人の温かみ


  千代田線代々木公園駅で電車を降りた。
ちょっと歩けば小田急代々木八幡駅に、
反対側にもう少し歩けば渋谷駅に出る、不思議な場所だ。
その三つのどの駅からも行くことができるレストランに行く前、
他のレストランに電話をした。
サンプルで持っていったホールトマトの味どうでしたか?と。


  ピアノグリロを探していたのはこのシェフで、
トマトの感想をうかがいつつ、
ピアノグリロを日本で見つけたのだと報告した。
「あのオイル、入れ物がかわいいでしょ?
 黄色い缶に、小人が描いてあって。」
 うちみたいな所ではちょっと似合わないけど、
 小さなレストランとか、ああいうの使うといいよね。」
「でも、ホテルがおろしているみたいなので、
 他のレストランで使うのは難しいんじゃないですかね。」
「あぁ、独占輸入なの?」
「はっきりとはわかりませんが、多分そうかと思います。」
「そうなんだ。」
シェフは言った。
私はいつも、シェフの言葉の端々から、
近い将来お店を持つつもりなんだろうなという意志を感じる。
しかも、そんなに大きくはない温かい雰囲気のお店で、
いつもお客さんの顔を見ながら作っていたいのだろうなと想像している。
彼もまた、人との会話を楽しみにしているのだと思う。
かつて私が珈琲を介して人と触れ合うことを楽しんだように、
自分の作った料理を介して人と触れ合っていたいのだろうと思う。
私は、今まで何度か商談した中での会話や、
実際にお客様と話をしているシェフの姿から、そんなことを感じた。


  シェフに電話をする前に行ったお店が、
席数がそんなに大きくなくてこじんまりしているのだけど、
次から次へとお客様が入ってきて、
満席になっても後から後からお客様がきて、
忙しいにも関わらずシェフがその都度ホールに出てきて常連様と会話を楽しんでいる、
温かい雰囲気のお店だった。
あぁきっとあのシェフの理想って、こういうお店なんだろうなと思っていた。
私はそのお店を担当することになって今日初めて訪問したのだけど、
あまりに忙しそうだったのでまた改めて商談にうかがうことにした。


  シェフと電話で、とりとめもない話をする。
たもぎ茸ってご存知ですか?と私が聞く。
実は他のお客様で来月のメニューにたもぎ茸をお使いになるそうなんですが、
それに合うワインを提案することになっていて、
たもぎ茸について調べたんですがあまりにも情報が少なかったので
シェフに教えていただこうと思って、と言ったが、
シェフも知らないようだった。
  この前言ってたレストランの様子はどうですか?と、今度はシェフから聞かれる。
シェフがチーズにこだわりがあるようなので、
チーズにこだわっている有名店を私が紹介したのだ。
私が担当するようになったお店なので、
どこからチーズを仕入れているかなどを探ってみますと、私が話したのだ。
どんな様子で私が今訪問しているかを報告する。
  3年くらい前の某雑誌で生ハムとチーズの特集していて、
それに国内のチーズにこだわったレストランやお店が沢山載っていましたよ、
と私が言ったら、秋葉原ブックオフで探してみますとシェフが言っていた。
8階建ての大きなブックオフらしい。
  さっき行ったレストランの話もしたいな、と思いながら電話を切った。


  シェフから食材やイタリアのことを教えてもらう代わりに、
私は、商社の営業マン視点の情報を提供する。
「また何か面白い情報があったら教えてください。」
とシェフに言われた。
このシェフのために調べることで、
私自身の勉強にもなるし、
他のレストランのシェフと話す上での参考にもなる。


  夕方、神田の古本屋街を歩いていたら、
雑誌のバックナンバーばかりを集めた古本屋を見つけて、寄り道してしまった。
そこで、3年くらい前の、
ワインにこだわった和食のお店やイタリアンレストランを特集した雑誌を400円で買った。
もともと雑誌や本を買うのが好きだったから、
ワインやレストランについても、
ちょっとこだわって記事を書いている雑誌を見るとつい買ってしまう。
ただレストランばかりを特集したような雑誌に興味はないが、
シェフの顔写真もしっかり載せて、
シェフのこだわりなどシェフ自身のことをしっかり書いている雑誌は、面白い。


  古本屋を出てまた3軒くらい隣の古本屋で、
木村伊兵衛とライカの関係について荒木経惟が解説している号の『太陽』を見つけた。
500円だったので、これもついつい買う。


  その後に行く予定だったお店はアポイントをとっていなかったので、
ついつい寄り道を重ねながら5時過ぎに訪問すると、意外と話が長引き、
会社に帰るのが遅くなった。
しかし課長が直々に
「今日のレポート出したら早く帰りな。」
と声を掛けてくださったので、仕事をほっぽって、レポートだけ出して帰ってきた。


  こんな風に日々が過ぎていくのなら、会社員も、嫌じゃないと、バスの中で思った。