第2次インターネット開拓時代の終わりとこれから

ここ1ヶ月に沢山のウェブ的事件が勃発した。これを時代を象徴する事件と捉えると、これまで続いてきた第2次開拓時代(勝手に命名)の終わりが近いのかな、と思う。第1次がインターネットの一般化(1995〜)とすると、第2次はGoogleとウェブアプリの隆盛(大体2001〜から2003〜スタート)、ここから今に至るまでにクラウドによるスタートアップの簡素化やらなにやらありますが大雑把に捉えるとこんな感じだと思う。ダウンロード違法化も時代の終わりの一つの象徴だろう。

開拓時代というのは、色々なものが未整備で、とにかく先に進むという価値観が何よりも優先されるもの。行く手には(実は先住民がいたりはするものの)文明はなく、法律も実質的には機能せず、先行者利益がとにかく大きい世界。秩序を保つのは簡単ではなく、必要悪として私的なルール、他者の排除、そして戦争が許容される世界。

とにかくやる、というのが優先されるという価値観は、まさにこの開拓時代のものであって、世界が安定し、野心を持たない一般人が流入してくることによってルールが普遍的なものに置き換えられていき、既存の利得を如何に確保したまま、まあまあ公平な世の中を作っていくかに重点が移ってくる。

佐々木的多様性への容認が留保なしで受け入れられるのは、ある種の無秩序状態に限ってのことである。そこで優先されるのは社会の秩序ではなく、当事者の意思。現実のインターネットはすでにその状態を脱しつつある。開拓時代を生きた古参のインターネッターwにとっては寂しいことであり、また、時代が変化したからといってフロンティアスピリット自体が失われるわけではない。しかし、もはや生まれるものが現実のメタファーでしかない現状では、インターネットの独自ルールというのは通用しなくなってきている。

studygiftの根本的な問題はこれだ。企画した当事者はこれがインターネットによる新しい形のサービスだ、と思っていた、あるいはそれで通ると思っていた。しかし、実際には学生を援助するための既存の社会的システムでもなく、個人対個人の関係を作るものでもない、何か微妙なものができてしまった。
そして、そこで起こったのは、さすらいのガンマンが治安を守ろうとしたら正規の官憲に殺人者として告発されたようなものである。インターネット世界の範囲は固陋な開拓者の認識をすでにはるかに超えているようだ。

「新しいから叩かれる」というのは、少々認識が甘い。新しいからではなく、目的が新しくなく、手段だけが新しいから叩かれるのだ。ようは、既存の作りこまれてきた仕組みや利権を無調整で叩き壊しにかかっているから叩かれる。これは防衛的な反応であり、当然のこと。問題は、叩かれるのが「新しい手段に問題がある」からなのか、「既得権益を持った人たちが排除しようとしている」からなのかが判然としない事である。とはいえ、大雑把にとらえるのであれば、わりと区別は簡単で、前者の場合、サービスの提供者は「目的の正当性」のみを主張するし、後者の場合、サービスの提供者は「この手段は目的に照らして如何に必要なものであるか」を主張することが多い。詳細はきちんと検証しなければならないけど、大義名分のみを掲げて手段の正当性を説明していないものについて、「新しいから叩かれる」という擁護はそもそもその「新しさ」の価値を評価していない時点で的はずれな擁護でしかない。

現実の仕組みをウェブに置き換えていく部分は薬のネット通販が容認されるという結論が出たところで、ある程度基準化されたと思う。犯罪に対する法整備も進んだ。つまり、この部分の開拓時代はそろそろ終わりであるといえよう。

では、ウェブにはフロンティアはないのか。

ビッグデータはウェブだけのものではないし、ソーシャルネットワークは現実のメタファーに近づきつつあり、ニコニコも超会議で実体化してしまった。もはやウェブならではの、ウェブに始まってウェブに終わるようなサービスというのは少なくなってきている。ウェブがフロンティアであるにはウェブならではのものが常に考案されていなければならない。今だに治外法権的な匿名の世界が崩壊することで、ウェブ文明は現実に完全に取り込まれると思うが、その日は当分来ないだろう。そんな中で、まだ未知のサービスが生まれる余地はあってほしいと思う。
それは、安直に「手段としてのウェブ」なのではなく、目的そのものがウェブを開拓していくものである必要があるだろう。それを実現するのは、ただスピードだけのオールドウェブ開発者でも、僕のようなひねくれた古参インターネッターでもなく、産まれた時から空気のようにウェブがあり、悪い意味でのフロンティアスピリッツにとらわれない、次の世代の若者達なのかもしれない。