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2018-07-17

100年の間に

荊王劉賈者、諸劉、不知其何屬初起時。

(『史記』巻五十一、荊燕世家、荊王劉賈)



荊王劉賈、高帝從父兄也、不知其初起時。

(『漢書』巻三十五、荊王劉賈伝)




劉邦の元にいた荊王劉賈。




彼は劉邦の親族であったと『史記』でも『漢書』でも書かれているが、『史記』ではどんな関係か不明と書かれている一方、『漢書』では「従兄」であったとされている。




両書の成立時期で見ると100年以上離れているわけだが、100年以上後から成立した方が詳しくなっているというのは、よく考えるとなかなか面白い現象である。



より近い時代に分からなかった事が、その後100年の間に分かる、というのは、この場合どういう事なんだろうなあ・・・。

2018-07-16

臨江王の動向

項羽と劉邦が争っていた時代、江陵あたりの王だった臨江王共敖は、項羽と劉邦が争っている最中には特に動いた形跡がない(義帝を攻撃した王の一人という位)ように思える。




臨江王は二代目の共尉の時、項羽が滅んでから劉邦に従わず討伐された。




そこから類推して共敖も項羽に与して劉邦と敵対していたように考えたくなるが、共敖と共に義帝を討ったと言われている呉芮・英布はどちらも最終的には劉邦に与している。




共敖も項羽に与していたとは限らないのではないか。中立的な立場であったとか、共尉までは劉邦寄りだったとか、そんな可能性もあるかもしれない。



共敖が項羽に忠実な存在だったなら、劉賈らの楚侵攻を傍観していたように見えるのが不自然になるのではなかろうか。

2018-07-15

劉邦の対楚戦略について

漢王跳、獨與滕公共車出成皋玉門、北渡河、馳宿脩武。自稱使者、晨馳入張耳・韓信壁而奪之軍。乃使張耳北益收兵趙地、使韓信東撃齊。漢王得韓信軍、則復振。引兵臨河、南饗軍小脩武南、欲復戰。郎中鄭忠乃説止漢王、使高壘深塹、勿與戰。

漢王聽其計、使盧綰・劉賈將卒二萬人・騎數百、渡白馬津、入楚地、與彭越復撃破楚軍燕郭西、遂復下梁地十餘城。

(『史記』巻八、高祖本紀)


漢四年、漢王之敗成皋、北渡河、得張耳・韓信軍、軍脩武、深溝高壘、使劉賈將二萬人・騎數百、渡白馬津入楚地、燒其積聚、以破其業、無以給項王軍食。已而楚兵撃劉賈、賈輒壁不肯與戰、而與彭越相保。

漢五年、漢王追項籍至固陵、使劉賈南渡淮圍壽春。還至、使人両形紳膸頁麓殷。

周殷反楚、佐劉賈舉九江、迎武王黥布兵、皆會垓下、共撃項籍。

(『史記』巻五十一、荊燕世家、荊王劉賈)



サラッと書かれてる感があるけど、このあたりの話って割と凄い事じゃないだろうか。




いくら復活の途上にあったとはいえ項羽に負けた後の劉邦が、敵地のはずの楚へ兵を送り込み、まんまと後方攪乱や兵站破壊を成功させ、最後には重臣と思われる大司馬周殷を離反させるに至った。





つまり項羽はこれで本拠のはずの楚の大部分を失った事になるはずで、一気に敗死に至る要因と言えるだろう。





だがこれも、以前より私が言っている「項羽は本来楚にとって反乱者であり、「西楚覇王」を称して以降も楚内に項羽に対し反抗的勢力が多かった」という事の一つの現れと見る事も出来るのではなかろうか。



劉邦そもそも同じ楚の将であるから、劉邦の軍が「侵攻する敵」ではなく「同じ敵と戦う同盟軍」に見えた者も少なからずいたのではなかろうか。

そういった者は劉邦の軍に対し門戸を開き、自ら協力した事だろう。



それが「敵地」楚に攻め込み短期間で大きな成果を挙げた理由なのではなかろうか。

いつの間にか・・・

7月も15日。そろそろ折り返しなのか・・・。いつの間に?




ぼやぼやしているとすぐに1年過ぎてしまうな・・・。

2018-07-14

ひとこと

項羽って「四面楚歌」にショック受けてたみたいだけど、元を辿ると楚王(懐王)の命令に背いたのがほかならぬ項羽だし、最終的に義帝(懐王)を殺したのもほかならぬ項羽




力が衰えたら、そら全力でリベンジするわな。

2018-07-13

お見舞い申し上げます

建安十三年の私の行軍で、様々なご批判をいただいております。江南への無理な進軍による疫病発生時に劉備に負けたかのような誤解を与え、不愉快な思いを抱かせたことをお詫び申し上げます。

https://twitter.com/nishy03/status/1016934464826630144