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2014-01-27

冬の早朝の随想と浮世絵

冬空の明け方あるいは宵の口の冴えたグラデーションの美しさを見るにつけ、日本に生まれてよかった、と思う。寒くてもこの美しさは厳寒期ならではだ。ここ数日はちょうど夜のヴェールがほどける頃に月が南中していてまるで絵画のような美しさ。

やかんに湯を沸かし蜜柑を半分に切り作り置いてあるバードケーキを取り出す。餌台から突き出させたネジにミカンを刺し螺旋に巻いたハリガネにバードケーキを据える。もうひとつの餌台に穀物の飼料を入れ熱い湯で夜の間に張った水入れの氷を溶かす。冬の毎早朝のこと。自分の楽しみのために。

朝暗いうちに終えておいたほうが、お腹をすかせてわくわくとやってきた野鳥の期待(?)を裏切らない気がして、毎年そうする。雨の日は雨の日なりに。雪の日はことさら少しサービス気味に。一番に到着したヒヨドリは誇らしげに高くさえずる。鳴いてないではやくお食べ。

(自分以外の)誰かの面倒を見る、というのは、ひとえに、忍耐だ。忍耐を持った、たゆまない、継続。ほんとに、それだけだとおもう。

今朝の空の美しいグラデーションを見ていてまた忘れていた(と思っていた)ことを閃光のように思い出した。永谷園の商品についていた、浮世絵カード!年端もゆかなかった私は、あれの大ファンだった。ずいぶんたくさん集めては飽きることなく眺め返していた。レトロ好きは、そんな昔からだったか。

好んで集めていたのは広重の東海道五十三次。好きな絵とそうでない絵がけっこうきっぱりと分かれていて、墨の濃淡のような雪のシーナリーや、空の美しいグラデーションのものなどが好みだった。特に青。青は、劣化しにくいのだろうか。「広重ブルー」という言葉を知ったのはごく近年のこと。 

広重は、やっぱり版画?青から、淡いニッポンの曙色へのグラデーションなど、外へも遊びに行かずに飽きずになんども惚れ惚れと眺めていたものだった。おそらく私とアートの出会いの、あれが最初だ。好きな色の帯域の由来は、浮世絵だったか・・・自分で自分を驚きをもって見つめた、早朝。

「日本橋」好きだった気がする。それにしても美しかった昔のニッポン。高い建物がなく空が広く人は質実と働いていてあるいはのんびりと休んでいて。昔の生活を垣間見られる昔の絵が大好き。ワイキキ界隈の絵でも。ただ椰子と、月と、カイマナヒラと。

浮世絵、寺社仏閣の建造物、「引っ込む」という美学・・・有形でも無形でも、ニッポンの文化って、ため息が出るほど美しい。(少なくともハワイよりは)結構な時間をかけて築かれたはずなのに、驚きの速さで、品なく(!)、崩壊し続けていることをもっと憂いたい。

2014-01-24

Ilima(イリマ)

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イリマ(という花)をデザインした。ずいぶん時間がかかってしまった。薄い和紙のようなそのテクスチャをデザインに反映するのは思いのほか難しかった。小さい花で可憐であること。ランダムなペタルのリズム感。何もかも。

つぼみや実を極力一緒に描くのはわたしのこだわり。命(の連なり)こそが、美しいと思っているから。インタビューでも答えたが、命の萌えはじめからポトリと尽きるその瞬間までのカーヴはどれもピークの美しさだと思っている。そして命をつなげてゆくことも。

2014-01-18

シヤー・トムヤムクン・ポーチャナー

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「ソフィスティケイトされてない感じでばりっとおいしいタイ料理屋教えて」っていったら教えてもらったお店でガパオ。これは大当たりだわ。本場風タイご飯が好きな人はぜひ。

■食べログサイト:http://tabelog.com/tokyo/A1311/A131101/13095866/


シヤー・トムヤムクン・ポーチャナー(タイ料理)
03-3835-9297
東京都台東区上野6-16-7 DB-3F
JR上野駅忍ばす口より徒歩1分/銀座線上野駅すぐ
大江戸線上野御徒町駅A8口から徒歩5分。
京成上野駅から274m
営業時間
11:00〜15:00(LO.14:30)
17:00〜24:00(LO.23:00)
ランチ営業、夜10時以降入店可、日曜営業

2014-01-17

アート考

アートは自分の中にしかなく、自分の中から出てゆくことは無く、傍らにある共感はパラレルで爆発するのはアートではなく内在の自己、なんだと思う。

2014-01-07

食べることは生きること

食べることが生きること、っていうのは信条のひとつで、だから食べることって生き様そのままという気がしてすごく大事で時々恥ずかしい。延長に発生した考えで、食べることを大事にしていると生きることをも大事にできる気がしてならない。

ハワイアンの考えで「食べ物は神聖なものだからその周囲で悪しきことを口にする(喋る)な」というのを目にしたことがある。ソフィスティケイトされると「食事は楽しく」ってことになるのだろう。万国共通の考え方だ。

食べ物に感謝する、っていう意識が薄くなったのは、肉が切り身でパッケージされ、あるいは採り調理する行程が人に任されコンビニエントな状態でパッケージ販売され、夜も昼も関係なく入手できるようになって加速したものだろうと思う。

ネット上のどこかで「御節なんて食べ物は今の世に合わないからやめてしまえ」っていうのを先日読んでその論理の一つ一つはどれも納得するものだったのだが、やっぱり残念な考えだと思う。作るとわかるが冷めた状態で食べる御節を作るのは手も心も砕く大変な仕事だ。

御節はもはや「おいしいものを食べる」ための料理ではないというふうにすれば、落とし所も多少見えるのではないだろうか。文化としきたりが今のご時勢にしては珍しく詰まった正月seasonは、人生の文化祭だ。

外(の国)に出(て違った価値観や様式に触れ)ると、ニッポンがよりよく見える。いかに偏った価値観の中で生きているかってことを再確認できる。

今朝の一連は、kalo(=タロ芋)をあの独特の道具ですりつぶしてpoiにする、っていうのを目にした時に、手間がかかってるな、この間作ったきんとんの芋ペーストみたいだな、って思ったことに始まったものです。大変だったから残さないって思うし大変を分かち合える食卓は幸せだろう。