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2017-03-26

『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その15

その14の続き。



又侍郎王盱見人衣白布單衣、赤繢方領、冠小冠、立于王路殿前、謂盱曰『今日天同色、以天下人民屬皇帝。』盱怪之、行十餘歩、人忽不見。至丙寅暮、漢氏高廟有金匱圖策『高帝承天命、以國傳新皇帝。』明旦、宗伯忠孝侯劉宏以聞、乃召公卿議、未決、而大神石人談曰『趣新皇帝之高廟受命、毋留!』於是新皇帝立登車、之漢氏高廟受命。受命之日、丁卯也。丁、火、漢氏之徳也。卯、劉姓所以為字也。明漢劉火徳盡、而傳於新室也。皇帝謙謙、既備固讓、十二符應迫著、命不可辭、懼然祗畏、葦然閔漢氏之終不可濟、斖斖在左右之不得從意、為之三夜不御寢、三日不御食、延問公侯卿大夫、僉曰『宜奉如上天威命。』於是乃改元定號、海内更始。新室既定、神祇懽喜、申以福應、吉瑞累仍。詩曰『宜民宜人、受祿于天。保右命之、自天申之。』此之謂也。」

五威將奉符命、齎印綬、王侯以下及吏官名更者、外及匈奴・西域、徼外蠻夷、皆即授新室印綬、因收故漢印綬

賜吏爵人二級、民爵人一級、女子百戸羊酒、蠻夷幣帛各有差。

大赦天下。

(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)





また侍郎の王盱という者が白い衣を着て赤い縫い取りのある上着をまとい、小さな冠を付けた人間を見た。その者は宮殿の前に立って王盱に「今日、天下は同じ色である。天下の人々を皇帝に託す」と言った。王盱は怪しんだが、十数歩歩いたらその人間は忽然と見えなくなった。

丙寅の暮れになって漢の高皇帝廟に金の箱の中の図と策書があり、「高皇帝天命を受けて天下を新皇帝に伝える」と書かれていた。宗伯の忠孝侯劉宏が報告し、三公九卿以下を集めて議論させたが結論がでなかった。そうしたところ大きな神石の人が「新皇帝に高皇帝廟へ行って天命を受けるよう促せ。留まってはならん」と言った。

そこで新皇帝はすぐに馬車に乗って高皇帝廟へ行って天命を受けた。天命を受けた日は丁卯であったが、「丁」は漢王朝の火徳に当たり、「卯」は漢王朝姓の「劉」という字に使われている字である。劉氏の漢の火徳の命脈が尽きて新王朝に伝えられることは明らかである。

皇帝は固く辞退したが十二の予兆が迫り、天命を辞退することができず、茫然自失となって恐れおののき、漢王朝を遂に助けられずに終わったことを悼んで動揺し、漢を補佐することに努めようとの思いを遂げられなかったため、三日三晩に渡って寝食を満足に取ることもできず、諸侯や大臣たちに意見を求めたが、皆「天の威命の通りにするべきです」と言った。そこで改元して称号を定め、天下全てを新規まき直しした。

王朝が定まると神も喜んで福をもたらし、瑞祥が重ねて出現した。『詩経』に「人々にとって宜しい徳があれば天から福が下る。天は守り助けて天下を治めるよう命じる」と言っているのはこの事である。」



五威将は天からの予兆を奉じ、印綬を持参し、諸侯以下官吏に至るまでの称号、官名が変わった者、および匈奴や西域、塞外の異民族たちのに新しい印綬を授け、もとの漢の印綬を回収させた。



官吏爵位二つ、民に爵位一つ、女子に百戸ごとに羊の肉と酒、異民族に等級ごとに貨幣や絹をそれぞれ下賜した。



天下に大赦令を下した。






王莽、天がどうしてもって言うから仕方なく即位したと言い募るの巻。




辞退祭りであったことと皇帝の座に就くことの矛盾を解消するには、より上位で、命令は絶対で許してもくれないという相手が出てくるしかない。




そして、五威将たちの本当の任務は、諸侯王や列侯、太守といった連中から漢の爵位官位を回収して新のそれと交換させることだった、ということのようだ。



諸侯王にとっては事実上地位が下がることなので、下手をすれば暴発を起こしかねないわけであるから、軍容を整える(少なくとも名義上は)必要があったのだろう。

2017-03-25

『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その14

その13の続き。



總而説之曰「帝王受命、必有徳祥之符瑞、協成五命、申以福應、然後能立巍巍之功、傳于子孫、永享無窮之祚。故新室之興也、徳祥發於漢三七九世之後。肇命於新都、受瑞於黄支、開王於武功、定命於子同、成命於巴宕、申福於十二應、天所以保祐新室者深矣、固矣!武功丹石出於漢氏平帝末年、火徳銷盡、土徳當代、皇天眷然、去漢與新、以丹石始命於皇帝皇帝謙讓、以攝居之、未當天意、故其秋七月、天重以三能文馬。皇帝復謙讓、未即位、故三以鐵契、四以石龜、五以虞符、六以文圭、七以玄印、八以茂陵石書、九以玄龍石、十以神井、十一以大神石、十二以銅符帛圖。申命之瑞、寖以顯著、至于十二、以昭告新皇帝。皇帝深惟上天之威不可不畏、故去攝號、猶尚稱假、改元為初始、欲以承塞天命、克厭上帝之心。然非皇天所以鄭重降符命之意。故是日天復決以勉書。

(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)





その内容を総合してこう説いた。「帝王が天命を受ける際には、必ず徳について符合する瑞祥があって五行の順番通りとなり、重ねて福への呼応があり、その後大きな功績を立てて子孫に受け継ぎ、永遠に続く天からの祝福を受けるのである。故に新王朝が勃興する歳は、徳についての瑞祥は漢の三七の年数、九世代の後に興った。最初に新都侯に命じられ、瑞祥を黄支国から受け、武功県から天子となるよう命じる文が出現し、梓潼県(子同)から出た金の箱で天命が定まり、巴郡の石で天命は完成した。福に応じた事柄が十二起こったのである。天がかくも深く新王朝を守り助けようと思っているのであることは明らかである。

武功県の赤い文字が書かれた石は漢の平帝の末年に出現した。火徳が燃え尽き、土徳が変わるべきであるということとなり、天は漢から新へ天命を移そうと思い、そこで赤い文字の石によって皇帝になるよう命じたのである。

皇帝は辞退して摂皇帝となったが、天の思いを満たさなかったため、秋七月になって天は重ねて「三能」の星座やシマウマという形で天意を示した。

皇帝はまた謙譲して即位しなかったので、三つ目に鉄の割符、四つ目に石の亀、五つ目に虞舜の割符、六つ目に文章の書かれた圭、七つ目に黒い印、八つ目に茂陵の石に書かれた文、九つ目に黒い竜の石、十個目に神の井戸、十一個目に大きな神の石、十二個目に銅の割符と絹に書かれた図を下した。次第に顕著になって十二にいたり、明らかに新皇帝になるべきことを告げたのである。

皇帝は深く天の威光を恐れずにはいられないと思い、「摂」の号を取り去ったが「仮」を名乗って「初始」と改元し、天命要求を満たし上帝の心を収めようと思ったのである。しかしながら天がしきりに天の意思を下した本意ではなかったため、天はまた皇帝になるよう命じる書を下すことを決意したのである。






王莽が五威将とやらに広めさせた怪奇現象のサマリーというところか。



一部初耳な瑞祥もあるが、多くは『漢書』王莽伝上で言及されているので、気になった人は読み返してみていはいかがだろうか(宣伝)



この文章はまだ終わっていないので次回に続く。

2017-03-24

『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その13

その12の続き。




是時百姓便安漢五銖錢、以莽錢大小両行難知、又數變改不信、皆私以五銖錢市買。譌言大錢當罷、莫肯挾。莽患之、復下書「諸挾五銖錢、言大錢當罷者、比非井田制、投四裔。」

於是農商失業、食貨倶廢、民人至涕泣於市道。及坐賣買田宅奴婢、鑄錢、自諸侯大夫至于庶民、抵罪者不可勝數。

秋、遣五威將王奇等十二人班符命四十二篇於天下。徳祥五事、符命二十五、福應十二、凡四十二篇。

其徳祥言文・宣之世黄龍見於成紀・新都、高祖考王伯墓門梓柱生枝葉之屬。符命言井石・金匱之屬。福應言雌雞化為雄之屬。其文爾雅依託、皆為作説、大歸言莽當代漢有天下云。

(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)





この時、人々は漢の五銖銭を信用しており、王莽の大小二種類の銭が両方通用するかわかりにくく、更に何度も改変されていて信用されず、皆ひそかに五銖銭で商取引をし、大銭は廃止されるはずとの風説が流布し、所持しようとしなくなった。王莽はそれに困ってこう命令した。「五銖銭を使った者と大銭が廃止されるはずだと言った者は、井田制を非難した者と同様に四方の辺境へ追放する」



その後農業も商業も混乱し、食も貨幣もおかしくなって人々は道ばたで泣きわめくほどになった。また、田宅や奴婢を売買したこと、銭を盗鋳したことについては、諸侯や大臣、官僚から庶民に至るまで、数えきれない数が罪に問われた。



秋、五威将王奇ら十二人に分担して天からの予兆など四十二種について天下に広く伝えさせた。



黄徳についての瑞祥五件、天からの王朝交代についての予兆二十五件、福に感応して起こった現象十二件、あわせて四十二種類であった。



黄徳についての瑞祥は漢の文帝や宣帝の時に成紀や新都で出現した黄竜、王莽の先祖王伯(王遂)の墓の門の木から枝や葉が生えたことなどであった。天からの王朝交代についての予兆は井の石や金の箱などであった。福に感応して起こった現象は雌鶏が雄に性転換したことなどであった。どれも経書に近い文章を作って王莽が漢王朝に代わって天下を治めるべきである、という内容を説いた。




王莽の貨幣、さっそく暗雲。




そして、引き締めのためか王莽は瑞祥の宣伝を図る。



十五年春、黄龍見於成紀。

(『漢書』巻四、文帝紀、文帝前十五年)

夏四月、黄龍見新豐。

(『漢書』巻八、宣帝紀甘露元年)


「黄竜」とは漢王朝の盛んな時代に既に現れていたこれらの竜のことを言う。


「新都」に出現したと言っているが、宣帝の時に黄竜が広漢郡に出現したという記録もあるらしいので、広漢郡新都県のことを指している可能性もあるかもしれない。ただ実際のところはわからない。




この五威将らにはただの宣伝だけではない目的があったようだが、それは次回以降で。




2017-03-23

『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その12

その11の続き。



莽曰「古者、設廬井八家、一夫一婦田百畝、什一而税、則國給民富而頌聲作。此唐虞之道、三代所遵行也。秦為無道、厚賦税以自供奉、罷民力以極欲、壞聖制、廢井田、是以兼并起、貪鄙生、強者規田以千數、弱者曾無立錐之居。又置奴婢之市、與牛馬同蘭、制於民臣、顓斷其命。姦虐之人因縁為利、至略賣人妻子、逆天心、誖人倫、繆於『天地之性人為貴』之義。書曰『予則奴戮女』、唯不用命者、然後被此辜矣。漢氏減輕田租、三十而税一、常有更賦、罷癃咸出、而豪民侵陵、分田劫假。厥名三十税一、實什税五也。父子夫婦終年耕芸、所得不足以自存。故富者犬馬餘菽粟、驕而為邪。貧者不厭糟糠、窮而為姦。倶陷于辜、刑用不錯。予前在大麓、始令天下公田口井、時則有嘉禾之祥、遭反虜逆賊且止。今更名天下田曰『王田』、奴婢曰『私屬』、皆不得賣買。其男口不盈八、而田過一井者、分餘田予九族鄰里郷黨。故無田、今當受田者、如制度。敢有非井田聖制、無法惑衆者、投諸四裔、以禦魑魅、如皇始祖考虞帝故事。」

(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)





王莽は言った。「昔、九等分した田と小屋を八世帯分作り、一組の夫婦が百畝を耕し、十分の一の税を取り、そして国に必要なものは供給され、民は裕福になって称える声が起こった。これが堯舜の行った道であり、夏殷周三代が従ったことである。

秦王朝は非道なことをし、労役や税を増やして供給させて民の力を疲弊させて私欲を極め、聖人の制度を破壊し、九等分した田を廃止した。そのために豪族による兼併が起こり、強者は田を千人分も持ち、弱者は錐を立てる場所すら無いありさまだった。またその上に奴婢の売買市場を置いて牛や馬と同じ檻に置き、民を支配し、その命を自由にした。残虐な者たちはそれによって利益を得、人の妻子を誘拐して売買するに至り、天の心に背き、人の道を踏み外し、「天地の性質として人を尊んでいる」という『孝経』の言葉の意義と乖離している。『書経』に「予は汝を奴隷にする」というのは、命令に従わない者だけがその罪を受けるということである。

漢王朝は田租を軽減して三十分の一とし、更に徭役があり、みな疲弊して豪族の兼併が起こり弱者による小作と強者による収奪が行われ、名目は三十分の一でも、実際には十分の五の税がかかっているようなものであった。父子や夫婦が一年中耕作していても自活するには足りないというありさまであった。富める者は飼い犬や家畜の馬も豆や穀物を残し、驕慢になって邪悪なことを行う。貧しい者は酒粕や米糠をも避けずに食べ、追い詰められて悪事に手を染める。富める者も貧しい者も罪に陥り、刑罰が盛んに行われるのである。

予が以前宰相であった時、始めて天下の公田を井田(九等分の田)とする計算を命じたが、反逆者が現れたためにしばらく停止していた。今より天下の田を「王田」と改称し、奴婢を「私属」と改称し、どちらも自由売買を禁止する。男子の人口が八に満たず、田が井田一つ分以上ある場合には、隣接の里の親族に分与するものとする。元は田を持たず、今回田を受け取るべき者は制度通りにせよ。井田の聖なる制度を誹謗し、違法に人々を惑わした者は、四方の辺境に放逐して物の怪たちの肉の壁になってもらう。これは我が祖虞舜以来の古法である」





王莽、現状の貧富の差、豪族の兼併、貧者の奴婢化といった問題の根源を農地制度に求め、古の理想的制度とされる「井田制」復活を宣言するの巻。




下令曰「漢氏減輕田租、三十而税一、常有更賦、罷癃咸出、而豪民侵陵、分田劫假、厥名三十、實什税五也。富者驕而為邪、貧者窮而為姦、倶陷於辜、刑用不錯。今更名天下田曰王田、奴婢曰私屬、皆不得賣買。其男口不滿八、而田過一井者、分餘田與九族郷黨。」犯令、法至死、制度又不定、吏縁為姦、天下謷謷然、陷刑者衆。

(『漢書』巻二十四上、食貨志上)


誰もが予想したようにこの理想の制度は案の定という結果に終わるわけだが、「強い王朝を取り戻す」とか「民をワーキングプア奴隷化から救い出す」といった理念で動こうとしていることは評価してもいい、のかもしれない。




2017-03-22

『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その11

その10の続き。



四月、徐郷侯劉快結黨數千人起兵於其國。快兄殷、故漢膠東王、時改為扶崇公。快舉兵攻即墨、殷閉城門、自繫獄。吏民距快、快敗走、至長廣死。

莽曰「昔予之祖濟南愍王困於燕寇、自齊臨淄出保于莒。宗人田單廣設奇謀、獲殺燕將、復定齊國。今即墨士大夫復同心殄滅反虜、予甚嘉其忠者、憐其無辜。其赦殷等、非快之妻子它親屬當坐者皆勿治。弔問死傷、賜亡者葬錢、人五萬。殷知大命、深疾惡快、以故輒伏厥辜。其滿殷國戸萬、地方百里。」又封符命臣十餘人。

(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)





四月、徐郷侯劉快が数千人を集めて自分の領国で挙兵した。劉快の兄の劉殷は元は漢の膠東王で、新になって扶崇公に改められていた。劉快は即墨を責めたが、劉殷は城門を閉じ、自首して獄に繋がれた。人々も劉快を拒絶したため劉快は敗走し、長広で死亡した。



王莽は言った。「昔、予の祖先の済南愍王(斉の愍王)が燕の攻撃に苦しんだ時、斉の臨淄から出て莒に立てこもった。一族の田単がはかりごとを巡らせて燕の将軍を捕えて殺し、斉を奪い返した。今、即墨の人々は心を一つにして反乱者を滅ぼした。予はその忠誠心を大変嬉しく思うと共に、無実の者たちを哀れに思う。劉殷らや、劉快の妻子以外の他の親族で本来なら連坐すべき者たちは、みな罪に問わないように。死傷者を弔問し、亡くなった者には人ごとに五万銭の葬式代を下賜する。劉殷は大いなる天命を知り、劉快のことを深く憎み、それゆえに劉快はすぐに罪に伏した。劉殷の国を一万戸、百里四方とする」



また、天命の予兆をもたらした臣下十余人を封建した。





漢の膠東王だった劉殷は武帝の弟の子孫。徐郷侯劉快については、『漢書』王子侯表下によると「徐郷侯炔」と書かれている。いわゆる「推恩の令」で膠東王家から分家した侯である。



即墨は膠東王国の県のひとつで、おそらく首都である。劉快は分家なので同じ膠東王国内に領地があり、そこで挙兵して手近な都市であった即墨を攻め落とそうとしたということだろう。




ここでもかつての安衆侯劉崇の一族劉嘉のように自首して神妙にすれば連坐するどころか褒められる、という法則が発動。




反乱者の切り崩しには有効だっただろうが、出だしでつまずいても一族全滅はしないと分かれば逆にカジュアルに反乱してしまう危険性もあったのではないかなあ、とか思わないでもない。