コンテンツの注目度と中立性は関係ない

元々、ウェブ自体は中立性を担保するために作られたものではなく、あくまで利便性を重視した情報伝達手段にすぎない。

なるべく個人個人が見たいと思っているものだけが表示されるようになってきている。見たくないものはネットに存在しないかのように。このままいくとコンテンツの中立性もなくなってしまう

元はてな・GREEのプログラマ 伊藤直也が語る、ソーシャルメディアの功罪。[前編] | CAREER HACK

(そもそもこの記事の赤字強調がid:naoya氏の意思を反映したものなのか気になるけど)
この「存在しない」という認識は、従来であれば「調べなければわからなかったこと」がウェブにはきちんと体系立てて存在しているという幻想の元に成り立っているのではないか。そうではなく、元々、「誰かががんばってそれを掲載する」「自らの意思でそれを探しに行く」ことなしには見つかるものではなかったのではないか。
ゆるいつながりだった世界を変えたのはやはりGoogleで、pagerankが注目度とコンテンツの価値を結びつけたことにより、注目されていることがそのコンテンツの正しさをある程度担保するものになった。これだって明確な根拠があるわけではない。だから、SEOが重視されマーケティングネタになってきたわけだ。
ソーシャルなんとかによるコンテンツの選別はあくまで従来型メディアの延長線上でしかなく、偏向した新聞を読んでいるのと大差ない。ウェブではより個人にアダプトするものになっているのは確かだけど。

では、それによりコンテンツの中立性が失われるのであろうか。否。存在しないように見えるコンテンツはあくまで受動的なウェブの閲覧行為の中での問題である。一見検索性が失われたようであっても、たどり着く手段はきちんとあるし、どちらにせよ「見たいものしか見ない」人にはそれが目に入らないのである。コンテンツはそこにあり続けること、能動的に探せば辿り着けることだけがその中立性を確保するための要件である。コンテンツの中立性が奪われるとしたら「アクセス数が少ないページは削除される」「上位の存在(プロバイダやサービス事業者)の恣意的行為により削除される」ような場合であろう。そういう点ではgoogle八分は罪が重い。

逆に、到達へのハードルが上がることを補完するのが、ソーシャルなんちゃらのもう一つの役割であろう。そういう点で、はてブは普段の観測範囲と違う人をお気に入りに入れておくだけで、色々なものが見える。

だから、僕はGunosyよりはpaper.liのほうがいいなって思う。

はてブのもう一つの役割としての、注目を集めるという部分には功罪あろうとは思う。けれども、アンテナ、RSSソーシャルブックマークなどのサービスは能動的に情報を収集する手段としては素晴らしいものであると僕は評価している。元々、能動的な人たちのためのものだったのだ。受動的な人達向けのサービスがウェブの中立性を低めようがそれとは世界が全く関係ないので気に病むことはない。