「同じ間取りで同じモノが置かれていた部屋」、つまりこの天使の部屋のモデルになった部屋がある可能性もあって、意味としてはそちらを指しているのかもしれないなどありますが、そんなこと言い出すとフツーにきりが無いのから没で。
  • NPCとSSS(除くガルデモ)の関わらないっぷり。SSS側はNPCを、利用するけど、直接接触しないし、NPCの方からもしてこない。実際、音無くんに関しては、彼らと一度も触れる・喋るといった関わり合いを持っていないかもしれない。こうまで「離している」のは、彼らは本当にNPCみたいなもので、描く必要がないからそうしているのか、あるいは、何らかの含みがあるのか。まるで「陽動」のガルデモが、そういった接触も含め全てを陽動してしまっているかのよう(しかしガルデモですら、触れられるのは「歌」だけですが)。
    • 対し、今回がそうだったように、天使はNPCと関わっている。直接的に言葉も交わす。この接触性の落差は何なのか。
  • 「まるで悪役ね」と、天使。このセリフから考えるに、「まるで」というのだから、彼女は自分のやってることが「悪い」とは微塵も思っていなのでしょう(実際に悪いことなのかどうかは措いといて)。それどころか、彼女自身としては、「正しく導いてる」つもりでやってるようにも見受けられます。つもりというか、正しいのだと、確信している、かのよう。
    • 彼女が天使ならば、それは神から授かった正しい役目だ、という理由が簡単に導けますが。彼女が天使でないのだとしたら、果たしてどういう理由でこれを行っているのか。実はこの学園の生徒会長の責務だ、とかかもしれませんがw
  • なぜSSSは制服を変えるのか、変える必要があるのか。視聴者にとって分かりやすいとか、そういう物語外の要素を排除したところでの理由。制服を変えれば、結束を高めるみたいな効果はあるとしても(プラス反抗のファッションかもしれない)、天使に「敵」だと一目でバレてしまうのに――と思ったけど、なんか「そうでもないような」感じもします。なんというか、天使はSSS自体を「敵」と認識しているのか、はたして、といいますか。なんらかの基準の違反行為者に対して現行犯的な是正活動はするけれど、後からはしない・ないしあまりしないのかも。じゃなきゃ、作戦活動外のとき、SSSがその辺に居るだけのときを天使が狙ってこないというのはちょっとおかしい。制服変更は、NPCNPC性(人間だったらそこに疑問を持つだろ)を高めてはいるけれど。
    • あと、こんな風に簡単に制服を変えるくらいなのだから、制服はそれこそ「土くれから」簡単に作れるのだろう、と予測される。
      • パソコンとかも「土くれから」作ったのだろうか。もちろん「土くれから」というのは比喩表現であって、つまりこの世界のモノを作るルールで作ったのか、ということ。ガルデモライブの学生ライブにあり得ないレベルのやけに派手な舞台装置もそうなのでしょう。
  • 天使パソコンの生徒データの、成績という項目が成仏的なアレなのか。
  • 岩沢さん居なくなった後、「天使に消されたのか?」というセリフがあったことから、恐らく天使は「消す」能力を持っている。あるいは、天使と接触したことで消された者が過去におり、そこから、天使はそういう能力を持っていると(SSSのひとに)推測されている。
  • 「そこから導き出されるのは、最悪の設定だ」。神がいないことが「最悪(の設定)」である――――――神がいなければ、反抗する相手もいなくなり、反抗する理由すらなくなってしまう=「運命を設定する者=神」がいないのならば、運命に対し異議を唱える対象がいなくなってしまうどころか、運命というもの自体が無くなってしまう。ならば、運命というものに対する、文句も意義も唱えられない*3。つまり、ここまでの抗いも、この先の抗いも、全く無意味、端から見ればワガママにしか見えないということ。つうか僕には、居るんだかどうかも分からない神を根拠に色々とやって天使にちょっかいかけるSSSの方がむしろ「理不尽」に見えるくらいなんですけど―――たぶんワザとそうやってるんだと思いますけど。「理不尽に抗うものもまた、誰かの何かを理不尽に侵している」という構図がそこにはあります。神(ないし、それに該当するような存在)が居ないのなら、それは加速するばかりになると思いますが、はたして。

*1:死後の世界という前提でいうと。

*2:なにせ自分がそれで救われたのだから、受け入れざるをえない

*3:たとえば強盗のように「ひと」に対してならば唱えられるだろうけど。

いつか澪が先生として桜高に帰ってきたとき、彼女は「学園祭でのあの衣装」の写真を黒歴史として屠るのだろうか

けいおん!!』第2話、面白すぎるだろ……!
てゆうかなんかもう、『けいおん!!』に関しては何やられても「面白い」と言ってしまいそうな気がします。どうでもいいかのような日常の積み重ねを見て「面白い」と感じられる。ならばもう、何やられても「面白い」と感じてしまいそうです。

しかし考えれば考えるほど「さわちゃん先生」は面白いです。さわちゃんはかつての軽音部員だったんですけど、彼女にとって過去の軽音部は黒歴史として語られてるんですよね。さわちゃんが元軽音部員と明らかになったときに、「今はおしとやかキャラで通してるのに、あの(はっちゃけてた頃の)封印された過去が発掘されるなんてー!抹消しないと!」という行動をしていたように。

今の、仲良く、どうでもいいような日常すら楽しく描かれている軽音部の顧問が、軽音部時代が黒歴史としてしか語られていないさわちゃん先生*1

でもそれは、黒歴史のところが(ところだけが)語られているだけで、さわちゃんにとって軽音部時代が本当に黒歴史だったのかは分からないんですよね。あの「ワイルド」系だった頃の自分は、写真を屠ろうとしたように、確かにある程度以上は黒歴史なのかもしれない。けれど他については、何も語られていません。軽音部が嫌だった、軽音部は黒歴史だ、そんなことは語られていない。むしろ、直接的な言及はないですが、自身の軽音部時代を忌避してるようには見えないですよね。元軽音部員だったことがバレるまでは必死に隠そうとしていましたが、一度バレてしまってからは開き直ったかのように隠そうとはしませんし、むしろ、唯の特訓に付き合ったり文化祭でヘルプに入ったりと、「自分が軽音部だった頃のスキルを生かして」まで協力的です。それどころか、この第2話で久しぶりに「黒歴史写真」が出てきましたけど、そのときの反応(梓は初見なのに!)を見る限りでは、世間一般にバレるのは嫌かもしれないけど、身内=軽音部の人たちなら幾らバレてもいいし、写真をこのように扱われても怒ることはない、そのくらいに彼女の中で消化できてるのかもしれません。

それでもやっぱり語られることはない。写真(とそれに伴うワイルド系の自分)が黒歴史だからといって、軽音部時代全てが黒歴史だったとは限らない。けれど、語られることはありません。さわちゃんにも、軽音部の仲間とくだらないことでワイワイやったり、ファーストフード行ってだべったり、ホームセンター行って買い物にはしゃいだり、そんなことがあったかもしれない。合宿をおこなったり、頑張って楽曲を作ったり、ワイルドな自分になるために軽音部の仲間と試行錯誤を繰り返したのかもしれない。それは今、唯たちがやってることと、内容は違うけれど本質は同じ。輝かしい部活動と学園生活の記憶。しかし語られることはない。そもそも、彼女はどのくらいその頃のことを覚えているだろうか。

たとえば6〜7年後(つまり今のさわちゃんと同じ年齢)の唯たちが、今日*2のことをどんだけ覚えているだろう? ギター売ったら50万になって思わずちょろまかそうとしちゃった、なんて大きな出来事は、記憶に曖昧な部分とか生じるかもしれないけど、それなりに覚えている可能性は高いでしょう。けれど、たとえば、今日ホームセンターに行ったことを覚えているだろうか? はじめて行って大興奮だったムギなら覚えているかもしれませんが、それ以外はどうだろう。電動ねじ回しを銃に見立てて二人は死にましたーとか、ヘルメットのライトを澪に当てて遊んだこととか、大人になった唯は、律は、覚えているだろうか? きっと覚えてないだろう。むしろ、こんなカバンを前に背負うという変な格好して電動ねじ回し銃とか、覚えていたら黒歴史ものなんじゃないだろうか。

さわちゃんが写真を破棄したがったように、6〜7年後の唯もこれを破棄したがってしまうかもしれない。
けど、それが輝かしい。『けいおん!!』の大部分はそういうものの積み重ねで出来ているけれど、それが『けいおん!!』の中身として、輝かしく存在している。語られなかったさわちゃんの軽音部時代と、本人すら覚えていなそうなその頃のささやかな事々、未来には黒歴史として始末されたくなるようなシロモノ、『けいおん!』はそれらと同じものでもあった。

いつか澪が、あるいは梓が、もしくは律が、――唯と紬はもともと恥ずかしがってなかったから大丈夫かもだけど――、いつか彼女が桜高に教師となって帰ってくることがあったとして。学園祭でさわちゃん先生作の恥ずかしい衣装を着ていた自分の写真が、そのときまだ軽音部室に残っていたとして。彼女はその写真を黒歴史として屠ろうとするだろうか。屠ろうとするかもしれません。けれど、写真を隠滅しようとしたからって、写真が黒歴史だったからって、軽音部で過ごした時間も黒歴史とは限らない。―――しかし、それは今のさわちゃんのように、語られることなく、彼女自身詳しい出来事を記憶しているかどうかも定かではなく、ただ否定せず、さりとて語られず、残るものになるのではないか。
僕らが『けいおん!!』で見てるのは、たとえばそんな時間なのかもしれない。

*1:アニメ第2期第2話までにおいてでして、原作は(3巻以降を)読んでないのでどうなのか分かりませんです。

*2:正確にはこの3日。

『けいおん!!』第2話について

憂×唯ファンとしては、あまりにもあからさまなサービスカットでもまんまと乗せられてしまいました……!うん、生きがい分を補充できた。

ギターを買うためにお金稼いだけど足りなくて値切ってムギに気を遣ってもらった結果安くなってなんとか買えた第1期2話に対応するように第2期2話、今回はギターがムギに気を遣わなくても高い値段で売れた結果得たお金をちょろまかそうとして失敗するお話。

そのちょろまかしのところが、もう何度見ても楽しめるくらい素晴らしかった。統計とってるわけじゃないので印象で言っちゃいますが、いや印象でも絶対だと言えそうなくらい極端に感じたのですが、今回はキャラクターのデフォルメ化が非常に多用されたように見えました。

それなのに、この「ちょろまかし」では、まず非デフォルメから入ります。誤魔化そうか(ちょろまかそうか)、正直に言おうかの狭間を、リアルなままの姿からギクシャクと入り、やがて眼が軽くデフォルメ的になったり、次に顔が軽くなったり、そして律の発言に対する反応が軽くなったりと、ところどころ一部分がなっていく。


律っちゃんの「1万円……」という発言への反応が、澪と梓は「やっちゃったー」的な感じで思いっきりデフォルメされているのに対し、現実に言ってしまった超当事者の律はマジ顔、なんかのバランスも素晴らしいっすね。


「デフォルメ化」というのは、基本的に、現実やマジを殺します



第1期第1話のときにも書きましたが(http://d.hatena.ne.jp/LoneStarSaloon/20090404/1238772132)、たとえば、デフォルメ化された泣き顔というのは、そこに本当は持っている悲しみや痛みを殺すことができます。リアルな泣き顔にある、深刻さも、痛みも、傷も―――つまりその感情・感傷も、顔のデフォルメ化と同時にデフォルメ化されている。この(↑)唯の泣き顔が(第1期第1話、軽音部入れないよ〜って泣き出しちゃうとこ)、もし写実的に描かれてたらどうだろうか、というのを想像していただけると早いでしょう。崩され、デフォルメ化された顔は、実際の唯がどうなのかはともかく、見る者にとっては、現実にある深刻さを剥離している。写実的に泣き顔を描いたときにあって然るべき傷・痛み・悲しみ・深刻さを隠蔽している。現実の深刻さもデフォルメ化されているわけです。
また、一気にネタに落とす――マジを殺す、というのもあるでしょう。「冗談だよ(ネタだよ)」ということを、文字通り顔で表現する。

けいおん!!』2話は、ここまでにデフォルメ化を多用して、マジを殺し痛みを殺し深刻さを殺してきたのに(だからこそ)、この「ちょろまかし」の場面は、デフォルメからは入らない。今までが散々殺されてたからこその対称性が生じる、差異が際立つ。お金を誤魔化すなんて、ネタには成り得ないのだと。


そして「買い取り証明書をちょうだい」というところ。ここを誤魔化したら、もう後には引けない(「実は……」とか言い出せない)し、謝るならもうここしかない(「実は……」と言う最後のチャンス)。さっきまでの、基本リアルな姿(=マジ)ながらデフォルメな姿(=ネタ)が僅か入っていた姿勢を、「本当」のものにしてしまうか(=マジにちょろめかすか)、それとも「嘘」のものにしてしまうか(=さっきまでを冗談に済ますか)、その分水嶺
ここではデフォルメ化されず、真剣な(マジな)表情で決断が下されます。
そのデフォルメのない、真剣な判断の分かれ目の果ての決断が、これ。


思わず律っちゃんが食べちゃった、というところで、おもいっきりのデフォルメ! キャラクターだけじゃなくて、背景=世界まで非リアル化されて、お花のエフェクトまで舞っちゃいます(ついでに音声の「くーえ、くーえ!」も、明らかな(音声的)デフォルメ表現)。

この「マジ」からの逃れ方。

しょーじき、見ていてここは耐えられなかったんですよ。この緊迫した空気に耐えられず、また「彼女たちが本当にちょろまかしてしまう」という悪事にも耐えられない。頼むからこの空気を終わらせてくれ、頼むからこの悪事をネタで終わらせてくれー、と願いながら見ていました。もう見てるこっちが限界だ。もう、デフォルメしてくれないと耐えられない。二重の意味で。
というところで、ギリギリのところで、ちゃんとデフォルメ化してくれるんですよね……。なんというズル優しさ。ここもリアルのままだったら、最後までマジのままだったら、とても見ていられないほど「深刻」だったのに、それを、最後の最後に思いっきりデフォルメ化して回避する。「買取証明書を出す」という、正直に話して「ごめんなさい」とか「冗談でした」とか言う最後のチャンスを、そうしないで思わず「食べてしまった=”本当にちょろまかそうとしてしまった”(結果としてちょろまかすことになってしまった)」という、視聴しているこっちからすれば洒落にならない(つか犯罪になる)瞬間における「深刻さ」を、キャラクターをデフォルメ化して、それどころか背景=世界までも別空間にして、回避した。
デフォルメしてくれないと見ているこちらが耐えられないようなところをちゃんとデフォルメしてくれた(してしまった)。
もちろんその後には「キレた目のさわちゃん」→「ちゃんとした土下座」→「でも泣き顔にはデフォルメ」という、ありとあらゆるフォローが入っています。お金をちょろまかすことが、許されざるということも、それに真剣に反省しているということも、でも泣き顔(痛み)は剥離されてるということも、きちんとフォローされている。ここまでのマジもネタも全部フォローされている。ズルくて優しい、このズル優しさ。


そもそも微妙にズル優しいんですよね。たとえば、今回冒頭(アバン)、部室のダンボールを片していたら、崩れてしまって(恐らく)律っちゃんのところに落ちてくる、なんてシーンがありましたが、しかし……

積み重なってるダンボールが落ちてくる悲惨な瞬間は映さない。これだけ映せば「ダンボールが崩れた」ってことは分かるけど、それがどう崩れて律っちゃんに当って彼女が可哀そうなことになったかは決して映さない。こういうズル優しさが垣間見えます。たとえばデフォルメ化に関しても、唯が泣くところは何回か映されていますが、そのほとんど全てがデフォルメ化された泣き顔ですしね。リアルな泣き顔だったらとてもじゃない、深刻で見てられないくらいなんだけど、デフォルメされた泣き顔はそこにある悲しみも傷も痛みもデフォルメ化していて、僕らは安全に見れる。言うなれば「安全に痛い」。
はじめからそういうものが存在しないわけではない。泣き顔も在るし、失敗や痛みも存在する。1期13話に代表されるように、上手く行かない失敗も存在するし、11話に代表されるように軋轢が生じる痛みも在る。泣き顔なんてしょっちゅう存在している。そして今回、お金をちょろまかすというように、(年相応の)せこさやずるがしこさが在ることも見えてきた。しかしそれの見せ方は、本当にどうしようもないことまでにはならなかったり(たとえば1期11話・13話のように)、本当にどうしようもないところをそもそも描かなかったり(たとえば1期9話、入部した梓が軽音部の姿勢にとまどうという話。迷って、悩んだ梓は、唯「最近あずにゃん来ないね」澪「もう来ないかもしれないな」というように、一時期、軽音部に来なくなるのですが、この第9話は”そこが語られません”。軽音部室に向かわないで、悩んだり迷ったりしているであろう梓をほぼ全く映さず*1、その期間をほぼ全く映さず、いきなり、数日後だか数週間後だかの「最近来ないね」という場面にまで時間が飛んでしまう=数日間だか数週間だかのあいだ悩んだり迷ったりしている梓が存在してない)、そしてこの第2話のように、本当にどうしようもないところを迂回して安全に見せるということ。そこでは痛みや傷、悲しみや悪意(というか、せこさ)がある程度濾過されている。
これはもちろん褒めてます。いい意味で、です。今まで何度か書いてきた、否定がなく、強い肯定もない、ということとも被りますが、<げんじつ!>なんてものに出会わないで済むならその方が遥かに良いのです。むしろ、映像として見せ付けられなくても、このように”隠蔽されている”ということに気づければ、それは最も理想的な<現実>との出会い方だろう。しかもデフォルメ化が全てを隠蔽するように、可愛さが全てを乗り越えるならもう文句の付けようもない。
究極のところ、可愛いから、痛みも深刻もエンターテイメントにできてるから生きるんです。画面の向こうの彼女らの痛みは、傷は、悲しみは、深刻は、――たとえば上に「(9話での)悩んでたあずにゃんの非存在」を記しましたが、そのように、描かれないからこそ際立ったりもする場合もあります。その時のあずにゃん、本当はたいして悩んでなかったかもしれないのに、描かれていないから逆に、すげー悩んで苦しんでたんだと勝手に想像できてしまうように。あるいは今回のように、デフォルメ化=ネタとして扱う論理が”ぎりぎりで”入っていたことが逆に、事態の深刻さを物語る。それは輝きも同じで、描かれないからこそ際立つ輝きもある。ということで、話の繋がりが分かりづらいですが、下に続きます。いや下から続いているというべきか。

*1:いちおう、ライブハウスに出向くシーンがありますが。