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2012-02-18

知識ゼロから学ぶ簿記のきほん(2)/掛け取引ってなんだ!?

| 23:26 | 知識ゼロから学ぶ簿記のきほん(2)/掛け取引ってなんだ!?を含むブックマーク 知識ゼロから学ぶ簿記のきほん(2)/掛け取引ってなんだ!?のブックマークコメント

※中高生・就活生・簿記を勉強しないまま大人になってしまった社会人の方に向けた記事です!

※間違い等お気づきの点があればご教授ください。





前回:知識ゼロから学ぶ簿記のきほん/おこづかい帳と簿記はなにが違うのか

次回:知識ゼロから学ぶ簿記のきほん(3)/売掛金のゆくえ




      ◆ ◆ ◆




なかよし銀行の建物から出ると、ケイリさんは道路に向かって手を振った。ぴょんぴょんと飛び跳ねるように。

「なにしてんの?」

「なにって……。決まってんでしょ、タクシーを捕まえようとしてるの。あんたも手伝いなさいよ!」

そう話しているあいだにも、何台ものタクシーが走り去っていく。背の低さはケイリさんの唯一にして最大の弱点だ。俺が手をあげるとすぐに一台が停まった。

「やるわね、背が高いとそれだけで利用価値になるわ」

「たまには俺でも役に立つだろ? 困ったときは呼んでよ、たとえば電球を換える時とか」

「運転手さん、ここに行ってください。――ダメよ。あんたに頼んだら、あんたの他に101人ぐらい必要になるもの」

「?」

「あんたが電球を持つとして、あんたの載った三脚を支えるのに1人、家を回すのに100人。あんたの場合、背丈に栄養が行ったぶん、ほかの部分に足りないでしょう」

と、頭を指さす。なんだその“グラマーな子はバカ”みたいな偏見は。

「だいいち俺は平均身長だ」

「つまり掛け値なしのバカってことになるわね」

「掛け値ってなんだよ!」

「掛け取引で使われる値段のことよ。売掛金や買掛金を使った取引のことを掛け取引と呼ぶわ。陶芸部の決算書も、ここが怪しいの。簿記では――」

「ちょっと待った。ケイリさんはそうやって『簿記の知識を身につけなさい』って言うけど、いまの時代、会計ソフトもあれば表計算ソフトもあるじゃん。紙やペンが貴重だった時代ならともかく、わざわざ簿記なんて古くさい知識を学ぶ必要はないと思うんだけど」

「簿記はべつに古くさくないわよ? ただ、あんたの言うことにも一理あるわ。コンピューターが今ほど発達していない時代には、すべての仕訳を人の手で管理していた。大企業なら、経理部に100人以上の人員を割いているところもあった」

「それじゃ、いまは?」

「会計ソフトや表計算ソフトが発達したおかげで、経理の仕事はぐっと省人化されたの。今ではどんな大企業でも10人から20人ぐらい。少ないところなら、4〜5人で連結決算をしている会社もあるわ。失業者が増えるはずよね」

「ほらな、やっぱり簿記はそういう限られた人のための専門知識で、ほとんどの人にとっては必要ないんだよ」

「いいえ、むしろ逆。かつては100人でやっていた仕事を、今ではケータイ一台でできるようになった。ということは、誰でも大企業並みに正確なお金の管理ができるようになったということでしょう。ただし、簿記の知識さえあれば、ね」

「そうなの?」

「そうよ。そもそも会計ソフトは、簿記の知識にもとづいて設計されているわ。たとえば自動車の整備工になるつもりがなくても、運転免許を取るときには基本的な知識を勉強させられるらしいじゃない。エンジン・ブレーキの仕組みとか、雨が降り始めたときにスリップしやすくなる原因とか――。そういう基礎知識のない人には免許は渡さない。怖くて渡せないの」

「うーむ、会計ソフトは自動車のようなもの、かぁ……」

「そして表計算ソフトはフライパンとかオーヴンレンジみたいなものね。どんなに便利な道具でも、レシピを知らなければ料理は作れない。表計算ソフトだけ持っていても、簿記や会計の知識がなければ宝の持ち腐れよ」

「ネコにこばん、ブタに真珠ってわけだ」

「借方シワケに会計ソフト、とも言えるわね」

「ケイリさんに天袋(てんぶくろ)、とか」

「怒るわよ」

そうこうしているうちに目的地についた。



     ◆



「ケイリさん、俺たちの学校って立川市にあるんだよな」

「そうよ」

「大都会ってほどじゃないけれど、いちおう東京都のド真ん中のはずだよな」

「そうなるわね」

「ならどうしてこんな原生林が残っているんだよ!」

陶芸部の部室――というか小屋は、鬱蒼としたブナの木立に囲まれていた。一応、ここは多摩川の河川敷だ。しかし川面からは離れていて、小屋の周囲は昼間だというのに薄暗い。

「なんつーか、修行のために旅立った魔法少女が絵描きのお姉さんと出会いそうな場所だよな」

「そのネタたぶん平成生まれには通じないわよ?」

スチャ――、とケイリさんはそろばんを握る。

「それじゃ仕事にかかりましょう。……失礼するわ!」

勢いよくドアを開けた。まるで道場破りだ。

「失礼しまーす、って、うわ!」

小屋のなかは物置と化していた。古い椅子やテーブルが無造作に重ねられ、どれも土ぼこりをかぶっている。壊れたイーゼルや、さびた彫刻刀、陶芸とはおよそ関係なさそうなものが天井近くまで積み重なっている。

「きゃあ! クモの巣!」

「なに女みたいな悲鳴あげてんのよ」

ケイリさんはずんずんと部屋の奥に進んでいった。

「あなたが部長の土灼火織(つちやき・かおる)ね。あたしはなかよし銀行・調査室の貸方ケイリ。陶芸部の決算について話を聞かせてもらうわ!」

「お、お取り込み中に失礼します……」

ケイリさんの態度があまりにも傍若無人(ぼうじゃくぶじん)だから、一緒にいる俺のほうが恐縮してしまう。

小屋の主はこちらに背を向けて、ろくろを回していた。肩ぐらいの長さの髪をポニーテールにまとめ、緑色の学校指定ジャージを着ている。ジャージの色から言って2年生、つまり先輩だ。けれどケイリさんはまったくひるまない。

「いくつか見せて欲しい資料があるの。準備していただけるかしら」

「えっと、その、お仕事が一区切りついたときでいいですからね!」

なぜか気をつかってしまう俺。

「…………」

「もう一度言うわよ。準備していただきたい資料があるんです」

あ、いちおう敬語を使うんだね。

「…………」

「あの、聞いてますか?」

「…………」

火織センパイはろくろを回すのに夢中だ!



スチャ――。



「わわわ、ダメだよ! 初対面の人にそろばん攻撃は!」

「はあ? そんなことするわけないでしょ。そろばんは人を叩く道具じゃないんだから」

お前が言うな!

「先輩をお待ちしている間に、数字の確認をしておこうとしただけよ」

「できたぁ」と火織センパイが声を上げた。「すまんなぁ、待たせてしもたわぁ」

「ぶっ――」

ふり返った先輩の顔を見て、俺は噴き出しそうになった。まるで牛乳瓶の底のような巨大メガネをかけている。あんなのマンガでしかみたことないぞ。白磁のようなほっぺたに粘土の汚れをつけていた。

「立ち話もなんやし、ゆっくりしていってや」

と、部屋の奥のソファに案内された。ていうかこの人、背が高い! 俺より身長あるんじゃないか? 牛乳瓶めがねで高身長――。どっかで聞いたようなキャラだ。

「改めまして、お仕事中に失礼します。なかよし銀行・調査室の貸方ケイリです――」

腰をおろすなり、ケイリさんは口を開いた。かなりの早口だ。

「こっちは雑用係の借方シワケ。今日は陶芸部の決算についてお話をうかがいにきました。見せていただきたい資料があるのですがご準備いただけますか!」

「ええと……」

火織先輩は首をかしげる。

「なかよし銀行の人が、なんの用ですやろ」

「ですから、決算の内容についてお話をうかがいにきました」

「そうは言うても、うち、難しい数字の話はわかりませんけどぉ……」

先輩は肩を落とす。

「この三月で先輩たちがやめはって、陶芸部は今、うち一人なんです。今年の決算書も先輩たちが作らはりました。そやし……」

「資料を見せていただければ充分です。こちらで内容を精査しまして、問題があるようならご助言いたします」

「せやけど、大事な帳簿は知らん人に見せたらあかんって、なかよし銀行の人に言いつけられてるんです……」

「で・す・か・ら、あたしたちもなかよし銀行の人間です!」

ケイリさんのいかりのボルテージがあがっていく! 行員証を突きつけた。

「ええと……」

火織先輩は首をかしげる。この人、かなりおっとりした人だ。

「なかよし銀行の人が、なんの用ですやろ」

無限ループってこわくね?

「――だ、だからっ! あたしはっ!」

ちょっと涙目になるケイリさん。ダメだ、この二人は会話がぜんぜん噛み合わない!

「あのですね、先輩――」と俺は助け舟を出す。

火織先輩にも分かるよう、ゆっくりと状況を説明した。必要な資料をケイリさんに聞いて、それを伝えることにも成功した。

「なんやぁ、そないカンタンなことやったら、はよ言うてくれたらええのに」

思わず立ち上がりそうになるケイリさんを、「どうどう」と言ってなだめる。

「待っとってやぁ」

先輩は帳簿を取りに、小屋の二階へと消えた。



「なんだかドっと疲れたわ……」

ケイリさんがソファに沈む。

「珍しいね。ケイリさんがうろたえるところなんて初めて見た」

「風車に立ち向かう孤高の騎士のような無力感ね」

「ところでケイリさん。陶芸部の決算が怪しいって言うけど、具体的にどんな部分に問題があるの? たしか売掛金の残高がどうとか――」

「まずは掛け取引から説明する必要がありそうね」

「そういえばさっきも同じようなことを言ってたよね。掛け値がどうとか」

「あたしたちが買い物をするときは、値札を見て、その場で現金を支払うでしょう? だけど江戸時代までは、そんな習慣は無かったの。金魚一匹、いなり寿司ひとつ。そんなものでも売り子さんに値段を訊いて買っていたのよ。『おいくらですか?』って」

「いなり寿司って江戸時代からあるんだね」

「時代劇を観なさい、時代劇を。そして高額の商品は、その場では支払いをしなかった。着物とか、高級な装飾品とか、あるいは土地、建物。料理屋が米や豆をまとめ買いする時も同じだったでしょうね。一ヶ月分の取引を集計して、翌月にまとめて支払っていたわ。これを掛け取引という」

「支払いを一ヶ月待ってもらえたのか――。その間にトンズラしちゃえば払わずに済むんじゃね?」

「あんたみたいな不届き者は当時からいたようね。一ヶ月も支払いを待つということは、代金を回収できない危険性(リスク)があるでしょう? だから支払までの日数が多いときは、定価よりも少し高い金額で販売するのが一般的だった。いわゆる“リスク・プレミアム”ってやつ。この“少し高い価格”のことを、掛け値と呼ぶわ。値札がなくて、売り子さんの裁量で価格を決められた時代だからこその販売方法ね」

「今じゃレジのお姉さんと交渉しても値段は変えられないもんなあ」

「この販売方法を変えたのが三井越後屋――現在の三越よ。『現金掛け値なし』を謳(うた)い、その場での現金支払なら掛け値ぶんを割引する、という商売を始めたの。正札販売(せいれいはんばい)というのだけど、正しい価格の書かれた値札を店頭の商品につけて現金決済で販売する――今では当たり前になった販売方法を世界で最初に実現したのが呉服屋・三井越後屋だった」

「なるほどなあ」

「じつをいうと、掛け取引は現在でもごく一般的に行われているの。消費者への販売では現金決済が普通になったけれど、企業間の取引ではいまでも一ヶ月分の支払いをまとめて請求するのが常識ね」

「!」

「企業は、一般消費者の買い物よりもはるかにたくさんの取引をしているでしょう? いちいち現金決済するのは手間がかかるから、いまでも掛け取引が残っているの」

「それで、掛け取引をした時の仕訳はどうなるの?」

「こうなるわ」

【借方】売掛金 ¥ 100,000- / 【貸方】売上 ¥ 100,000-

「そして代金が支払われたときは、こう」

【借方】現金 ¥ 100,000- / 【貸方】売掛金 ¥ 100,000-

「現金や備品と同じように、売掛金は“資産”の一種よ。増えたときは借方・減ったときは貸方に記載されるわ。売掛金のような“将来お金を払ってもらえる権利”のことを、債権と呼ぶの。債権は“資産”の一種なの」

「それじゃ、買掛金ってのは何?」

「買掛金は、掛け取引でモノを買ったときに使う勘定科目(かんじょうかもく)よ。帳簿にはこう記載されるわ」

【借方】仕入れ ¥ 100,000- / 【貸方】買掛金 ¥ 100,000-

「で、代金を支払った時は、こう」

【借方】買掛金 ¥ 100,000- / 【貸方】現金 ¥ 100,000-

「借入金と同じように、買掛金は減ったときは借方・増えたときは貸方に書かれるわ。つまり――」

「買掛金は“負債”ってわけだ」

「なかなか勘がするどいわね。あんたの言うとおりよ。買掛金や借入金のような“将来お金を払わなければいけない義務”のことを、債務と呼ぶわ。本当は負債にもいろいろな種類があるのだけど、いまはまだ負債=債務っていうイメージでいいわ」

「ていうか、負債って“債務”のコトだと思ってた」

「債務ではない負債――そういうマニアックなのものもあるとだけ覚えておきなさい。あと注意したい点としては、買掛金は“仕入”の未払いにしか使えないということね」

「日本語でおk」

「そうね……。企業が“お金を支払う場合”には大きくわけて三種類あるわ」

「三種類?」

「まずは原料や商品を購入したときの“支払い”よ。料理屋が米や豆を買ったり、陶芸部が粘土を買ったり――。あるいは花屋が花を、家具屋が家具を購入する場合も同じね。商売に使うモノ・やがて転売するモノを購入することを、簿記では仕入れと言うわ」

「ていうか“お金を支払う場合”って、仕入れ以外にもあるの?」

「ええ。たとえばあそこのろくろ、電動でしょう? あとはこの小屋の照明の蛍光灯もそうね。電気水道代のように、仕入れとは呼べないけれど必ず支払わなくちゃいけないモノがある。そういうモノをなんと呼ぶかというと……」

「いうと……?」

費用と呼ぶわ」

「まんまじゃねーか!」

「費用にはたくさん種類があるわよ。水道光熱費だけじゃなくて、通信費とか運送費とか、銀行に支払う手数料も費用のうちね。税理士や会計士、コンサルタントに支払う報酬・請負料も費用とみなされる。あとは……そうね、給与も費用よ」

「給与が費用かぁ。なんだか変な感じ」

「お給料を受け取る立場だと、ちょっと違和感があるわよね。だけど、たとえば税理士やコンサルタントに仕事を依頼したら、働いてもらったぶんの費用として報酬を支払うでしょう? それと同じよ。企業は社員に働いてもらっているのだから、そのぶんの費用として報酬を支払うの。だから簿記では給与が費用だと見なされるのよ」

「仕入れ、そして費用か。それじゃあと一つは?」

「“それ以外”ね」

「そんな大雑把な!」

「だけど、“それ以外”としか言いようがないもの。たとえば何でも屋部のあんたが誰かのお手伝いをして、あろうことかその人の大切な持ち物を壊してしまったとする」

「そこまでドジじゃねーし!」

「残念だけど、説得力ゼロ。ありそうな話じゃない? で、そういうときは当然、弁償しなくちゃいけなくなる。そういう破損弁代はもちろん仕入れとは呼べないし、突発的なものだから費用とみなすのも難しいわ。数は少ないけれど、仕入れにも費用にも分類できない“支払い”があるの」

「仕入れ、費用、その他――」

「で、その三つはどれもその場で現金支払いできるとは限らない。未払いのまま、支払いを待ってもらうことも珍しくない」

「ええと、たしか仕入れの未払いのことを、買掛金って呼ぶんだよな?」

「正解。そして費用の未払いのことを未払費用、その他の未払いのことを未払金と呼ぶわ」

「仕入れ、費用、その他――。それに対する買掛金、未払費用、未払金か」

「そうよ。これは簿記の試験だけじゃなくて、実務をしているいい歳した大人でも時々間違えるわ。ややこしいけれど、きちんと覚えてね」

「債務にも色々あるんだな」

「さっきも言ったとおり、負債=債務だと考えていい。けれど、ひとくちに債務と言ってもいろんな種類があるの」

「ふぅむ」

「えっと――。わ、悪かったわね」

「――? なにが?」

「陶芸部の決算についての話だったでしょう。だけど買掛金とか債務の話はあまり関係ないから――」

「いや、いいって! むしろすげー勉強になったし。こう見えて俺、ケイリさんにはいつも感謝してるんだよ?」

「な――」と言ったきり固まって、みるみる赤くなるケイリさん。「ば、バカ言ってんじゃないわよ! このぐらい、勉強するまでもない一般常識だわ! こ、この程度で満足されたら、えっと、その、困るんだからっ!」

困る?

「なんで? ってか、なんでそろばんをふり上げてんの!?」

人を殴るものじゃないっつーの!

「う、うるさいわね! いい? 陶芸部の決算は売掛金の残高に怪しいところがあって――」

「すまんなあ。待たせてしもたわぁ」

絶妙なタイミングで火織先輩カムバック。

「なにしてはるの?」

なかば立ち上がりかけてそろばんをふり上げるケイリさん。ソファのうえでのけぞる俺。そして書類の束を抱えた火織先輩。

「二人は仲ええなぁ」

牛乳瓶メガネをきらりと輝かせて、先輩はムフフと笑った。

「ひょっとして付き合ってはるの?」

そして、そろばんがふり下ろされた。



     ◆



「っ痛ぇ――」

「だから、ごめんなさいって言ってるでしょ」

「そうは言ってもさあ――」

「悪気は無かったのよ。ただ手が滑っただけで――」

「そのわりにずいぶん重たい一撃だったぞ!?」

だいいち悪気があるならまだマシだ、叱れば治る。悪気がないからこそタチが悪い。

「うふふ、やっぱり仲ええやん」

なぜか楽しそうなカオル先輩。この人がよけいなことを言わなければ、俺がこんな目にあうこともなかったのに。

陶芸部の小屋の、ギャラリーという部屋に俺たちはいた。壁一面に頑丈そうな棚が取りつけられており、茶碗や花瓶、つぼが並んでいる。

棚卸資産(たなおろししさん)はこれで全部ですか?」

「せやね。うちは在庫をあんま持たんよぉにしてんねん。ここに並んでるもので全部や」

ケイリさんと火織先輩のやりとりを横目に見ながら、手近な場所にあった茶碗の一つを手に取ってみる。ずっしりと重たくて、たしかに百均やスーパーで売っている茶碗とはぜんぜん違う。うわぐすりの塗り方がいいのだろうか、まるで黒曜石のようにつやつやと光っている。

「あまり気安く触らないほうがいいわよ」とケイリさん。「ここにある商品、どれも一万円を下らないから」

「はあ!?」

驚きのあまり茶碗を落としそうになる俺。まじ危ないっつの。

「土灼先輩はね、業界ではちょっとした有名人だそうよ。陶芸界に新風を巻き起こした天才高校生だ、って」

「ちゃうねん」と顔を赤らめる先輩。「はずかしいわぁ」と、もじもじしている。

「天才ちゃうねん。ただ運がよかっただけやねん。去年の夏に、ちょっと有名なコンテストで賞を取ってもおて、それからや。雑誌の取材やなんやって、えらい騒ぎやった。けど、うちは今でもうちのままや……」

「ででででも、売上げは伸びたんじゃないですかッ!?」

俺は思わず前のめりになる。

「うん。ぎょおさん売れるようになったわ。うちの作品をたくさんの人に使おてもらえるんは、やっぱり嬉しい」もじもじする牛乳瓶メガネ。もじもじ、もじもじ。

「陶芸部の売上げは、土灼先輩一人だけで年商一千万円を超えてるわ」

「いっせんみゃんいぇん!」

「賞を取ったのが去年の夏、まだまだ伸び盛りね。だから部員が先輩一人になった今でも、特例として廃部をまぬがれているのよ」

部員が一人になったら廃部? そんな校則あったかな。

「部活として認められるのは4人以上から。3人以下だと廃部よ」

「あのぅ、ケイリさん。何でも屋部も部員は俺一人なんだけど……」

「あんたのところは非公認の同好会でしょう。雑用同好会」

「う、うぐぐ」

「ケンカはダメやで」

首をかしげる牛乳瓶メガネ。

「そういえば火織先輩。その“賞を取った作品”って、このなかにあるんですか?」

天井近くまで並べられた陶器を眺めながら、俺は訊いた。ケイリさんが続ける。

「あたしもぜひ拝見したいわ。たしか“晩夏”というタイトルのお茶碗でしたっけ。お茶をいただくときに使う」

「ああ、あれはな――」

火織先輩は肩をすぼめる。

「あれは売ってもうたわ」

「「ええっ!」」

「器(うつわ)はな、眺めるものやないねん。使おてもろて初めて価値がでる、そういうものやと、うちは思うんや。そやから売ってもうた」

「なんていうか、その、もったいないような……」

「いくらで売れたんですか?」

ケイリさんの口調が、急に真剣になる。

「そない大事なことやろか?」

「教えてください、いったい、いくらで売れたんですか」

スチャ――。そろばんを握るケイリさんの手にチカラがこもる。いったいどうしたんだろう。火織先輩は弱々しく首を振った。

「大した値段とちゃうで。ほんの――」

先輩はちょっとだけ言いよどんだ。

「ほんの100万円や」



     ◆



翌日。

五時間目の授業は自習だった。窓の外を見れば、緑色のジャージを着た男子たちがハンドボールを練習している。生あくびを噛み殺しながら校庭を眺めていたら、声をかけられた。

「昨日の話の続きよ」

椅子に座ったまま、ケイリさんがふり返っていた。窓ぎわの一番後ろというベストポジションも、前席がケイリさんではうまみがない。彼女が目隠しにならないから、居眠りをしているのがモロバレなのだ。

「ダメだろ、自習とはいえ今は古典の時間だよ」

「よく言うわ。その机のうえのマンガはなに?」

「えっと、これは、その――」

「マンガなんて時間のムダよ? あ、でも『闇金ウシ●マくん』と『ナ●ワ金融道』と『カバ●タレ!』はすばらしい芸術作品だわ。次世代の基礎教養として、ぜひ全国民が読むべきね」

なんだその偏ったラインナップは。

「なんつーか、そういうマンガばっかり読んでいるとカネのことしか考えられない人間になりそうだよな」

「それって最高じゃない! あたし、お金が大好きなの

このセリフを言うときのケイリさんはマジ天使だ。この世のものとは思えないほど可憐な微笑み。うっとりとケイリさんは続ける。

「ゼロがたくさん並んだ預金通帳よりも美しいものはないわ」

通帳なんかよりケイリさんのほうがずっとキレイだと思うけどなあ――というセリフは飲み込む。

「それで、昨日の話の続きって?」

「陶芸部の話。土灼先輩、なんだか様子がおかしく無かった? あれはきっと何かを隠している証拠よ」

「火織先輩が?」

そう言われてみれば、たしかに……。

「もっと具体的にいうと、土灼先輩はたぶん在庫を隠しているんじゃないかしら。賞を取ったお茶碗の“晩夏”はそのうちの一つね。在庫は店頭に出ているもので全部だと先輩は言っていたけれど、たぶん、どこかに隠してあるはずよ」

あのおっとりした火織先輩が、そんな器用なことをするだろうか。

「だいいち、どうして在庫を隠す必要があるんだよ」

「言ったでしょ、陶芸部の決算書は売掛金の動きがおかしいって。じつをいうと売掛金の残高が、前年同期の3倍ぐらいになっているの。絶対に変だわ」

「ちょっと待った。どうして売掛金が増えたら、在庫を隠さなくちゃいけなくなるの?」

「そうね……。たとえば100万円の売上があったときは、どんな仕訳を切る?」

「昨日教えてくれたばっかりじゃん。こうだろ?」

【借方】売掛金 ¥ 1,000,000- / 【貸方】売上 ¥ 1,000,000-

「そうね。それじゃ売掛金のうち60万円だけ入金されたら、どんな仕訳を切る?」

「バカにすんなって、こうだよ」

【借方】現金 ¥ 600,000- / 【貸方】売掛金 ¥ 600,000-

「その通り。このときの売掛金の残高は?」

「借方に100万円、貸方に60万円。だから差額の40万円が売掛金の残高だ。――って、こんなの当たり前じゃん。ケイリさん何が言いたいの?」

「あたしが言いたいことは二つあるわ。ひとつは、売上が発生したときは必ず同額の売掛金が発生するということ。実際には消費税や値引きが絡んでぴったり同額にはならないけれど、でも基本的には、売上が計上されたときにはほぼ同じ額の売掛金が計上される」

「たしかにそうだよな」

「そしてもうひとつは、発生した売掛金のすべてが回収できるわけではないということ。こっちも当たり前の話よね」

「顧客が夜逃げしちゃったら、現金を支払ってもらえないもんな」

「そこまで極端な例ではなくても『支払いを先延ばしにできませんか』と相談されるなんてのはよくある話。資金繰りの苦しい客を相手にすると、売掛金の回収が滞りがちになる――売掛金の残高が増えていくわ」

「なるほど」

「たとえば陶芸部の前年度一年間――四月一日から三月末日まで――の売上げは3,600万円だったわ。なら、この一年間で発生した売掛金の総額はいくらになるかしら?」

「3,600万円だろ」

「当然ね。そして売掛金は3月末で900万円が残っていた。ということは、売上のうち何%を現金として回収できたのかしら」

「えっと――」

3,600万円発生して、900万円残ったのだから。

「うーんと、あれ――?」

「あんた本当に数字に弱いわね。3,600万円のうちの2,700万円、売上のうち75%ぶんを現金化できたことになるわ」

そーなのかー。

「逆にいえば、売上のうち25%はまだ現金化されていない――製品を納品したまま損した状態になっていることが判るわ。このパーセンテージが高くなればなるほど、その企業は売上の現金化が進んでいない、つまり資金繰りが苦しいと予想できる」

「なるほど」

「それじゃもう一つ質問。年商3,600万円の陶芸部の場合、一ヶ月の売上はいくらぐらいだったと思う?」

「えっとぉ、一年って12ヶ月だよな?」

「幼稚園児みたいなことを訊かないでよ、当ったり前でしょう! 3,600万円を12ヶ月で割った300万円が、一ヶ月ぶんの売上高になるわね」

「ケイリさんって頭の回転速いよね!」

「あんたが遅すぎるの。毎月300万円ずつ売上があったということは、売掛金も当然――?」

「毎月300万円ずつ発生していたはず、だよな」

「その通り。そして3月末の売掛金が900万円だったということは?」

「えっと……3ヶ月ぶんの売掛金が残っている、ってこと!?」

「正解。陶芸部の場合なら、1月分、2月分、そして3月分の売掛金が発生したまま残っていることが推測できる。つまり売掛金が発生してから回収するまでに、だいたい3ヶ月かかることが判る」

「うぅむ」

「売掛金が発生してから回収されるまでの期間のことを売上債権回転期間と呼ぶの。決算書を分析するときの基本よ。売上債権回転期間が長くなればなるほど、売上の現金化が遅い会社だと言えるわ」

「つまり資金繰りが苦しい――経営状態があまりよくない会社だ、と言えるんだね」

「その通り、モノが出ていってるのにカネが入ってこないんだもの。売上債権回転期間は短ければ短いほどいいわ」


売上債権回転期間 = 売掛金残高 ÷ (売上高 ÷ 12ヶ月)


「陶芸部の昨年度の売上高は3,600万円、3月末の売掛金残高は900万円、したがって売上債権回転期間は『3』になるわ」

「この数字のどこがおかしいの?」

「長くなりすぎなの。もちろん業種や会社の規模によって“正常”な売上債権回転期間は違うわ。『3』という数字そのものは別に珍しくない。大事なのは過去との比較よ。ここ数年間の資料を調べてみたんだけど、一昨年の売上債権回転期間は『1.2』、一昨昨年(さきおととし)では『0.8』だった。にもかかわらず、この3月末で急に3倍ぐらいに引き延ばされている。――いったい、これはどういうこと!?」

語気を強めるケイリさん。どうって言われても……。

「顧客の支払いが遅れがちになった、としか……」

「それも可能性の一つね。もしそうなら、まだマシよ」

スチャ――。ケイリさんはそろばんを握る。

「もしも、もしもの話よ? もし仮に、陶芸部が『架空の売上』を計上していたとしたら?」

「架空の……売上……!?」

「そう。モノを売った実態がないにもかかわらず、帳簿にだけ『売上』と『売掛金』を記載してしまう。そうすれば売上高を水増しできるわ」

「ちょ、ちょっと待ってよ! そんなことをしても一円のトクにもならないじゃんか! 架空の売上を計上したって、カネは入ってこないんだよ?」

「その通り。だから『売掛金』がいつまでも回収されずに残ってしまうのよ。架空の売掛金がね」

「だいたい何のために? 一円のトクにもならないのに、どうして架空の売上を計上しなくちゃいけないんだ?」

「この学校では、部員三名以下の部活動は廃部になる」

「!」

「陶芸部の場合は、土灼先輩の年商が1,000万円を超えていて、しかも今後も伸び続けることが見込まれるから、特例として廃部をまぬがれた」

「それじゃ、まさか……」

「もしも『年商1,000万円』というのがウソだったとしたら? 部活動を存続させるために架空の売上を計上して、利益を水増ししていたとしたら?」

火織先輩のやわらかな喋り方が脳裏をよぎった。あのほんわかした人が、そんな、人を騙すようなことを?

「俺には信じられない」

「信じる、信じないの問題じゃないわ。事実として、決算書にはおかしな数字が書かれているのよ」

「証拠は? 先輩が粉飾決算をしたという証拠はあるの?」

「まだ見つかってないわ――。というより、見つけられなかったと言うべきね。架空の売上を計上した場合、棚卸資産の数字も一緒に操作する必要がある。売上があったのに在庫が減っていなかったらおかしいでしょう? あの小屋では、出荷した製品の明細資料を受け取ったわ。実際の在庫品も確認した。たしかに決算書にも書かれていたとおり、在庫はきちんと減っていた」

「そ、それなら――」

「つまり『売上があった』と見せかけるために、徹底的に工作しているということだわ。決算書の粉飾だけなら、土灼先輩に非は無いかもしれない。だって『卒業した先輩たちが作らはった』とおっしゃっていたもの。だけど」

ケイリさんは冷たく言い放つ。

「だけど、もしも在庫を私たちの目のつかない場所に隠していたら――? たとえば“晩夏”よ。賞を取った作品を、簡単に売り飛ばすとは思えない。隠しているに違いないわ。悪意は明白でょう。言い逃れできないわ」

「どうして――」

ぶ厚いメガネをかけたポニーテールの顔が思い浮かぶ。もじもじしながら(天才ちゃうねん)と言う姿。(器はな、使おてもろて初めて価値がでる、そういうものやと、うちは思うんや――)

「どうしてケイリさんは、そうやって人を疑うの? あの火織先輩がそんな悪いことをするはずないだろ?」

できるとも思えない。

「俺はバカかも知れないけど、人を見る目はあるつもりだ。あの人はウソはついてない。第一、証拠はまだ無いんだ。どうして『粉飾決算だ』と決めつけるの?」

「そんなコトを言っていると、いつか痛い目にあうわよ。あんたはお人好しすぎる」

「ケイリさんが頑固すぎるんだ」

「この世で信じられるモノはお金だけよ。人を信じたらダメなのっ!」

「そんなの絶対に間違ってる!」

――がたんっ!

勢いよくケイリさんは立ち上がった。顔をそむけて、ぽつりとつぶやく。

「ごめん……。……用事、思い出した……」

視線をそらしたまま、手早く荷物をまとめる。

「ちょっと職員室に行ってくるわね。先に部室へ行ってて」

こんなケイリさんを見るのは初めてで、俺はただあっけにとられていた。ケイリさんは足早に教室のドアに近づくと、背を向けたまま言った。

「人はかんたんに裏切るけれど、お金は絶対にウソをつかないわ」

ケイリさんの小さな肩が、さらに小さく震えていた。



     ◆



「人はかんたんに裏切る、か」

階段を下りながら、俺は独り言を漏らした。たしかにケイリさんの言うとおりだ。彼女があんなに分からず屋だとは……。なんだか裏切られたような気分。

なかよし銀行の調査室に配属されて――というか半ば強引に引き込まれてから、二人で帰るのが日課になっていた。放課後の校舎をこうやって一人で歩くのはひさしぶりだ。まだ日は高いけれど、人気(ひとけ)のない廊下はなんだか寒々しくて幽霊でも出そうな雰囲気。心細さを感じるのは、きっと、そのせいだ。遠くから吹奏楽部のへたくそなラッパの音が聞こえる。

「ま、なんとかなるっしょ」

今日はご機嫌ナナメだったけれど、お金大好きな彼女のことだ。一万円札でほっぺたでも叩けばすぐに元気になるはずだ。オンナゴコロなんて分かんねーけど。問題は一万円札をどうやって確保するのかだけど――。

考えごとをしながら降りていたら、最後の一段を踏み外しそうになった。

「………と、とっ」

なんとかバランスを取ったけれど、二、三歩だけ勝手に足が進む。止まれない俺の前に、ちょうど廊下を通りがかった人影が――。

(やばい――っ)

と思ったときには、激しくぶつかって転んでいた。肩をしたたか打ちつけて目の前に☆が散る。いやマジで「星」じゃなくて「☆」←こんなのが視界いっぱいに飛び散った。

「っ痛ぇ――」

「いたた――」

ぶつかった相手に目を向けると、見覚えのある学校指定ジャージだった。肩ぐらいの長さの髪をポニーテールにまとめて、うつぶせにぶっ倒れている。

「って、火織先輩! すんません、大丈夫ですか!?」

「――うぅ……平気や……。平気やけど……」

先輩は這いつくばったまま、右手で前方を探っている。「メガネ、メガネ……」とつぶやいている。先輩、それ、ベタすぎじゃありませんか? 牛乳瓶メガネは、はるか遠くまですっ飛んでいた。

「はい、どうぞ」

俺はメガネを拾ってあげる。

「マジですみませんでした。怪我とか、されてま――」

と言ったきり絶句してしまう。

「ああ、よかったあ。えらいおおきに」

声を弾ませて、火織先輩はメガネに手を伸ばす。俺の視線に気付いたのか、小さく首をかしげた。メガネをかけてない素顔のままで。

「どうしたん? うちの顔、なんかついとる?」

「いいえ、どうもしないでござる」

思わず語尾がおかしくなるぐらい驚いた。度肝を抜かれるって、こういうのを言うんだろうな。白磁のような肌、均整のとれた眉、すっきりとした鼻梁――。メガネを外した火織先輩は、全宇宙的な美しさを備えていた。


お、俺の先輩がこんなに可愛いわけがない!







   ――つづく!!







学校では教えてくれないお金の話 (14歳の世渡り術)

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サクッとうかる日商3級商業簿記 テキスト

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