知のアーカイブ


ウェブの世界は進展著しく、Web20などといわれているけれど、知の集積の在り方が問われている。例えば、Googleによるあらゆる図書のデータベース化は、かつての図書館における役割を、検索エンジンが代替しようと試みる壮大な実験といえよう。


実際、小規模な図書館へ行くより、検索エンジンが役に立つというように、誰もが経験していることかもしれない。検索エンジンが図書館を凌駕する時代がくる?なるほど、しかし果たしてそうであろうか。Google著作権の問題をクリアし、世界中の図書館が所蔵するあらゆる図書をデータベース化するのは、時間の問題だろう、という見方ができる。でも仮にそうなったとしても、Web上で見えるのは部分でしかない。一冊の本を画面では通読できないのだ。Web上では、書物を手に持って眺めたり通観するように現物を超えることはできない。


この間、古典哲学者たちのテクストがデータベース化されて久しいが、言葉の次元からとは別に、「データベース」から思想的な成果が得られたという話は寡聞にして聞かない。


世界的な動向として、知のアーカイブ化が進捗している。翻って日本の状況をみれば、国立国会図書館は、公共図書館の中核的存在として近年デジタルアーカイブの公開が目覚しく、注目を浴びている。NDL-OPACの公開により図書データのみならず、雑誌論文記事索引も無料公開されている。


一方大学図書館は、独立行政法人国立大学を中心に「機関リポジトリ」の公開が進んでいるが、これは大学紀要論文を中心に大学別に公開しているもので、蔵書目録が国立情報学研究所(NII)のもと公開されているのであれば、大学紀要論文はNIIにおいてWebcatやWebcatPlusと同様に、まず、記事索引を次いで論文本体の公開を進めるべきものと考える。大学独自のアーカイブは、その大学しか所蔵していない1点もの(史資料や文書・手稿など)に限定し、論文はNIIがとりまとめるべき性格のものだと思う。紀要の著作権云々という意見があるようだが、大学に所属している者が、当該大学が発行する紀要に掲載することは、研究者としての義務と思うのだが如何であろうか。


大学と距離を置く松岡正剛氏が公開している『千夜千冊』などは、見事な「知のアーカイブ」であり、無料公開している。研究紀要の読者が1・5人と揶揄されるくらだからこそ、積極的にデータベースとしてNIIが集中管理し、公開すべきものなのだ。


実際、Google Scholarなどでは、WebcatWebcatPlus公開分が検索にヒットしている。惜しむらくは、記事索引までというものが多い。

例えば、蓮實重彦が「紀要」類に書いた「ボヴァリー夫人論」を調べると仮定して、実際に検索してみると記事索引として6件しか出ない。NDL-OPACで検索すると、商業誌に書いた論考のみ33件がヒットするが、肝心の「紀要論文」はない。ところが、NIIの「CiNii」で検索すると295件ヒットする。そのうち、「ボヴァリー夫人論」に関する紀要論文の索結果を、古い順に示てみよう。

  1. ボヴァリー夫人」と「フローべール地誌学」の三段構造 (明治学院論叢 (通号 138),75〜108,1968)
  2. ボヴァリー夫人」に於る空間の構造に関する一つの考察--シャルルの場合(明治学院論叢 (通号 146),27〜61,1969)
  3. ボヴァリー夫人」冒頭の一章をめぐる考察--フオルム解読の試み(立教大学研究報告, 人文科学 (通号 26),70〜101,1970)
  4. 「ボヴァリ-夫人」論--説話的持続の問題(東京大学教養学部・外国語科研究紀要 26(3),p1〜62,1978)
  5. 「ボヴァリ-夫人」論--小説的空間の問題(東京大学教養学部・外国語科研究紀要 29(2),p23〜108,1981)
  6. 「ボヴァリ-夫人」論--題名を読むこと (東京大学教養学部・外国語科研究紀要 33(2),p49〜75,1985)


以上6点、商業誌を除く「紀要」掲載論文だが、いずれも「本文なし」の記載があり、論文入手は、旧態依然たるILLによる個別論文毎の複写依頼に頼るしかない。少なくとも、紀要論文はアーカイブ化し、本文を公開すべきだ。これは一例を示したに過ぎない。


私が大学について知っている二、三の事柄

私が大学について知っている二、三の事柄


「機関リポジトリ」推進中の各大学図書館では、これら紀要のアーカイブは公開されていない。残念ながら、これが「紀要論文」公開の実態*1である。


Googleによるあらゆる図書のデータベース化も結構だが、肝心の紀要論文がこのありさまだ。「機関リポジトリ」の発想を否定するものではないが、各大学図書館OPACを公開していても、WebcatやWebcatPlusで全国の所蔵状況がわかるように、NIIにおいてトータルに管理・公開されるべきと考える。それでなくとも読まれない紀要論文を、一般公開することで大学や研究者の研究レベルも分るし、本当に読みたい利用者にとって有用となるはずだ。紀要論文の公開については、拙ブログで数回言及している。


国立大学はじめ大学機関が、本当に一般市民のために研究成果を公表しようとしているのか、きわめて疑問に思う。これが杞憂であって欲しいものだ。


情報の歴史―象形文字から人工知能まで (Books in form (Special))

情報の歴史―象形文字から人工知能まで (Books in form (Special))


なぜ、アーカイブを取り上げたかは、松岡正剛氏による『情報の歴史』と『千夜千冊』が、言葉の正しい意味で、知のアーカイブ(アルシーブ)になっているからで、松岡氏はWeb上の『千夜千冊』を冊子体(書物)に「編集」して読者に提供していることは賢明な対応である。浮遊するWebが突然消滅することなど誰も考えたくないであろうが、インフラが支えきれなくなると消滅する可能性だってあり得るのだ。ことの重大さに気づくのは、いつも事後的であることを歴史が証明しているではないか。


松岡正剛千夜千冊 (1)

松岡正剛千夜千冊 (1)

*1:全く公開されていないと言っているのではなく、比較的新しい論文などは公開されている。しかし、公開するのであればすべて公開すべきである、と言っている。ここは誤解のないようご理解いただきたい。