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2017-02-23

『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その40

その39の続き。



十二月、羣臣奏請「益安漢公宮及家吏、置率更令、廟・廄・廚長丞、中庶子、虎賁以下百餘人、又置衛士三百人。安漢公廬為攝省、府為攝殿、第為攝宮。」奏可。

莽白太后下詔曰「故太師光雖前薨、功效已列。太保舜・大司空豐・輕車將軍邯・歩兵將軍建皆為誘進單于籌策、又典靈臺・明堂・辟雍・四郊、定制度、開子午道、與宰衡同心説徳、合意并力、功徳茂著。封舜子匡為同心侯、林為説徳侯、光孫壽為合意侯、豐孫匡為并力侯。益邯・建各三千戸。

是歳、西羌龐恬・傅幡等怨莽奪其地作西海郡、反攻西海太守程永、永奔走。莽誅永、遣護羌校尉竇況撃之。

二年春、竇況等撃破西羌。

五月、更造貨。錯刀、一直五千。契刀、一直五百。大錢、一直五十、與五銖錢並行。民多盜鑄者。禁列侯以下不得挾黄金、輸御府受直、然卒不與直。

(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)




十二月、群臣は上奏した。「安漢公の宮殿と安漢公家官吏を増やし、率更令、廟・厩・厨長と丞、中庶子、虎賁以下百人あまりを増やし、また衛士三百人を置きましょう。安漢公の住まいは「摂省」、役所は「摂殿」、屋敷は「摂宮」と呼びましょう」その内容は裁可された。



王莽は元后に言上して詔を出させた。「もとの太師孔光は既に薨去したとはいえ、功績は既に連なっている。太保王舜・大司空甄豊・軽車将軍甄邯・歩兵将軍孫建らはみな単于を誘う策を立て、また霊台・明堂・辟雍・四郊に関わり、制度を定め、子午道を開き、宰衡と心を合わせ徳を喜び、共に力を合わせ、功績と徳が明らかである。王舜の子王匡を同心侯に、王林を説徳侯に、孔光の孫孔寿を合意侯に、甄豊の孫甄匡を并力侯に封じ、甄邯・孫建に三千戸を加増する。」



この年、西羌の龐恬・傅幡らが王莽が土地を奪って西海郡を作ったことを恨み、反乱して西海太守程永を攻めた。程永は逃走し、王莽は程永を誅殺し、護羌校尉竇況を派遣して西羌を討たせた。



居摂二年春、竇況らは西羌を破った。



五月、王莽は新たな貨幣を作った。一枚で五銖銭五千枚に相当する「錯刀」、一枚で五銖銭五百枚に相当する「契刀」、一枚で五銖銭五十枚に相当する「大銭」で、五銖銭と共に通用させた。民間では不正にこれらの銭を鋳造する者が多かった。



列侯以下が勝手に黄金を持つことを禁じ、御府に提出させて等価を引き換えに与えることにしたが、結局等価交換されなかった。






Pokémon GOよりこまめにアップデートされる王莽の地位アップデートのたびに少しずつ皇帝に近づいていく。今回は「率更令」「中庶子」といった皇太子の属官や、「宮」「殿」といった皇帝の住居・オフィスに与えられるべき名称である。




安衆侯の次は西羌が反抗。すぐに鎮圧されたようだが、西羌の恨みという王莽政権の闇が浮き彫りになるのだった。





王莽居攝、變漢制、以周錢有子母相權、於是更造大錢、徑寸二分、重十二銖、文曰「大錢五十」。

又造契刀・錯刀。

契刀、其環如大錢、身形如刀、長二寸、文曰「契刀五百」。

錯刀、以黄金錯其文、曰「一刀直五千」。

與五銖錢凡四品、並行。

(『漢書』巻二十四下、食貨志下)


王莽の新造貨幣三種については上記引用が詳しい。


大銭は五銖銭の二倍以上の重さで貨幣価値は五十倍。


契刀は刀を模した銭で、錯刀は「一刀直五千」という文面を鍍金してあるそうだ。



どの新造貨幣マテリアル的な価値以上の額面を与えられているようなので、盗鋳が増えるのは当然だろう。




その一方で王莽政権側も金回収令で結果的には詐欺行為である。等価交換の法則を乱してはいけません。

2017-02-22

『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その39

その38の続き。



於是莽大説。公卿曰「皆宜如嘉言。」

莽白太后下詔曰「惟嘉父子兄弟、雖與崇有屬、不敢阿私、或見萌牙、相率告之、及其禍成、同共讎之、應合古制、忠孝著焉。其以杜衍戸千封嘉為帥禮侯、嘉子七人皆賜爵關内侯。」後又封竦為淑徳侯。

長安為之語曰「欲求封、過張伯松、力戰鬬、不如巧為奏。」

莽又封南陽吏民有功者百餘人、汙池劉崇室宅。後謀反者、皆汙池云。

羣臣復白「劉崇等謀逆者、以莽權輕也。宜尊重以填海内。」五月甲辰、太后詔莽朝見太后稱「假皇帝」。

冬十月丙辰朔、日有食之。

(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)




劉嘉(張竦)の上奏に王莽は大いに喜び、三公・九卿は「みな劉嘉の言うとおりにするべきでしょう」と言った。



王莽は元后に言上して詔を出させた。「思うに劉嘉の親子兄弟は、劉崇の親族とはいえ、私的な関係を絶ち、乱の萌芽を見るとそれをいち早く報告し、反乱という禍が起こると、共に劉崇を仇とした。これは古の制度に合致し、忠義と孝行の現われである。劉嘉を杜衍県の千戸に封じて帥礼侯とし、劉嘉の子供七人はみな関内侯の爵位を賜う」また、その後張竦も淑徳侯に封じた。



そのため、長安では「封建されたかったら張伯松(張竦)の元を訪れよ。戦闘に力を出しても巧みな上奏文にかなわない」と言われた。



また王莽は南陽官吏・民で功績があった者百人以上を封建し、劉崇の邸宅を汚水池とした。その後、反乱を企んだ者の家はみな同じように汚水池としたという。



群臣たちはまた、劉崇らが反逆を謀ったのは王莽の権力が軽かったからであるので、もっと尊重して天下を鎮撫せよ、と言った。五月甲辰、元后は詔を出し、王莽が元后に謁見する際に「仮皇帝」と名乗らせることとした。



十月丙辰、日食があった。






「反乱者の親族でも率先して親族を切り捨てて政府側に付けばおとがめなし!ことによると恩賞も!」というスタンスを明確にした王莽政権


考えてみると王莽自身がそういうスタンスだった(呂寛事件の時)ので、首尾一貫しているとは言えるかもしれない。





そして、「反乱が起こらないようにもっと強い権力を」という焼け太り状態。これは末期的な感じがしますね・・・。

2017-02-21

『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その38

その37の続き。




臣聞古者畔逆之國、既以誅討、則豬其宮室以為汙池、納垢濁焉,名曰凶虚、雖生菜茹、而人不食。四牆其社、覆上棧下、示不得通。辨社諸侯、出門見之、著以為戒。方今天下聞崇之反也、咸欲騫衣手劍而叱之。其先至者、則拂其頸、衝其匈、刃其軀、切其肌。後至者、欲撥其門、仆其牆、夷其屋、焚其器、應聲滌地、則時成創。而宗室尤甚、言必切齒焉。何則?以其背畔恩義、而不知重徳之所在也。宗室所居或遠、嘉幸得先聞、不勝憤憤之願、願為宗室倡始、父子兄弟負籠荷鍤、馳之南陽、豬崇宮室、令如古制。及崇社宜如亳社、以賜諸侯、用永監戒。願下四輔公卿大夫議、以明好惡、視四方。

(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)





私めが聞いたところでは、古の反逆した国が誅討されると、その宮殿は汚水で浸して汚水溜池とし、汚れを溜めこんで「凶虚」と名付け、そこに生えた野菜も人は食べませんでした。またその国の社は四方を壁で固め、上は覆いをかけて下には簀子を敷いて陰陽の気が通じさせないことを示し、その社を諸侯に与え、門を出る時に見せるようにして戒めとしました。

今、劉崇の反乱を聞くと、皆衣をかかげ、剣を手にしてそれを責めようとしました。先に至った者は首を曲げ、胸を突き、体に刃を入れ、肌を切りました。後から至った者は、門を跳ね飛ばし、壁を倒し、家を破壊し、家具を焼こうとし、号令に応じて地面を洗い流し、傷を作ろうとしました。

宗室でありながらこのように酷いことになり、歯ぎしりしているというのはなぜでしょうか。恩義に背き、重んじるべき徳のあるところを知らないでいたからです。

宗室は遠くにいる者もおりますが、わたくしは先んじてそのことを聞くことが出来たので、憤って宗室の先駆けになることを願い、親子兄弟で荷を背負い鍬を持って南陽へ赴いております。劉崇の宮殿を汚水溜池に変えて古の制度と同じようにさせるべきです。また劉崇の社は殷の社のようにして諸侯に下賜し、とこしえに戒めとなるようにいたしましょう。

願わくば、四輔や三公、九卿らの集議に付し、良い事と悪い事を四方へ示さんことを。







反乱者劉崇の住まいを古式ゆかしいやり方で汚しましょう、という提案。これを戒めとして他の者に示す、ということだそうだ。




これを(形式上)言い出しているのが反乱者劉崇の親族である劉嘉だというのはなかなかすさまじい話だが、本家である安衆侯当主がやらかした以上、一族の他の者の生き残りのためには仕方ないところもあっただろう。




国の社をうんぬんっていうのは、周が殷の社に対して施した措置であるらしい。

2017-02-20

曹操の妻について一考

最初に断わっておくが、今から書くことは推測というか憶測であって根拠は無いに等しい。



ただ、そういう風に考えてもいいんじゃないか、面白いんじゃないか、ということである。



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2017-02-19

『漢書』王莽伝を読んでみよう:上その37

その36の続き。



(張)竦因為(劉)嘉作奏曰、建平・元壽之間、大統幾絶、宗室幾棄。頼蒙陛下聖徳、扶服振救、遮扞匡衛、國命復延、宗室明目。臨朝統政、發號施令、動以宗室為始、登用九族為先。並録支親、建立王侯、南面之孤、計以百數。收復絶屬、存亡續廢、得比肩首、復為人者、嬪然成行、所以藩漢國、輔漢宗也。建辟雍、立明堂、班天法、流聖化、朝羣后、昭文徳、宗室諸侯、咸益土地。天下喁喁、引領而歎、頌聲洋洋、滿耳而入。國家所以服此美、膺此名、饗此福、受此榮者、豈非太皇太后日昃之思、陛下夕η掲虻函何謂?亂則統其理、危則致其安、禍則引其福、絶則繼其統、幼則代其任、晨夜屑屑、寒暑勤勤、無時休息、孳孳不已者、凡以為天下、厚劉氏也。臣無愚智、民無男女、皆諭至意。

而安衆侯崇乃獨懷悖惑之心、操畔逆之慮、興兵動衆、欲危宗廟、惡不忍聞、罪不容誅、誠臣子之仇、宗室之讎、國家之賊、天下之害也。是故親屬震落而告其罪、民人潰畔而棄其兵、進不跬歩、退伏其殃。百歳之母、孩提之子、同時斷斬、懸頭竿杪、珠珥在耳、首飾猶存、為計若此、豈不誖哉!

(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)





張竦は劉嘉のために上奏した。



建平から元寿年間、皇帝の血統は途絶えそうになり、宗室も見捨てられそうになりましたが、陛下の聖なる徳を蒙って助け守られ、命脈は伸びることになり、宗室も明るい未来を取り戻しました。朝廷での政治に臨み号令を発する際にも宗室から始め、親族を登用することを先に行っておりました。分家を多数並ばせて王侯を立て、南に向かって座して「孤」と称する者が百人単位となりました。途絶えた親族の系統を復活させてまた人々と肩を並べることができた者も多数おります。そして漢王朝の藩屏となり、宗家を助けるのです。

辟雍・明堂を建立し、天の決まりを並べ、聖なる教化を広め、朝廷で君主たちに臨み、文教の徳を明らかにし、宗室や諸侯はみな領土を加増されています。人々は顔を上げて口を開き、首を引いて嘆息し、称える声が数多く耳いっぱいに入ってきます。天子がその素晴らしさに感服し、その名を受け、その福を受け、その栄光を受けたのは、太皇太后が日夜思い続け、陛下が夕方に至るまで恐れつつしんでいたからではないでしょうか。

それは何を言いたいのでしょうか?乱れが生じたら収めるようにし、危うければ安定するようにし、禍があれば福に転じるようにし、途絶えれば復興させるようにし、幼ければ代行するようにし、日夜あくせくと働き、寒暑に関わらず働いて休息せず、怠けることがなかったのは、天下のため、劉氏のためだったのです。賢明な臣下もそうでない者も、男も女も、みなそれを理解しております。



しかるに安衆侯劉崇は背く心を抱き、兵を挙げて宗廟を危うくしようとしました。聞くに堪えない悪、許されざる罪であり、臣下の仇、宗室の敵、天子の賊であります。故に親族でさえも震えあがってその罪を自白し、民も潰走して武器を捨て、進んでも半歩も進めず、退いても禍を受けるだけだったのです。百歳になる母親も、まだ幼い子供も、みな同時に斬首されて首を掲げられ、まだ耳飾りや首飾りも付いております。はかりごとをしながらこのようなありさまとは、なんと血迷ったことでありましょうか。






張竦、またも他人のために王莽を褒め称える上奏文を作る。




「劉氏のために働いた安漢公に逆らうとは劉氏の風上にも置けないクズ野郎だ」というわけである。



この時点では確かに王莽は途絶えていた王や列侯の復活などを多数行っているので、そのように言いうる余地は確かにある。