デジタル技術と肖像写真

ヴァルター・ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』において「はるかな恋人や個人を追憶するという礼拝的行為のなかに、映像の礼拝的価値は最後の避難所を見いだす」といい、肖像写真がアウラの最後の砦であるとしました。決して改変されず、時の移ろいとともに失われる一回性を持つものとして人の顔を捉えていたためです。では、デジタル技術が発展し、像の複製・加工が容易な現代では肖像写真はどのようなものとして在りうるでしょうか。
デジタル技術の肖像写真の活用例として、撮影された顔に加工を施すことがあげられます。撮影対象の顔と撮影者自身の顔がデジタルによって合成されているヴィベケ・タンベルグによる「Line」のシリーズや、自らの身体を用いて、合成と特殊メイクによって著名人の肖像写真をパロディ化している森村泰昌の作品などです。森村の毛沢東を模した「赤い夢/マオ」では、多くの加工と合成によって、本人の面影は二重まぶたが特徴的な眼に微かに残るだけです。ここから撮影された人々の個性、感情、人生を読み取ることはできません。手を加えられたその顔の上には見るものと見られるものが親密に同居し、個人の境界が曖昧になった現在の人間の関係性を感じることができます。
デジタル技術によって加工されるのは顔だけではありません。「三人三様」で森村は自らをデジタル技術によって複製し、別人として一つの画面に複数存在させています。このように現実にはあり得ない空間に人物を落とし込む手法もデジタル技術の肖像写真への活用のひとつです。ロレッタ・ラックスは撮影した子どもの写真をデジタル技術によって切り抜き、別で撮影した背景と合成して作品を作り上げています。「Girl with Marbles」の少女は地面に散らばったカラフルなビー玉を拾おうとしているような体勢をとっていますが、その目は一つとしてビー玉を捉えては居ません。写真は全体的に色調が調整されており、おとぎ話の挿絵のような印象を受けます。やなぎみわによる「マイ・グランドマザーズ」のシリーズはモデルとなった女性の理想の死に方を特殊メイクとデジタル合成によって作り上げています。「MIE」では、永遠に広がる自然と無機質なコンクリートの空間で途方にくれる老婆の写真と添えられた文章が退廃的な物語を構成しています。
このようにデジタル技術によって加工された人の顔と身体は、撮影されたものの人生から切り離され純粋な素材となります。素材となった人体は個人という枠を超え他者や物質と混じり合い、新たな生物へ変貌します。そこでは撮影されたものへの追憶や思慕は生まれません。しかし、加工によって生まれた新たなる生物は他の何者でも成し得ない形で現在の人間の有り様、社会の有り様を表現することができます。そして、合成によって現実離れした物語を描く肖像写真は、絵画と比較され続け、絵画的な写真というあり方から逃避しようともがいていた写真の姿はもはや過去のものであると高らかに宣言しているように思えます。デジタル技術によって肖像写真は写真と絵画の境界を無効化しました。そして、肖像写真は個人の枠を超え人間という概念そのものを映すことのできる表現手段へと変貌したと言えるのではないでしょうか。
ボードレール 他五篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)まなざしのエクササイズ ─ポートレイト写真を撮るための批評と実践現代写真論