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2017-01-25

『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その18

その17の続き。



深執謙退、推誠讓位。定陶太后欲立僭號、憚彼面刺幄坐之義、佞惑之雄朱博之疇、懲此長・宏手劾之事、上下壹心、讒賊交亂、詭辟制度、遂成簒號、斥逐仁賢、誅殘戚屬、而公被胥・原之訴、遠去就國、朝政崩壞、綱紀廢弛、危亡之禍、不隧如髮。詩云「人之云亡、邦國殄顇」、公之謂矣。

當此之時、宮亡儲主、董賢據重、加以傅氏有女之援、皆自知得罪天下、結讎中山、則必同憂、斷金相翼、藉假遺詔、頻用賞誅、先除所憚、急引所附、遂誣往冤、更徴遠屬、事勢張見、其不難矣!頼公立入、即時退賢、及其黨親。當此之時、公運獨見之明、奮亡前之威、盱衡區А⊃桐班霤棔∃其未堅、厭其未發、震起機動、敵人摧折、雖有賁育不及持刺、雖有樗里不及回知、雖有鬼谷不及造次、是故董賢喪其魂魄、遂自絞殺。人不還踵、日不移晷、霍然四除、更為寧朝。非陛下莫引立公、非公莫克此禍。詩云「惟師尚父、時惟鷹揚、亮彼武王」、孔子曰「敏則有功」、公之謂矣。

於是公乃白内故泗水相豐・斄令邯、與大司徒光・車騎將軍舜建定社稷、奉節東迎、皆以功徳受封益土、為國名臣。書曰「知人則哲」、公之謂也。

(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)




(安漢公は)真心から地位を退こうとしたというのに、定陶太后皇太后地位を僭称しようとしましたが、公の面と向かって座席を替えさせた正義の心を憚り、朱博のような佞臣の類は淳于長・董宏が公に直接弾劾されたことに懲りて、上下心を合わせて讒言を重ね、制度を悪用して、僭称を成功させ、心ある賢人を退け、親戚を誅殺し、安漢公は伍子胥屈原のような讒言を受けて遠く領国へ追いやられ、朝廷の政治は崩壊し、綱紀は緩み、間一髪の危機となりました。『詩経』で「賢人が逃げ、国全体が滅ぼうとしている」というのは、安漢公のことを言っているのでしょう。



この時、哀帝には後継ぎがおらず、董賢は哀帝の寵愛に依拠し、更には皇后傅氏は哀帝の娘を生んでいることを頼りとしており、彼らはみな天下に対して罪があり、(かつて哀帝と帝位を争ったことから)中山王と敵対関係であるため、同じ悩みを共有し、哀帝の遺詔と称して恩賞や誅罰を乱発して先に憚る相手を排除し味方を引き寄せ、昔の事で無実の罪を着せ、遠い血縁の皇族を(皇帝として)呼び寄せようとしていました。その情勢はなんと大変なことであったことでしょう。安漢公がすぐに宮殿に入ったお蔭で、すぐに董賢や関係者を退けることができました。この時、侯は先見の明を持ち、さえぎる者のない勢いを奮い、眉を吊り上げて顔色を変えて怒りをあらわし、まだ董賢らの計画が固まる前に未然に防ぎ、敵の企みはくじかれました。孟賁や夏育のような勇士がいたとしても刃で刺し貫くのに間に合わず、樗里疾のような知恵者がいたとしても智謀を巡らすのに間に合わず、鬼谷先生のような弁舌の士がいたとしてもその場に間に合わなかったでしょう。そうして董賢は魂が抜けて自殺するに至りました。人が踵を返す間も無いうちに朝廷に平和が戻りました。陛下がいなければ安漢公が引き立てられることはなく、安漢公がいなければこの禍に打ち勝つことはなかったでしょう。『詩経』に「太公望は鷹が飛翔するが如く武王を助けた」といい、孔子が「早ければ成功する」というのは、安漢公のことを言っているのでしょう。



そこで安漢公は甄豊・甄邯・大司徒孔光・車騎将軍王舜らと共に新たな皇帝を立てるよう言上し、東から中山王を迎えたので、その功績と徳によって列侯の爵位や領土の加増を受けて王朝の名だたる臣となりました。『書経』に「人々のことを良く理解しているという知恵」というのは、安漢公のことを言っているのです。






哀帝死後、董賢が排除され王莽が権力を握った時の事についての、おそらく当時の公式見解と思われる内容が記される。



それによると、哀帝から後事を託された董賢と皇后傅氏は、哀帝や先代成帝から最も血縁が近い中山王(平帝)ではなく、より遠縁の劉氏を立てようとしたのだという。


成帝之議立太子也、御史大夫孔光以為尚書有殷及王、兄終弟及、中山王元帝之子、宜為後。成帝以中山王不材、又兄弟、不得相入廟。外家王氏與趙昭儀皆欲用哀帝為太子、故遂立焉。

(『漢書』巻八十、中山孝王興伝)


何故かと言えば、哀帝が成帝の皇太子となる際のライバルが当時の中山王(平帝の父)であったからである。遺恨がある関係であり、哀帝の関係者としては擁立するわけにはいかなかったのだ。



しかし中山王がいるのに敢えて遠縁を立てるというのは、きっとここで言われている通り無理筋だったのだろう。



なお、董賢排除に際しては王莽以上と言っていい位に従兄弟王閎の力が大きかったことは以前書いた。意図的なものかどうかわからないが、王閎の功績(董賢から皇帝印綬強奪した)は言及されていない。





それと、哀帝の傅皇后に娘がいた、すなわち哀帝に娘がいた、ということについては多分ここでしか言及されていないのではなかろうか。

2017-01-24

『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その17

その16の続き。



陳崇時為大司徒司直、與張敞孫竦相善。竦者博通士、為崇草奏、稱莽功徳

崇奏之曰、竊見安漢公自初束脩、値世俗隆奢麗之時、蒙両宮厚骨肉之寵、被諸父赫赫之光、財饒勢足、亡所啎意、然而折節行仁、克心履禮、拂世矯俗、確然特立。惡衣惡食、陋車駑馬、妃匹無二、閨門之内、孝友之徳、衆莫不聞。清靜樂道、温良下士、惠于故舊、篤于師友。孔子曰「未若貧而樂、富而好禮」、公之謂矣。

及為侍中、故定陵侯淳于長有大逆罪、公不敢私、建白誅討。周公誅管蔡、季子鴆叔牙、公之謂矣。

是以孝成皇帝命公大司馬、委以國統。孝哀即位高昌侯董宏希指求美、造作二統、公手劾之、以定大綱。建白定陶太后不宜在乘輿幄坐、以明國體。詩曰「柔亦不茹、剛亦不吐、不侮鰥寡、不畏強圉」、公之謂矣。

(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)






大司徒司直の陳崇は張敞の孫の張竦と仲が良かった。張竦は広く学問に通じており、陳崇のために王莽の功績と人徳を称える上奏文の草稿を作り、陳崇はそれを上奏した。その内容はこうである。



私が見たところ、安漢公(王莽)は学問に打ち込む若い頃から家の勃興の時期と重なり、皇帝皇太后の血縁という恩寵を受け、伯父たちの赫赫たる威光を浴び、財力は満ち足り、意に逆らうことも起こらないという状況でありながら節制して仁徳ある言行を心がけ、心を抑えて礼を守り、世俗の風潮を矯正しようとし、ひとり際立った存在でした。粗衣粗食に甘んじ、車や馬もみすぼらしく、妻は一人しか持たず、孝行を行う徳行も知らない者はおりませんでした。清らかな生活で正しい道におることを喜び、下の者には優しく、友人には恵みを施し、師匠には手厚くしていました。孔子が「貧しくても楽しみ、富んでいても礼を守る方がよい」と言っていたのは、安漢公のことを言うのでしょう。



侍中になってからは、定陵侯淳于長が大逆罪を犯していると、安漢公は親戚ではあっても私情を優先せず、彼を誅することを建言しました。周公旦が反乱を起こした管叔・蔡叔を滅ぼしたり、魯の荘公の子の季友が兄叔牙を毒殺したというのは、安漢公のことを言うのでしょう。



そうして成帝は安漢公を大司馬に命じて国政を委ねました。哀帝が即位すると高昌侯董宏が指示を受け利を求めて皇太后を二重に立てようとしましたが、安漢公は自ら弾劾して王朝危機を鎮めました。定陶太后の席を皇太后から遠ざけ、秩序を明らかにしました。『詩経』において「仲山甫は柔らかくても食べず、固くても吐き出さず、やもめや寡婦だからといって侮らず、強い相手でも恐れない」と言っているのは、安漢公のことを言うのでしょう。






先に名前の出てきた南陽の人陳崇。


彼は王莽を称賛する上奏文をたてまつったが、その草案を作ったのは張竦という人物だった。




(張)敞孫竦、王莽時至郡守、封侯、博學文雅過於敞、然政事不及也。竦死、敞無後。

(『漢書』巻七十六、張敞伝)

杜林字伯山、扶風茂陵人也。父鄴、成哀琉涼州刺史。林少好學沈深、家既多書、又外氏張竦父子喜文采、林從竦受學、博洽多聞、時稱通儒。

(『後漢書』列伝第十七、杜林伝)


張竦は前漢宣帝の頃の有能な京兆尹だった張敞の孫で、後漢初期の功臣の一人杜林の叔父である。張敞は春秋左氏伝や古文の文字の読解に通じた学者*1でもあり、張竦も学問や文章については祖父を超えると評判だったという。



こういった当時の著名人にも積極的に王莽を支持し、協力した人物が少なからず存在したということなのだろう。

*1:『漢書』芸文志・儒林伝。

2017-01-23

宣陵孝子

市賈民為宣陵孝子者數十人、皆除太子舍人。

(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀、熹平六年)



後漢霊帝の時、「宣陵孝子」という存在があったそうだ。




二月辛酉、葬孝桓皇帝于宣陵、廟曰威宗。

(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀、建寧元年)



「宣陵」とは霊帝の先代である桓帝皇帝陵のことなので、「桓帝陵の孝子」ということになる。



「民を金で買い取って桓帝陵の孝子とした」、という意味に思われるのだが、いったい彼らは何をするために集められたのか?


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2017-01-22

『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その16

その15の続き。



有詔遣大司徒・大司空策告宗廟、雜加卜筮、皆曰「兆遇金水王相、卦遇父母得位、所謂『康強』之占、『逢吉』之符也。」

信郷侯佟上言「春秋天子將娶於紀、則褒紀子稱侯、安漢公國未稱古制。」

事下有司、皆曰「古者天子封后父百里、尊而不臣、以重宗廟、孝之至也。佟言應禮、可許。請以新野田二萬五千六百頃益封莽、滿百里。」

莽謝曰「臣莽子女誠不足以配至尊、復聽衆議益封臣莽。伏自惟念、得託肺腑、獲爵土、如使子女誠能奉稱聖徳、臣莽國邑足以共朝貢、不須復加益地之寵。願歸所益。」太后許之。

有司奏「故事、聘皇后黄金二萬斤、為錢二萬萬。」莽深辭讓、受四千萬、而以其三千三百萬予十一媵家。

羣臣復言「今皇后受聘、踰羣妾亡幾。」有詔、復益二千三百萬、合為三千萬。莽復以其千萬分予九族貧者。

(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)





大司徒・大司空に命じて宗廟皇后のことを告げさせ、また卜占や筮竹により占わせたところ、みな「卜占では「金水王」の相が出て、筮竹では「父母が位を得る」という結果が出ました。いわゆる「身体が安らかで丈夫なので、子孫にとって吉」という兆しです」と報告した。



信郷侯劉佟*1は「『春秋』において、天子が紀国の娘を娶ろうとする際、子爵であった紀の君主を侯と格上げしておりました。安漢公はそういった過去の事例に合致していません」と上奏した。



その件は担当官署に回され、みな「古の時代、天子は后の父を百里四方の国の諸侯とし、尊んで臣下扱いしませんでした。天子宗廟を重んじ、孝行の極みであるからです。劉佟の発言は礼にかなっており、許可すべきです。新野県の二万五千六百頃の農地を王莽の領土に加増し、百里四方という前例に合わせるべきです」と答えた。



王莽は「私の娘は本当に皇帝の正妻になるにはふさわしくありませんが、また人々の意見を聞いて私の領土を加増されました。私が思うには、すでに天子の姻族となり、領土を獲得しました。もしも私の娘が皇帝の徳に釣り合うのであるなら、私の領土は既に毎年の貢物を供給できるだけのものではあるので、加増の必要はありません。返上させていただきたく思います」と辞退し、元后はそれを許可した。



担当者は「前例では、皇后結納金は黄金二万斤、銭二億枚相当となっています」と言ったが、王莽は辞退して銭四千万枚のみ受け取り、そのうち三千三百万枚は十一家の付き添いの女性たちに与えた。



担当者は「皇后結納金が付き添いの女性たちとほとんど差がありません」と言って銭二千三百万枚を追加して皇后結納金は銭三千万枚としたが、王莽はまたそのうち一千万枚を遠い親戚に至るまでの貧しい者へ与えた。







もはやおなじみ王莽の辞退祭り。




今回は2億銭の結納を4,000万銭だけ受け取った上、11組の付き添いへ300万ずつ与えたため、4,000−300×11=700ということで王莽家の取り分は700万しか残らなかった。




正直王莽くらいになれば金の問題ではないだろうから、これで人々の歓心を買えるなら安いものという感覚なのだろう。




*1:『漢書』王子侯表下によると「新郷侯」となっている。なお、この新郷侯佟は王莽が新王朝を建てると王氏の姓を賜ったという。つまり格下げを余儀なくされる劉氏ではなく一門扱いしてやる、ということだ。

2017-01-21

『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その15

その14の続き。




莽既尊重、欲以女配帝為皇后、以固其權、奏言「皇帝即位三年、長秋宮未建、液廷媵未充。乃者國家之難、本從亡嗣、配取不正。請考論五經、定取禮、正十二女之義、以廣繼嗣。博采二王後及周公孔子世列侯在長安者適子女。」

事下有司、上衆女名、王氏女多在選中者。莽恐其與己女爭、即上言「身亡徳、子材下、不宜與衆女並采。」

太后以為至誠、乃下詔曰「王氏女、朕之外家、其勿采。」

庶民・諸生・郎吏以上守闕上書者日千餘人、公卿大夫或詣廷中、或伏省戸下、咸言「明詔聖徳巍巍如彼、安漢公盛勳堂堂若此、今當立后、獨奈何廢公女?天下安所歸命!願得公女為天下母。」

莽遣長史以下分部曉止公卿及諸生、而上書者愈甚。太后不得已、聽公卿采莽女。

莽復自白「宜博選衆女。」公卿爭曰「不宜采諸女以貳正統。」

莽白「願見女。」太后遣長樂少府・宗正・尚書令納采見女、還奏言「公女漸漬徳化、有窈窕之容、宜承天序、奉祭祀。」

(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)






王莽は高貴で重要な地位に就き、自分の娘を皇后にして更に権力を固めようと思った。そこで「皇帝即位から三年経ちますが、皇后が定まっておらず、後宮の女性たちもまた充実していません。かつて、王朝の危難は後継ぎ不在から起こりました。五経を論じて礼制を定め、天子が娶る十二人の女性を揃えて後継ぎを多く残すようにいたしましょう。その際は広く殷・周の二王朝の末裔や周公・孔子の子孫、列侯で長安にいる者の嫡出の子女より選びましょう」と上奏した。


そのことは担当役人に下されて候補者名簿が献上された。そこには元后・王莽の親族である王氏の女性が多く入っていた。王莽は自分の娘が親族たちと競争になることを恐れて「私には徳が無く、娘も大した才能の無い者であるので、私の娘は他の女性たちと共に候補になるべきではありません」と申し出た。



元后はそれを誠実なことと思って「朕の親族である王氏の娘は候補より選んではならない」と命じた。



そうしたところ、民、学生、郎官以上の官僚たちがこぞって日に千人も上奏し、朝臣たちも朝廷内や門のそばに控えて上奏した。彼らはみな「陛下の徳の高さはこのようであり、安漢公(王莽)の勲功の大きさもあのようであります。今、皇后をお決めになる時にそのような安漢公の娘を除外することなど、どうしてできましょう?そうなったら天下の者たちは身の置き所がありません。願わくは安漢公の娘が皇后に選ばれますように」と言った。



王莽は長史以下の属官を派遣してそのような上奏を止めさせたが、上奏はますます多くなった。元后はやむを得ず王莽の娘を候補とすることを認めた。



王莽は「多くの女性から選ぶべきです」と申し出たが、大臣たちは「他の女性を選ぶことで正統に背くことはできません」と反論した。



王莽はそこで「我が娘を面接してお決めになるよう」と言い、元后は長楽少府・宗正・尚書令を派遣して王莽の娘を面接し、彼らは「安漢公の娘は高い徳の影響を受けてしとやかで美しく、天の秩序を受け継ぎ、皇室の祭祀を受け持つにふさわしい女性です」と報告した。







王莽は自分の娘を平帝の皇后にしたいが、ゴリ押しすれば人望を失うし、かといって何もしなければ自分の親戚が最大のライバルになってしまう。元后にしてみれば、王莽の娘も他の王氏の娘も同じ親族であり、王莽の娘を選ぶ必然性がないからだ。



そこで、敢えて辞退することで元后に王氏全体が皇后になれないようにしてしまった上で、王莽支持者たちの後押しで王莽の娘だけ特別扱いにしよう、ということらしい。




回りくどいが、「自分の娘が皇后になるなど思ってもいない謙虚さ」という名声と「自分の娘が皇后になる」という結果の両方を得るための策というところか。