特別な1日  

-Una Giornata Particolare,Parte2-

「正しいこと」なんかないと思う。:映画『未来を生きる君たちへ』と『スーパー』

ちょっと前、8月に見た映画2つ。格調高いアカデミー賞受賞作とおタクを主人公にしたお下劣ギャグ映画、一見対照的に見える両作品だが、どちらも案外、内省的な作品です。

未来を生きる君たちへ [DVD]

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未来を生きる君たちへ』は今年度のアカデミー賞ゴールデングローブ賞外国語映画賞をW受賞。デンマークの作品で原題は『復讐
主人公は二人のデンマークの子供。一人は母親を亡くしたばかりで父は出張ばかりのビジネスマン。もう一人の子供の父はアフリカの難民キャンプで働く医師。この父親は徹底的な非暴力の理想主義者。だが私生活では、かっての浮気が原因で子供の母親とは別居している。家庭環境が不安定で周りになじめない、孤独で繊細な二人の子どもはいつしか友達になる。
映画では彼らをめぐる、3つの復讐譚が描かれます。二人の子供たちのイジメっ子への復讐、非暴力主義の医師が目にする難民たちの極悪非道なギャングへの復讐、二人の子供たちのごろつきへの復讐。
この映画には新興国と先進国との南北問題、家庭崩壊、人種差別、理想主義と暴力の是非など現代の諸問題が、良くも悪くも教科書のようにうまく盛り込まれています。デンマーク人がスウェーデン人を差別することがあるなんて、始めて知りました。水と緑が合わさった牧歌的なデンマークの自然と人間たちの営みが対照的な、美しい映画です。そして美しさは不吉さの暗喩でもあります。ボクはこの映画を見て、今夏ノルウェイで起きた極右主義者のテロを思い出しました。

スーパー! スペシャル・エディション [DVD]

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一方 『スーパー』はアメリカの片田舎が舞台。今まで自分の人生で誇れることは、美人妻と結婚したことと泥棒を捕まえるのを警察に協力したことの2つだけという、仕事もルックスもぱっとしない40過ぎの妄想男のお話。
主人公は街のドラッグ・ディーラーに奪われた美人妻を取り戻すために、コスチュームを被って自ら街の平和を守るヒーローになろうとする。一見『キック・アス』に似ているけれど、中身は全然違う。もっとビターで内省的な感触です。主人公のおタクのでくの坊を演じたら右に出るものなしのレイン・ウィルソン、ぶち切れドラッグ・ディーラーのケビン・ベーコン、どちらも適役。主人公の相棒役でぴちぴちレオタードを纏ってエキセントリックに暴れまくるエレン・ペイジちゃんが素敵。この子、鼻ぺちゃで素朴な感じが可愛いんです。でもアカデミー賞候補にもなった伸び盛りのスターがこんなサイコな役やっていいのかぁ?。

●最近では本当に街中でヒーローごっこをやっているバカも居るらしい(シアトルの例)。

http://sankei.jp.msn.com/world/news/111019/amr11101910090002-n1.htm


二つの映画の主人公はどちらも、自分が信じる正義のために力を行使します。
『未来を生きる君たちへ』では子供たちはいじめっ子に対抗するために自転車の空気入れでボコボコにしたりナイフで脅したりする。非暴力主義の父親を殴りつけた街のごろつきには、ネットを見ながら作った爆弾でごろつきの車を吹き飛ばす。
『スーパー』の主人公は狂信的なキリスト教原理主義のTV番組に感化され自分がヒーローだと思い込んで、悪人退治のために町へ繰り出す。何の超能力も無い主人公は最初は悪人にボコボコにされるだけだが、やがてスパナを持って悪人だけでなく大して罪もない人まで片っ端から殴り倒すようになる。


未来を生きる君たちへ』と『スーパー』は同じテーマを扱っています。
それは世の中に正しいことなんてあるのだろうか、ってことです。唯一あるとすれば、人を殺したり傷つけてはいけない、ことでしょう。だが『未来を生きる君たちへ』に出てくる、難民キャンプを襲って妊婦の腹を割くのが趣味の私設軍隊のボスみたいな極悪人を目の前にしたら、それだってわかりません。ボクは画面を見ながら、『こいつ、ぶっ殺せ』と思ったもん。つい この前も『ゴルフ場にばら撒かれた放射性物質は無主物である』として東京電力の責任を認めなかった東京地裁の福島正幸という裁判官のニュースを見て、救いようがないアホだと思ったばかりです(この裁判官の名前は忘れないぞ)。




世の中 理不尽なことだらけだし、変えなければならないことが多々あるのは事実です。
だけど、『自分が正しい。反対する奴は敵だ。』
そうやって単純に敵と味方に分けられるほど、世の中はシンプルなんだろうか?多数決さえとってしまえば、強行採決して、何をやってもいい。果たしてそうなんだろうか?
『未来を生きる君たちへ』の子供たちみたいにお手製爆弾でごろつきの車をふっ飛ばしたり、『スーパー』の主人公みたいにスパナでいきなり人を張り倒したりするのとキャッチフレーズを振りかざして仮想敵を作って、強権的に改革をしようとする政治家との間に大きな違いは無いようにボクには思えます。


ノルウェイの極右テロの犯人は刑事罰ではなく、精神異常ということで収監されることが濃厚だそうです。『社会の多様性、寛容さを守ることが犯人に対する復讐だ』、というようなことを事件直後 ノルウェイの首相は語っていたと思います。一方 アメリカはパキスタンに押し入ってビン・ラディンを裁判もなしに一方的に殺害しました。世の中には色々な形の復讐があります。


きっと、世の中に絶対的に正しいことなんてない、のだと思います。例えば放射性物質から避難した人もいれば、残らざるを得なかった人もいる(ボクが福島市に住んでいたら自分だけは残らざるを得なかったと思う)。職場や家族の事情もあるし、政府の安全デマを鵜呑みにした人もいるだろうし、各自の事情は色々で、やむを得ずかもしれないが、それでも自分が判断した。たぶん、それぞれがベストを尽くしたんでしょう東京電力と政府、経産省、文部省、厚労省を除く)。
大事なのは、自分が判断した、ということを引き受けること、のような気がします。結果として何が正しかったかは誰にもわからない。けれど、これだけは間違いない。自分が判断したことから逃げるということはまた同じ間違いを繰り返すということです。今だに原発事故について全てを語ろうとしない日本の政府や役人、東京電力などを見ているとそう、思います。