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2016-12-03

紅陽侯と南陽郡の劉氏

上聞之大怒、乃使尚書責問司隸校尉・京兆尹「知成都侯(王)商擅穿帝城、決引灃水、曲陽侯(王)根驕奢僭上、赤墀青瑣、紅陽侯(王)立父子臧匿姦猾亡命、賓客為羣盜司隸・京兆皆阿縱不舉奏正法。」

(『漢書』巻九十八、元后伝)



初、 紅陽侯立就國南陽、與諸劉結恩、立少子丹為中山太守。世祖初起、丹降為將軍、戰死。上閔之、封丹子泓為武桓侯、至今。

(『漢書』巻九十八、元后伝)




前漢成帝の外戚王氏、つまりあの王莽たちの一族は権勢を恃みとした僭上の沙汰や横暴、犯罪行為が酷かったといい、紅陽侯王立は親子で逃散者や犯罪者を隠匿したり、賓客が略奪行為にいそしんだり、といった有様だったそうな。





その紅陽侯王立の領国は南陽郡にあった。



王立は南陽郡の劉氏たちと親しくしていたらしい。




かの光武帝も王立一家と付き合いのあった「南陽郡の劉氏」だったらしく、挙兵後は王立の子を将軍として取り立てたという。





同じ列伝内で自分の仕えている王朝の実質初代が横暴な外戚と親しかったんですよと明言する班固先生、蛮勇振るいすぎじゃね?

2016-12-02

南陽郡紅陽国の主

時帝舅紅陽侯(王)立使客因南郡太守李尚占墾草田數百頃、頗有民所假少府陂澤、略皆開發、上書願以入縣官。有詔郡平田予直、錢有貴一萬萬以上。

(孫)寶聞之、遣丞相史按驗、發其姦、劾奏立・尚懷姦罔上、狡猾不道。尚下獄死。立雖不坐、後兄大司馬衛將軍(王)商薨、次當代商、上度立而用其弟曲陽侯(王)根為大司馬票騎將軍。

(『漢書』巻七十七、孫宝伝)



前漢末期近く、成帝の叔父すなわち外戚の紅陽侯王立は、南郡太守と結託して農地開拓で不正を行って金銭を得た、という*1





永始・元延間、上怠於政、貴戚驕恣、紅陽長仲兄弟交通輕俠、臧匿亡命

(『漢書』巻九十、酷吏伝、尹賞)



また、先ほどの王立の領国である紅陽では、「長仲」なる者たち兄弟が反社会的勢力となり、逃散した民をひそかに匿っていたという。




「長仲」が人名なのか兄弟二人の名(字)なのか諸説あり、紅陽侯の子のことであるという説まであるが、とにかく紅陽侯のお膝元でそういう勢力がのさばっていたらしい。



おそらくは紅陽侯自身がその反社会的勢力のバックに絡んでいたことだろう。





紅陽侯王立に限ったことではないはずだが、彼ら外戚は権力や財力を最大限に活用して現地で蓄財であるとか隷民(私有地を耕作させる)の確保であるとかにいそしんでいたのだろう。

*1:元々民に貸し与えられて開墾されていた土地までも開拓した土地と偽って政府に買い取らせたらしい。

2016-12-01

光武帝逮捕さる

樊曄字仲華、南陽新野人也。與光武少游舊。建武初、徴為侍御史、遷河東都尉、引見雲臺。

初、光武微時、嘗以事拘於新野、曄為市吏、餽餌一笥。帝徳之不忘、仍賜曄御食、及乗輿服物。因戲之曰「一笥餌得都尉、何如?」曄頓首辭謝。

(『後漢書』列伝第六十七、酷吏列伝、樊曄)




後漢初期の樊曄は光武帝劉秀と昔からの知り合いだった。




光武帝の挙兵前、光武帝南陽郡の新野県で官に拘束される事態に陥ったらしい。



樊曄はその時にジェイルハウスロックされた光武帝食事を差し入れした。




光武帝はその恩を忘れず、皇帝になってから彼に皇帝食事や衣服や車などを下賜し、都尉の地位を与えて「差し入れひとつで都尉の地位を得たけど、どうよ?」と尋ねたそうだ。







「性勤於稼穡」「光武事田業」(『後漢書』本紀第一上、光武帝紀上)などと言われている光武帝が、どうして官に拘束される羽目になったのだろうか。




連座冤罪が現代よりはるかに厳しかっただろうから光武帝に非があったとは限らないが、ちょっと気になる。


それともどこか別の列伝などに書いてあるだろうか。

2016-11-30

うわばみ夫人

先是、衛將軍王渉素養道士西門君惠。君惠好天文讖記、為渉言「星孛掃宮室、劉氏當復興、國師公姓名是也*1。」渉信其言、以語大司馬董忠、數倶至國師殿中廬道語星宿、國師不應。後渉特往、對(劉)歆涕泣言「誠欲與公共安宗族、奈何不信渉也!」歆因為言天文人事、東方必成。渉曰「 新都哀侯小被病、功顯君素耆酒、疑帝本非我家子也。董公主中軍精兵、渉領宮衛、伊休侯主殿中、如同心合謀、共劫持帝、東降南陽天子、可以全宗族。不者、倶夷滅矣!」伊休侯者、歆長子也、為侍中五官中郎將、(王)莽素愛之。歆怨莽殺其三子、又畏大禍至、遂與渉・忠謀、欲發。

(『漢書』巻九十九下、王莽伝下)




王莽の新王朝の末期。



王莽の従兄弟にあたる王渉は王莽に対する反乱を企て、王莽の腹心として働いてきた国師公劉歆(実際にはこの頃「劉秀」と改名していた)に反乱を持ちかけた。




その際、王渉は「新都哀侯(王莽の父)は病気で、功顕君(王莽の母)は前々から酒好きでした。皇帝(王莽)は我らが王氏の血を本当に引いているんですかねえ・・・」と、王莽が不義の子ではないか、との疑念を劉歆に語ったという。





これは王莽への反乱に対する大義名分、劉歆への説得材料としてでっちあげた疑惑かもしれないが、「実子ではない疑惑」が始皇帝東晋元帝などだけではなく、王莽にもあったということではあるようだ。

*1:「劉秀が天子になるべきだ」という予言が当時流布していたという記録がある。

2016-11-29

新しい嫁2

謝承書曰、何湯字仲弓、豫章南昌人也。(桓)榮門徒常四百餘人、湯為高第、以才明知名。榮年四十無子、湯乃去榮妻為更娶、生三子、榮甚重之。

(『後漢書』列伝第二十七、桓栄伝)



後漢初期の人、桓栄。書経に通じた大儒学者であった。



だが彼は四十歳になっても後継ぎの子が生まれていなかった。




そこで彼の弟子の何湯という者が桓栄と妻を離縁させ、新たに別の女性と結婚させた。


桓栄はその新しい妻との間に子供を三人儲けたので、桓栄は弟子の何湯のことを大変重んじるようになった、という。




この時代、後継ぎの子がいないというのは大変な親不孝であったようなので、現代的な捉え方とは切実さなどが段違いだとは思うが、それにしても弟子が師匠に妻との離縁を勧めるというのはなかなかエグイ話だとは思う。