それだけで心は軽くなる

週末は我が学童保護者会の大掃除&忘年会だった。いつものことだが午前様になり、大層疲弊したが楽しい一時だった。昔は当たり前のようにあって、でも今は得ることがむつかしくなったコミュニティーがそこにはある。
 
遅れて向かった二次会の会場では、子どもたちがクリスマスの歌を歌っていた。もう12時近いのに元気なものだ。
以前はこういう風に子どもを夜中まで引っ張り回すのはどうかと思っていた。その考えは今も根本的に変わらないけれども、たまにはいいかな〜と最近では思ったりする。大人が決して聖人君子ではないってことを知るのも、子どもには大切な通過儀礼だ。
 
 
・・・まあ、いつもいつもじゃあまずいけどね。
 
 
そんな騒々しい会場の中では、気づくとそこかしこで、ひそひそと話をする人の群れが出来はじめる。下らない噂話も、誰かの悪口もあるけれども、真剣に誰かを心配する気持ちや、誰かの悩みを聞いているようなシーンの方が多い。隣の声が聞こえにくい、カラオケの場だからこそ、酔いの力も手伝って出来る話があるのだろう。
 
 
月並みではあるが、悩みのない人生などない。
悩みのない人生があるとすれば、それはあまりしあわせな人生とは言えないのじゃないかと思う。悩みがあればこそ人生は多忙で刺激的であり、また時折訪れる微かなしあわせが心に響き渡るのだ。
 
 

昔話をしよう。
かつて、しあわせだと感じることを恐れていた時代があった。「私はしあわせ者だ」と語る人が、次々に押しつぶされていく姿を見てしまったからだ。だから、「しあわせだ」と語る人がいれば真剣に心配したし、自分もしあわせだと思わないようにしていた。
 
ある時、「私はそうは思わない」という人に出会った。
「しあわせとは、人生のある状態を示すのでも、なるものでもなく、感じるものだと思う。やっぱり私は私がしあわせだと感じていたい。」
何日も眠れない夜が続いた後で、散々泣き濡れた後で、それでもその人はそう言った。
 
他人との繋がりの中にこそ人生の真実が隠されていると仮定するのであれば、自分の人生と真摯に向き合うことは、他人の人生と真摯に向き合うことに等しい。敵も多い人生だが、せめて自分と向き合ってくれる人が望む限り、自分は味方であろう。それ以来、そんな風に考えている。
人との出会いが新たな人生のルールを生み、それが自らを推し進め切り拓いていくのであれば、それを発見した瞬間に「しあわせだ」と感じることこそが、ある意味では人が生きていく意味そのものなのかもしれない。その頃から次第に知り合いが増えたことを考えれば、随分真っ当になったんじゃないかと思う。
 
 
 
ところでカラオケの最中、この曲を歌ってくれとせがまれたんだけど、「この曲は歌えないね」と辞退した。キーが高すぎるのが主な理由だけれども、荷物がすっかり自分の肩に馴染むまで、この曲を歌うには、まだ少し心が危うい。
 
随分進んできたと思っていたが、まだまだ道程は長いのかもしれない。