計測と信仰


水泳するのが、いよいよ面倒くさくなってきたと感じるのだが、30分のとくに後半、ほとんど不条理な労働を強制させられているかのような感覚に陥るほどなのだが、そもそも水泳をやるモチベーションが、どこにあったのかを思い返したくなる。健康診断で色々言われて、それではじめたのがきっかけだが、始めたら、それはそれで効果はあったのだが、しかしこれしきの運動でカロリー消費などムリなので、それより食事と飲酒リミットコントロールの方がよぽど重要なのだが、そういうことは一旦置いて、始めてしまったらそれを続ける理由を水泳という行為自体のなかに求めたくなる。タイムを計測して、それが日々少しずつ短縮していくことは楽しいかもしれないし、右肩下がりで線グラフの記録が続いていくことが、日々続けることの意味に思えてくる。泳ぎ終わった後の疲労感と混ざり合った不思議な気分の良さ、それもある。その快感を得たくて続けているなら、とてもわかりやすい。しかし快楽物質の分泌作用には、どうしても身体がいつのまにか慣れてしまう。それは認めざるを得ない。すでにかなり慣れてしまったのは間違いない。タイム短縮もさすがに頭打ちになってきて、折れ線はもうかなりの期間上下もなく真っ直ぐなままだ。そうそう進歩できるものでもない。当然そうなると次第に飽きてくる。しかし続けないわけにはいかない。続けないという選択肢は今のところない。


体脂肪率はほぼ毎日計測され数値としては長らく無変動の安定状態が続いていた、のだが、今朝のことだ。計測して驚く。ついに0.3%の増加が確認された。変動としては一年一ヶ月ぶりで、増加は2016年12月の計測開始以来初。このニュースはまたたく間に体内を駆け巡って脳内中枢にも伝達された。中枢は事態を鑑み、数値はきわめて微小であり緊急性は低いとの見解を示すも但しこれ以上の変動を抑止するための対策を直ちに検討するとの声明を各組織に布告した。


自律神経の維持。この私の基盤ではあるが、この私が制御できないシステムを保守する目的、この私は身体という容器に納まっていて、そこからのフィードバックによってこの私足りうる。でも身体は、老朽化していく、劣化していく。老朽化していたとしても、手入れの行き届いた清潔で気持ちの良い質感というものはある。いやむしろそれこそが心のよりどころで、それ以外の一切は暗闇かもしれない、だからそのように、きちんとしていなければいけない。毅然と歩き、表情はこわばらせ、一人でもきちんとした態度で食事を摂る、取り分を確保するためには、交渉も、抗議も、ときには宥和や妥協を試みもする、他者を慮ることができる程度には余裕をうしなわないようにとの思いもある、それらの維持・運用。これを自分としては、自分自身の信仰的な感覚に位置づけたい。理屈ではなく、信仰をともなう実践としたい。きちんと出来ないなら、私は信仰心が不足しているのだ。