新しいTERRAZINE

The new TERRAZINE

「いただきます・ごちそうさま」が言えないのは、日本の食そのものの危機

母親の作ってくれた料理に「いただきます・ごちそうさま」を言えない人は、反抗期の少年ぐらいだろう。でも外食だと言わないという人は少なくない。それは作ってくれる人が遠いからだと思う。
例えば、おいちゃんおばちゃんが夫婦でやっているような定食屋では言う人も、ファミレスでは言わないとか、母親の弁当なら言っても、コンビニ弁当には言わないとか。お互いの関係が一対一に近ければ近いほど、自然と感謝の気持ちが湧くし、一対多だと遠く感じてしまう。距離感の問題だと思うのだ。給食でいただきますって言わないのも、今の給食は大きなセンターでまとめて作られて、学校の給食のおばちゃんは温めてるだけ、って現状があるからではないか。
つまり道徳とかマナーとかの問題ではなく、食のマス化に原因があるのだと思う。大量生産大量消費の飽食の時代。それはもはや食事と呼べるものではなく「エサ」になってしまっているのではないか。我々は自分の好きなモノを好きな時間に選んで食べていると思っているが、実はブロイラーと同じようにエサを与えられてるだけではないのか。「そんなことはない、私は妻の作った美味しい食事を毎日食べている。」と思っていても、実は冷凍食品やスーパーのお総菜で、先述の給食のおばちゃんと変わらないかもしれない。
「いただきます・ごちそうさま」が言えなくなっているのは、実は日本人の食、いや日本人そのものの危機なのかもしれない。

お客様は神様じゃない

『「いただきます・ごちそうさま」こそ日本文化そのもの』というコラムで、「金を払っているのだから、店がお客に感謝すべきだ」という話をした。これは「お客様は神様」という考えがあるからだと思う。だがそれは全く勘違いをしている。
客は店に自分の欲しいもの(サービス)を要求し、店はそれに応える。代わりに客は店に「代金」を支払う。代金を辞書で引くと「品物または物件の対価として支払う金銭」とある。つまり当然の義務を果たしているだけなのだ。給食でも外食でも、先に要求しているのは客側であって、店側ではない。客は自分の欲求を満足してくれた店に感謝し、店は自分を選んでくれた客に感謝する。対等な立場なのだ。もし客が望みもしないモノを店側が一方的に押し付けて取引が成立したならば、「お客様は神様」かもしれないが、この場合「お客様はカモ様」というのが正解だろう。