嫌だと感じること

天声人語でスモーク・ハラスメントなる言葉を知る。そうか、時代はそこまで行っていたんだ。
僕は、タバコを吸わない。吸う意義を感じないからだ。少なくともニコチン摂取ということについては。お酒は飲むから嗜好品としてタバコを吸うことを理解していないわけではない。どうせなら葉巻とかパイプにしてくれよと思わなくは無いけれど。発泡酒見たいものなのだろうか。まあこれは吸わない人としての戯言。
何度か表明しているように、僕がタバコで我慢ならない点は、街中で火とか灰を撒き散らすことが一つ。実際に危うく火傷しそうになったことは何度もある。幸い、なんとか避けているけれど。もう一点は、自分が吸っていないのに家に帰るともちものがタバコ臭くなっていることがあること。
タバコが嫌いな人にタバコを吸うことを強要するなら、それはきっとスモークハラスメントだろう。周りの人がタバコを吸うことで間接的にタバコを吸うことになる、ということについてセンシティブな人にとっては、それだけでもハラスメントになると感じるのかもしれない。
でも、最近の何でもハラスメントとラベリングして片付けてしまうやり方は非常に抑圧的なものだと感じてしまう。抑圧というのは、どこかでその圧を抜かないと爆発するってことだから、抑圧する側の義務は開放する場を提供することなんじゃないだろうか。だって「自分が嫌だと思ったから」他人に何かを強要するというのは一方通行で済まされる話じゃない。

いつ、自分の大事な趣味嗜好がハラスメントとして定義されるかわかったもんじゃない。

僕は音楽が好きだ。が、カラオケで歌うことは好きではない。カラオケハラスメントを主張したいくらいだ。下手な歌を歌わされて精神的苦痛を味わされることは耐えられない。他人の下手な歌を聞くのも苦痛だ。第一、カラオケボックスで大音量を浴びせられるのは難聴になる危険性がある。
内心、そんなことを考えつつもこれはハラスメントになるのだろうか、と自問自答する。
社会の価値判断の基準なんて恣意的なものだ。抑圧の対象が増えれば、対抗する手段としての更なる抑圧が待っている。社会ではなく、人間を変えたらどうだろう。アルコールを受容する、ニコチンを受容する、そんなシステムがなければ酒も飲まないだろうしタバコも吸わないだろう。体からの要求がないのであるから。味覚をなくしてしまえば、美食のために哀れな動物たちが殺されることもなくなる。人工タンパクで十分だ。人間の多様性が無くなってしまえば、他人の行動が嫌になることも無いだろう。

嫌だ、と思うことが人間の精神活動における大事な部分を占めていることに今更ながらに気付く。異質なものを受け入れ続けるのためには人間の精神は能力が足りないようだ。社会とは他者を受け入れる雛形を用意しているクラスに過ぎないのかもしれない。インスタンスたる我々は、雛形を継承し、あるいは壊して作り直してまた新たなインスタンスを生み出していく。