逃げた反乱者

嚴尤說王邑曰「昆陽城小而堅、今假號者在宛、亟進大兵、彼必奔走。宛敗、昆陽自服。」邑曰「吾昔以虎牙將軍圍翟義、坐不生得、以見責讓。今將百萬之衆、遇城而不能下、何謂邪?」
【注】
翟義字文仲、方進少子、為東郡太守。王莽居攝、義心惡之、乃立東平王雲子信為天子、義自號柱天大將軍、以誅莽。莽乃使孫建・王邑等將兵撃義、破之。義亡、自殺、故坐不生得。坐音才臥反。見前書。
(『後漢書』本紀第一上、光武帝紀上)


かの有名な光武帝の「昆陽の戦い」において、新側の将である王邑は「俺が昔反乱者の翟義を攻めたときは生け捕りできなかったために王莽様が激おこぷんぷん丸だった。昆陽の賊は逃がさないようにしなければならん」と言って包囲戦を始め、それが敗因となったという。



その注では「王邑に敗れた翟義は逃げてから自殺したので、『生け捕りにできなかった』と言っているのである」と解説している。




於是吏士精鋭遂攻圍義於圉城、破之、(翟)義與劉信棄軍庸亡。至固始界中捕得義、尸磔陳都巿。卒不得信。
(『漢書』巻八十四、翟義伝)


漢書』の翟義の伝では、王邑らに負けた翟義は逃亡したが後に発見されたという。



明確に「生きて捕えられた」と書かれていないので、実はすでに自殺後の遺体を発見しただけという可能性もあるが、素直に考えると翟義は生け捕りにされたようにも思える。



少なくとも、『後漢書』の注が述べるような翟義が自殺であったことを明らかに示す内容は『漢書』当該部分には無いような気がする。