作ること・作られること

どうなんでしょうか。朝日新聞。。


WiLL「朝日は腐ってる」特集を読んだ
http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2005/10/asahiwill_de04.html


というタイトルのR30:マーケティング社会時評さんを読んだ。


で、朝日がネットの中で話題になるきっかけの一つは、

ブログ界を眺めていると、内田樹センセイが「朝日新聞の購読はもう止めた」と宣言したり、この半年で割とコアな朝日新聞読者だった人の朝日離れが進み始めているような印象もあるのだけれど、実際のところどうなんだろう。だいたい、朝日を購読してる人ってネットのネの字も分からないようなイメージがあるから、ネット内だけでサンプリングしていてもわかんないんだよね。そういうのを調べてくれることを、朝日批判雑誌には期待するんだけどな。


このへんなのかなと思ったりもした。

で、この1年の間で、朝日という新聞の、事実関係についての文章作法の無さみたいなのがただただ露呈してしまったわけで、その意味からいう「クォリティ」は低下というか、限りなく劣化した。


で、内田先生は、それを、

どのような問題についても「正解」があり、それを読者諸君は知らぬであろうが、「朝日」は知っているという話型に対する膨満感が限度を超えたのである。

とか、

コンテンツが悪いと申し上げているのではない。
「語り口」が気に入らないのである。
「イデオロギッシュ」なのである。
「イデオロギッシュ」といっても、偏向しているとか左傾しているとか、そのようなレベルのことを申し上げているのではない。
問題はコンテンツじゃないんだから。
内容ではなく、そのコンテンツの「差し出し方」が私の疳に障る、と申し上げているのである。

http://blog.tatsuru.com/archives/001257.php


と、やや曖昧に書かれていたが、他者(私ね)が勝手にまとめるとしたら、自分の鋳型にはめて現象を解説し、それを正論として提示するその態度に、嫌気がさした、ということかと思う。

見るという行為、聞くという行為から文を編むというのは、どうあれ話者、筆者の視点を通すことになるから、これは誰もが逃れられない。(1)

だからその集合体としての各紙に色(つまりある種の傾向、偏向)があるのは驚くべきことではないのだ(2)、ではあるにせよ、すでにそれすら踏み越えているということなのだろうと思う。あまり詰めて考えているわけではないが、おそらく、(1)から(2)を引き出す論旨がパブリックに是とされるためには、おそらく一つの隠れた前提があるのだろう。それは、(1)が彼にとって、誠実であるということだ。そうとしか見えなかったものを責めることはできない、ということ。が、朝日は、ま、このそうではない、と。(朝日に限ったことではないにせよ)

(そう考えてくると、内田氏が書かれた文言からは、語り口がどうしたというよりは、この誠実さのなさが致命的だったという結論を引き出すこともできるようにも思う。でも、こう組んでしまったら、「朝日捏造体質」といった別の側の金城湯池に突っ込んでしまうからパス、ってことかも、など言いたい気もちょっとする。)



で、まぁこういう成り行きに関しては、私としては別になんの異論もないのだし、驚きもないのだし、ヒロさん日記さんが、夏頃に書かれていた、

2005年3月現在、両家の5人だけで株式総数の65%を占める。村山家は、3代目の次女・富美子に1人の息子がいるだけで、男児の実質的な後継ぎが他にいない。仮に1人で相続したとしても、相続税のため株式を売却せざるを得ない。美知子・富美子のご両人は高齢なので、今後、村山家の株式45%の相続と売却先をめぐって、ひと騒動が起こるのは時間の問題なのだ。

http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1146995


も、と〜ても気になる。


が、しかし、それにもかかわらず、朝日崩壊ってのはないんじゃないのかなとか私は思う。というのは、それはそれなりにこの新聞はマーケティング堅いんだよな、とも言えるかなと思うから。わはは、だが。


ネット上にいる人のかなり数多い人で、そのうちかなり書ける人というのは、とても「知りたい」人じゃないかなと思う。知りたい人は事態を捉えるための正確な材料とか、分析とかを求めるから、朝日の、「鋳型にはめた真実売ります」という態度は許せない。


が、しかし、世の中にはそういう人ばかりはいないわけで、自分が今朝言いたかったことを代弁してくれることを新聞に(雑誌でも、ネットでも)に望んでいるという人もいる。しかし、その言いたいこと、というのも、上の「知りたい人」の知りたい内容ではなくて、なんといえばいいのか、感想が自分と一致していればそれでよし、というところ。つまり、星占いを見てなんとなくいい気分になったりするのと似ている。ある種の「おまじない」だ。


すべての禍々しき出来事はブッシュのせいになってれば落ち着くとか、小泉はヒットラーなのだと聞いたら安心するとかいった「感じ」。あるいはまた、「波紋を呼びそうだ」「市民団体は反対を表明している」といった文言で落ち着く人もいるかもしれない。そして、それがどうしてそうなのかについては、それはちょうど朝見る星占いがなぜそのような帰結をもたらしたのかをたいていの人が気にかけないのと同じように、その結果だけがあればいいからリーゾニングは問題にならない。成果物さえあればいいし、それがいつでも売られているところが大事。
(星占いもおまじないも、作る側にまわり、かつ自らの知に誠実であろうとするならば、リーゾニング命です。当然。この点から考えれば、渡される側にどっぷり浸かる人と作る側を知りたい人という分類も有効なのだろう)


私としては、そういう態度で新聞に向き合っている人を責めようとは思わない。それはそれで言論の楽しみ方ではあるだろう。


で、私は星占いも嫌いではないが、とりあえず「知りたい」派、リーゾニングは無問題などではない派ではあるので、問題は結局降り出しに戻る。日本で新しいメディア、新しいタイトル(新聞のタイトルという意味)ができる可能性はあるのか、という点だ。朝日の行く末なんか、要するに「知りたい」派のうちの能力のある人たちがこの新聞が持ってきた、裸の王様的ではあるにせよ、ある種の権威から解放されるのなら、どうでもいい。