てんかん患者から運転免許を取り上げる方法

「全ての運転免許(資格)てんかん患者には無償で(国の補助で)運転手を雇う権利を与える。仮に会社の雇用条件に運転免許がある場合、これをもって有資格とみなす」

これならよかろう。いや、半ば本気よ。そんな費用どこから出てくるの?そもそもてんかん患者だけなんて不公平じゃない?という声もあるかと思うけど、逆に、てんかん患者だからといって不公平に扱っているのは誰だろう。
いや、リスクがあるものには運転免許を与えたら駄目だという人もいると思う。じゃあ、高齢者からとっとと運転免許取り上げろよ。生活が成り立たない?てんかん患者は?

純化して言うと、この手の差別はリスクとその受容の問題といえる。原発問題で痛感した人がいるかと思うが、時にそのリスクは評価に失敗している。もっというと、リスクを確率の問題に還元できない。リスク評価の失敗は差別の問題以外でも発生している。例えば、予防接種を忌避する。もっともそれは正しくリスク評価をしている社会から差別を受ける可能性はある。はしかの予防接種なしでは入国拒否とか。これは主観的に見て差別だが、客観的に見てリスクの評価による危険性の排除である。
つまり、差別は極端に言うとリスクを社会が受容できないと判断した場合にシステムとして行うことがままある。そして、そのリスク評価に失敗している場合はそれは(特に後の世では)差別と見做され、正しくリスク評価をしている場合は、時として差別ではないと見做される。後者について半ば肯定的に受容してきたのが近代以前だとしたら、現代社会は後者について差別をしないための社会を理想として現実を評価するものだろう。
だから、リスクの評価には常にコストが伴う。てんかん患者から免許を取り上げるけれどもそれによって差別的な扱いを生まないためにはどうするか。当然方法論はいくつもある。極端な方法論が冒頭に上げた施策だ。そして、それは多大なコストを伴うことも自明だろう。であるならば、てんかん患者に運転を許可することのリスクと、運転を許可しないことで発生するコストのバランスを見て施策を考えなければならないわけだ。単に運転させるな、で済むならば、それはその他の問題のリスク評価とバランスしているのかをはっきりさせなければならない。

最後に赤木氏の意見をひこう。僕は彼の普段の論調があまり好きではないが、少なくともこの件については同意したい。

また、睡眠時間が短い傾向にある人は、居眠り運転の危険がある。風邪をひいている人は、運転に集中することができないかもしれない、そして何より、心臓が動いている人は突然の心臓発作が起きる可能性があるので、車に乗るべきではない。

 ということで、これを突き詰めると、誰も車に乗ることができないということになる。

 それでもてんかんだけを責めることができるのは、多くの人にとって「私はてんかんになったことがない」という自負があるからだろう。

【赤木智弘の眼光紙背】てんかんは問題の本質ではない

リスクだけによるリスク評価を厳正に適用すると、斯くのごとしだ。社会的なコストとして許容できるかの観点は忘れてはならないし、そのコストをどのように負担するかは社会の構成員一人ひとりが最終的にはその心性において決定するものなのだよ。前近代人でいるか、現代人(少なくとも現代の日本人)でいるかを決定するのは自分自身だ。