Hatena::ブログ(Diary)

てぃーえすのワードパッド このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2017-04-28

『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その47

その46の続き。



翟義黨王孫慶捕得、莽使太醫・尚方與巧屠共刳剝之、量度五藏、以竹筳導其脈、知所終始、云可以治病。

是歳、遣大使五威將王駿・西域都護李崇將戊己校尉出西域、諸國皆郊迎貢獻焉。

諸國前殺都護但欽、駿欲襲之、命佐帥何封・戊己校尉郭欽別將。焉耆詐降、伏兵撃駿等、皆死。欽・封後到、襲撃老弱、從車師還入塞。

莽拜欽為填外將軍、封劋胡子、何封為集胡男。西域自此絶。

(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)




翟義の一党の王孫慶を逮捕し、王莽は太医・尚方と優れた解体業者に解剖させ、内臓を計量し、竹の管を血管に入れて血管の通り方を確認させ、医学が進歩すると言った。



この年、大使の五威将王駿と西域都護李崇を遣わし、戊己校尉を率いて西域へ出た。諸国は郊外まで出迎えて貢物を献上した。

諸国は以前に西域都護但欽を殺していたので、王駿はそれら諸国を襲撃しようと考え、佐帥何封・戊己校尉郭欽に別動隊を率いさせた。焉耆が降伏と偽って伏兵を置いて王駿らを襲撃し、王駿らはみな死んだ。郭欽・何封は後から到着し、残っていた老人や幼少の者を攻撃し、車師国経由で西域より中国へ戻った。

王莽は郭欽を填外将軍として劋胡子に封建し、何封を集胡男に封建した。

西域との交通はこれより途絶えた。







有名な王莽の人体解剖。ここからは生きているうちから解剖したのか、死んでから解剖したのかははっきりしない。




及東郡王孫慶素有勇略、以明兵法、徴在京師、(翟)義乃詐移書以重罪傳逮慶。

(『漢書』巻八十四、翟義伝)



なお王孫慶は翟義が反乱に際してわざわざ長安から呼び寄せたという戦略家だったそうだ。いわゆる軍師的な存在だったのかもしれない。


王莽が人体解剖の対象として王孫慶を選んだ理由としては、反乱の中心人物なので特に過酷な刑罰を与えて見せしめにしよう、というものがあったのではなかろうか。




天鳳三年、乃遣五威將王駿・西域都護李崇將戊己校尉出西域、諸國皆郊迎、送兵穀。

焉耆詐降而聚兵自備。駿等將莎車・龜茲兵七千餘人、分為數部入焉耆、焉耆伏兵要遮駿。及姑墨・尉犂・危須國兵為反間、還共襲撃駿等、皆殺之。

唯戊己校尉郭欽別將兵、後至焉耆。焉耆兵未還、欽撃殺其老弱、引兵還。莽封欽為剼胡子。

李崇收餘士、還保龜茲。數年莽死、崇遂沒、西域因絶。

(『漢書』巻九十六下、西域伝下、車師後国)


漢書』西域伝によると、焉耆の襲撃では王駿は死んだが、西域都護李崇は数年は生き残っていたようで、西域との連絡が途絶えるのも天鳳三年の時点ではなく、その数年後のことであったようだ。



なお王駿も郭欽も翟義の乱などでも討伐軍に名を連ねた人物であり、たぶん割と早い段階からの王莽シンパ、または王莽子飼いだったのだろうと思う。


それが西域で敗死し、盛り返すことも出来ないで終わるというあたり、王莽政権の限界、というか王莽政権の最後を先取りしているかのような事件と言えるかもしれない。





というわけで、「中」もようやく終わり。次は「下」へ続く。

2017-04-27

『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その46

その45の続き。



平蠻將軍馮茂撃句町、士卒疾疫、死者什六七、賦斂民財什取五、益州虚耗而不克、徴還下獄死

更遣寧始將軍廉丹與庸部牧史熊撃句町、頗斬首、有勝。莽徴丹・熊、丹・熊願益調度、必克乃還。復大賦斂、就都大尹馮英不肯給、上言「自越巂遂久仇牛・同亭邪豆之屬反畔以來、積且十年、郡縣距撃不已。續用馮茂、苟施一切之政。僰道以南、山險高深、茂多敺衆遠居、費以億計、吏士離毒氣死者什七。今丹・熊懼於自詭期會、調發諸郡兵穀、復訾民取其十四、空破梁州、功終不遂。宜罷兵屯田、明設購賞。」

莽怒、免英官。後頗覺寤曰「英亦未可厚非。」復以英為長沙連率。

(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)





平蛮将軍馮茂が句町を攻撃したが士卒に疫病が流行って十分の六が死に、民から財産の半分を徴発したため、益州は疲弊の極みに達したが勝つことができなかった。そのため馮茂は召喚を受けて獄死した。



改めて寧始将軍廉丹と庸部牧史熊に句町を討たせたところ、勝利して首級をいくらか挙げた。王莽は廉丹・史熊を召喚し、廉丹・史熊は軍を増強すれば必ずや勝利するので、それから戻ると願い出た。そこでまた大いに徴発しようとしたが、就都大尹馮英は徴発に応じようとせずに上奏した。

「越巂の遂久県の仇牛、同亭の邪豆などが反乱して以来十年になろうとしていますが、郡県のそれらへの攻撃は止むことがありません。ついで馮茂を用い、政治を仮に任せました。僰道県以南は険しい山々でありますが、馮茂は人々を駆り立てて遠くへ住まわせようとし、億単位の費用がかかり、官吏や士卒で毒気を受けて死ぬ者が十分の七に至りました。今廉丹・史熊は約束通りに集まることができなかったと責められることを恐れて諸郡の兵や食料を徴発し、民の財産の十分の四を召し上げようとしておりますが、梁州を破ったとしても虚しい勝利であり、功績は成し遂げられないでしょう。軍を止めて屯田させ、反乱者たちに賞金を懸けるべきです。」



王莽は怒って馮英を罷免したが、その後、「馮英はそれほどの非はなかった」と悟り、また馮英を長沙連率とした。






「同亭」はもとの夜郎国のあったあたりらしい。



つまりこのあたりは三国志の時代では「南中」などと呼ばれていたあたりだったりする。




どうやらこの時の句町討伐が益州方面に深刻なダメージを与えたようで(新軍が与えた)、もしかすると蜀独立の気運にも影響したりしなかったりしたかもしれない。

2017-04-26

『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その45

その44の続き。



是月戊辰、長平館西岸崩、邕畤緝堽、毀而北行。遣大司空王邑行視、還奏状。羣臣上壽、以為河圖所謂「以土填水」、匈奴滅亡之祥也。乃遣并州牧宋弘・游撃都尉任萌等將兵撃匈奴、至邊止屯。

七月辛酉、霸城門災、民間所謂青門也。

戊子晦、日有食之。大赦天下。復令公卿大夫諸侯二千石舉四行各一人。大司馬陳茂以日食免、武建伯嚴尤為大司馬。

十月戊辰、王路朱鳥門鳴、晝夜不絶。崔發等曰「虞帝闢四門、通四聰。門鳴者、明當修先聖之禮、招四方之士也。」於是令羣臣皆賀、所舉四行從朱鳥門入而對策焉。

(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)





この月(五月)の戊辰、長平館西岸が崩れ、畤紊鮑匹い芭れなくなり、崩壊して北へ流れるようになった。大司空王邑に視察へ行かせ、帰還して報告した。群臣はこれを河図の「土によって水を鎮める」のことであり匈奴が滅ぶ予兆であるとして慶賀した。

そこで并州牧宋弘・游撃都尉任萌らを遣わし、兵を率いて匈奴を討たせ、辺境に至って駐屯した。



七月辛酉、長安城の覇城門で火災があった。民間で「青門」と呼んでいた門である。



戊子、日食があり、天下に大赦令を下した。また公・卿・大夫諸侯・二千石に質樸、敦厚、遜讓、有行の四種の善行ある者を推挙させた。

大司馬陳茂を日食を理由に罷免し、武建伯の厳尤(荘尤)を大司馬とした。



十月戊辰、王城の朱鳥門から音が鳴り、昼夜止まらなかった。崔発らは言った。「虞帝は四つの門を開き、四方に通じました。門が鳴るというのは、明らかにこれまでの聖人たちの礼を修め、四方の有能な士を招くべきということです」

そこで群臣に慶賀させ、推挙させた四種の善行の士を朱鳥門から入城させて質疑応答した。






一見すると災害や怪奇現象に思える事象も、「今の王朝は天に祝福されている」という視点で見れば真逆に解釈できる、ということのようだ。群臣たちも内心では色々察していたのかもしれないが。





二月、詔丞相・御史舉質樸敦厚遜讓有行者、光祿歳以此科第郎・從官。

(『漢書』巻九、元帝紀、永光元年)


「四行」とはここで言う「質樸敦厚遜讓有行者」の四科目のことを言っているのだという。王莽はたぶんそれを大々的に行ったのではなかろうかと思う。

2017-04-25

『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その44

その43の続き。



莽又曰「『普天之下、莫非王土。率土之賓、莫非王臣。』蓋以天下養焉。周禮膳羞百有二十品、今諸侯各食其同・國・則。辟・任・附城食其邑。公・卿・大夫・元士食其采。多少之差、咸有條品。歳豐穰則充其禮、有災害則有所損、與百姓同憂喜也。其用上計時通計、天下幸無災害者、太官膳羞備其品矣。即有災害、以什率多少而損膳焉。東嶽太師立國將軍保東方三州一部二十五郡。南嶽太傅前將軍保南方二州一部二十五郡。西嶽國師寧始將軍保西方一州二部二十五郡。北嶽國將衛將軍保北方二州一部二十五郡。大司馬保納卿・言卿・仕卿・作卿・京尉・扶尉・兆隊・右隊・中部左洎前七郡。大司徒保樂卿・典卿・宗卿・秩卿・翼尉・光尉・左隊・前隊・中部・右部、有五郡。大司空保予卿・虞卿・共卿・工卿・師尉・列尉・祈隊・後隊・中部洎後十郡。及六司、六卿、皆隨所屬之公保其災害、亦以十率多少而損其祿。郎・從官・中都官吏食祿都内之委者、以太官膳羞備損而為節。諸侯・辟・任・附城・羣吏亦各保其災害。幾上下同心、勸進農業、安元元焉。」

莽之制度煩碎如此、課計不可理、吏終不得祿、各因官職為姦、受取賕賂以自共給。

(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)





王莽はまた言った。

「「天の下に王の土地でないものはなく、全土の賓客たちで王の臣下でないものはない」と言う。おそらく、天下で彼らを養うということであろう。『周礼』によると供え物には百二十の等級がある。諸侯はそれぞれ領土の収入を得、辟・任・附城もそれぞれの領民の収入を得る。公・卿・大夫・元士はそれぞれの官職に応じて収入を得る。収入の差はそれぞれに決まりが設けられている。その年の収穫が豊作ならその決まり通りにでき、災害で減収されれば減額し、民と喜びも悲しみを共にするのである。郡からの会計報告によって集計した結果、天下に災害が無ければ太官は祭祀へのお供えを礼の通りとし、災害があれば、割合に応じてお供えの膳を減らす。

東嶽太師・立国将軍は東方の三州・一部・二十五郡を管轄する。南嶽太傅・前将軍は南方の二州・一部・二十五郡を管轄する。西嶽国師・寧始将軍は西方の一州・二部・二十五郡を管轄する。北嶽国将・衛将軍は北方の二州・一部・二十五郡を管轄する。

大司馬は納卿・言卿・仕卿・作卿・京尉・扶尉・兆隊・右隊・中部の七郡を管轄する。大司徒は楽卿・典卿・宗卿・秩卿・翼尉・光尉・左隊・前隊・中部・右部の五郡を管轄する。大司空は予卿・虞卿・共卿・工卿・師尉・列尉・祈隊・後隊・中部の十郡を管轄する。

および六司・六卿はみな所属する公に従って災害の割合に応じた減額を受ける。郎・皇帝侍従・中央官庁の官吏中央政府から俸給を受ける者は、太官の膳の縮減に応じる。諸侯・辟・任・附城・官僚たちもまた災害による減額を受けるようにする。上下が心を一つにして農業振興に努め、人々の安全安心のため働くことを願うからである」



王莽の制度の煩瑣であったことはこのようであり、あまりの複雑さから予算管理もままならず、官吏はついに俸給を得ることができなくなり、おのおのその職務の中で汚職に手を染め、賄賂を貰うことで自給自足するようになった。






王莽の制度らしい顛末。



公務員給与が極限まで減ると、あるいは支給が杜絶すると何が起きるか、という壮大な社会実験である(王莽はそれを意図したわけではないが)。




2017-04-24

『漢書』王莽伝を読んでみよう:中その43

その42の続き。


五月、莽下吏祿制度曰「予遭陽九之阸、百六之會、國用不足、民人騷動、自公卿以下、一月之祿十緵布二匹、或帛一匹。予毎念之、未嘗不戚焉。今阸會已度、府帑雖未能充、略頗稍給、其以六月朔庚寅始、賦吏祿皆如制度。」

四輔公卿大夫士、下至輿僚、凡十五等。僚祿一歳六十六斛、稍以差瓠⊂綮蟷擁綣為萬斛云。

(『漢書』巻九十九中、王莽伝中)





五月、王莽は官吏の俸給の制度を命令した。「予は陽の気が極まる危機、百六年の危険に遭遇し、国家予算は不足し、人々は動乱を起こしていたため、大臣以下の一か月の俸給が布二匹や絹一匹などであった。予はこれを思うごとに悲しまずにはいられなかった。今、危険な時期は既に過ぎ去り、国家予算はまだ十分ではないとはいえ、次第に増えてきているので、六月庚寅より官吏の俸給を制度通りにするように」



四輔や大臣以下、十五段階の俸給を設けられた。幕僚の俸給は一年に六十六斛で、次第に増加していき、四輔は一万斛となった。






どうやら、王莽時代の官僚の俸給は従来の「半銭半穀」ではなく、布・絹を支給していた時期があったらしい。もちろんこれは本来の制度ではなく、おそらくは穀物不足から来る臨時の制度なのだろう。




百官受奉例、大將軍・三公奉、月三百五十斛。中二千石奉、月百八十斛。二千石奉、月百二十斛。比二千石奉、月百斛。千石奉、月八十斛。六百石奉、月七十斛。比六百石奉、月五十斛。四百石奉、月四十五斛。比四百石奉、月四十斛。三百石奉、月四十斛。比三百石奉、月三十七斛。二百石奉、月三十斛。比二百石奉、月二十七斛。一百石奉、月十六斛。斗食奉、月十一斛。佐史奉、月八斛。

凡諸受奉、皆半錢半穀。

(『続漢書』志第二十八、百官志五)


後漢の制度では三公の俸給が月三百五十斛、最低クラスで月八斛だというから、この数字だけで見ると新王朝給与は高位の者により優しく、低位の者により厳しいものだったようだが、この数字通りに支給されたのかどうか怪しいとも考えられる(実際にまともに支給できずにいたわけで)ので、単純な比較をするのは難しいところだろう。


ただ、王莽は官吏の俸給についても前漢のそれに何らかの改変を行ったらしい、というのは言えるのだろう。