青山薫『「セックスワーカー」とは誰か』

 いろいろトラブルがあって頓挫していたのだが、先週とある研究会で行われた合評会の課題図書の再訪を果たす。この本、わたしの周囲ではあまり評判になっていないが、とてもよい本だと思う。何よりもこれだけのデータをとって、それにこれだけの分析を加えることができている本なんてそうそうあるもんじゃない(でも、ところどころわかりにくいよ)。また、その指摘から得られる示唆もいろいろある。こんな言い方をすると、白い眼で見られるかもしれないが、ホントに面白い本だった。そして、一方で泣けてくる。とりわけ人を殺さなければ生き抜けない生が存在することに(たとえば、292頁)。
 ボクがこの本を読んで注目してみたいところは、この本の主題とはいささかかけ離れているだろう。でも、それは「セックス・ワーカー」をしながら生きぬいていく女性たちのたくましさにかかわる問題でもあると思う。

 著者の青山さんは、セックスワーカーになることが、単純に女性を隷属状態に置くことだとは考えない。そして、それは彼女たち自身の尊厳とも結びついている。

彼女たちは全員が、ほとんどの場合自分のこの経歴を「仕事」と呼び、何人かは自分が奴隷のような状態にあったことを振り返るときでさえそれを「仕事」と表現していたのだ(70頁)。
自分のしていることを仕事と認識し、内省的に理解することが彼女を奴隷ではなく労働者にしていったのである(208頁)。
金銭と交換に性的なサーヴィスを提供することは人間の尊厳を侵害されることだ、という価値観が社会一般に認められ、性労働をする人びと自身のなかにもそれが存在するとき、ひるがえってその価値観こそが彼女たちの内外からプレッシャーをかける(70頁)。

 彼女たちはほかの人たちと同じようにいくつもの異なるコミュニティと接点を持っており、それを資源として「普通」の生活を維持する。青山さんは、そうした意味論的資源が奪われることを、オコンネル=デヴィッドソンを引きながら、「社会的死」と呼び、それが奴隷状態に相当するのだと言う。

彼女は「逸脱」している「仕事」のなかにあっても、まさに「社会的な死」を避けるために、コミュニティからありったけの感情的・精神的支えを求め、保つ。したがって、彼女は名誉を失っていない。
このような(象徴的な)意味においても、自分が「社会的に死んで」いないと想定することこそ、「逸脱」のレッテルを貼られて仕事をしながら生きていくために必要な内在力なのであって、ぎりぎりの局面まで彼女はその力を失いはしない。
「社会的な死」が起こるるとき、セックスワーカーは奴隷状態に足を踏み入れる。ひるがえって、セックスワーカーにとっては、この状態を察知しこれに囚われることを避けるために、人間関係のネットワークとのつながりを失わないようにすることが重要になってくる(66頁)。

そのせいでもあろう。青山さんの聞き取りによれば、「人身取引によって日本に渡って人たちは奴隷状態に陥りやすく、それに続く悪条件の下で働いていたのが日本からの「セックス・ツアー」専門のバーに勤めていた人たちだった」(66頁)という。われわれはこの点を自覚すべきだ。
 
 そしてこのとき、ボクが何よりも興味深く感じたのは、彼女たちの大半が昔ながらのジェンダー化された道徳意識を抱えて生きており、それは一方で苦痛の源泉ともなるのだが、それでも彼女たちがしばしばそこから得られる意味づけを利用しながら日常生活を構築していたということだ*1。たとえば、彼女たちの「選択」に意味をもたらすのは、彼女が属する家族やコミュニティだ。

「上から」見た「モラルの低下」とは対照的に、バンコックや中央部の労働者家庭出身の人もふくめて、彼女たちが出身コミュニティに期待される家族に対する責任感や義務感にしたがって行動し、性労働に従事したことは明らかだった(77頁)。
彼女たち自身、仕事上、男性が持つ複数の性関係の一端に加わることがよくあるにもかかわらず、聞き取り相手のなかで「浮気な」男性を歓迎する人は皆無だった。そして、彼女たちはその矛盾を自覚していた(175頁)。

 他方で、性暴力の被害者が性産業へ流れるきっかけもコミュニティのなかでの冷たい視線であったりする。ここでは、伝統的な道徳意識は彼女たちをコミュニティのネットワークから断つ方向に働く。

問題は、彼女が聞き取りの時点で大人の言語表現力をもって定義し、強調したように、彼女が無力で一人きりだと感じたことだった(168頁)。
聞き取り相手の女性たちのうちの何人もが、男性による暴力か、それが間接的に影響する暴力的な経験をしているのは事実だが、もし彼女たちがこういった経験ゆえに社会が自分たちにあたえるスティグマによる圧力をかけられることや、それを感じることがなかったならば、彼女たちはセックスワークを始めなかったかもしれない、ということだ(166頁)。

 
 でも、なんで貧困の矛先が向かうのは女の子だけ?タイの家族では、次のように少年と少女には異なる規範的役割が課されてきたのだという。

地域のコミュニティで、少年たちは肉体労働の提供を期待され、少女たちは家族の財政的かつ感情的なケアをするよう期待される。少年たちは村から国にいたる家の外で行われる活動や政治に参加し、少女たちは拡大家族の問題をふくむ家のなかのことに責任を持つ。少年たちは「結婚して出て行き」、公的な世帯主になって今度は妻の家族に労働力を提供すると同時に、実家と婚家の絆を築く(188頁)。
都市労働者と農村の土地なし家族の少女たち、少年たちが、結婚にふさわしい地位を得て周囲の期待に応えるためには、別の道がある。教育と、少年たちにとっては出家の道と、少女たちにとっては家事や実際的な仕事の技術を身につけることである(188頁)。

 彼女たちはこうした規範を背景に、セックスワーカーとして家族に徳をつむ。しかし、それは単純に自己犠牲的な道徳実践というだけではなく、先行投資の意味合いがあるのだという。このとき、期待されるのは男たちの出家だ。ところが、男の子の現実はというと、経済的理由もあってそれに報いることができないというのだ。

これらの社会的期待を補完するべく、兄弟たちは、自分たちのブンクンを両親に返すためにも、間接的に、姉妹たちの教育とそれを超える支援に報いるためにも、人生のどこかで出家するものと思われる。しかし、ここでもまた、私の聞き取り相手の女性たちは理想的な状況とは裏腹の経験をしている。兄弟がいた17人のなかで、その兄弟の出家を経験した人は(まだ)誰もいなかったのだ。そして意外なことに、彼女たちは社会全体の傾向と比べても例外ではなかった。タイ人男性の過半数は、実際には僧籍に入ることがないのだ。しかしながら、男性が僧にならないにもかかわらず、男性は僧になるものだという理念が、彼らの「物質的欲望から切り離された」ジェンダーの理想を支えていることは特筆に値する(191頁)。
そして、男性の出家に関する期待と規範と現実の差は、聞き取り相手の女性たちの兄弟に関する「無責任だ」とか「子どもみたいだ」といった、「男」としての評価にもつながっている側面がある(193頁)。

 また、彼女たちの献身は、親子、とりわか母娘の互恵的な道徳関係(ブンクン)と結びついている。

家族に対する強い責任が、聞き取り相手の女性たちが性産業に入った一つの前提条件だった。そして彼女たちのほとんどが、母に対する恩を感じ続けていた(210頁)。
子どもは、生まれつき、障害に何をしても母に返しきれないほどの恩があるというわけだ。ゆえに、この恩を返す義務は、母親が何をするか、できないかにかかわらず続く(213頁)。

 ところが、母親の方はといえば娘に応えてやることができない。

親たちはすでに子どもたちにわけあたえる土地を持たず、高まり続ける消費財購入のプレッシャーに応じるだけの物質的手段も持っていない。農村地域には労働者の勧誘が現れ始め、権利や義務に関する文化的な理念は、親世帯が子どもたちの労働力を利用して生活保障を得ることができるように再生産されたのだった(214頁)。

 彼女たちの努力に報いる家族やコミュニティは失われてしまったのかもしれない。だが、それでも彼女たちは半ば想像的な家族やコミュニティにすがる。そのよりどころとなるのが「家」だ。上の引用からも分かるように、タイ東北部には母系制の伝統があり、彼女たちにとって家を持つということは、親の恩に報いる以上の「霊的」な意味があった。

しかし、だからこそ、都市に移住した女性たちは、自分たちを出身コミュニティにいる家族と結びつける新しい方法を編み出すことによって、女性の世代間のつながりを保とうとする。彼女たちは、想像上の意味と物質的な意味の双方において、また霊的な安寧と物質的な福利の双方のために、新しい絆を結ぶのである(217頁)。
タイ人女性セックスワーカーにとって、「家」は、自分がコミュニティに認められていることを確認できる物質的な基礎であり、したがって、現実の手ごたえを失わないための基礎だった(218頁)。
「家」は物質的かつ霊的な女系相続と女性同士守りあうことを象徴するゆえに、家庭内は女性の領域である(309頁)。

 かといって彼女たちがそこに住むのかといえば必ずしもそういうことではない。彼女たちにとってコミュニティはもはや居心地のよい場所ではない。「私の聞き取りの相手のなかでは、出身地に帰った女性たちは帰らなかった女性たちよりも多くの不安を呈する傾向にあった」(288頁)。家の意味の獲得は、彼女たちが「伝統的な」暮らしから独立して生きることと裏腹なのである。
 
 さらに、彼女たちがセックス・ワーカーであり続けるために活用されるのもしばしば伝統的な意味づけだ。

自分がしていることは善良なタイ人のモラルにそう「家族と子どものため」であり、客と出かけない子どものことを考えてだと言うことによって、彼女は自分を良い人びとのなかに位置づけることができている(237頁)。
仏教寺院と仏教的実践も、私が出会った(元)セックスワーカーのほぼ全員にとって、欠くことのできない日常生活の要素だった(251頁)。

 こうして見ていけば、彼女たちが、一面においてどれだけ伝統的な道徳的意識を利用しているかがよく分かるはずだ。だが、他方で、その意味づけは「家」のケースに顕著に見られるように、想像的なもの、観念的なもの、つまり、経済的物質的裏付けから切り離されたものになってきている。こうした状態は、彼女たちの道徳意識と結びついたアイデンティティを経済をはじめとする生活条件により左右されやすい不安定なものとするだろう*2
 先に引用したように、帰郷した女性たちは、出身コミュニティで暮らすことに困難をおぼえている。ここで紹介されている女性の一人は社会運動家として活動しているようだし*3、もう一人はコミュニティから浮いた「モダンな」生活をしていた。それに比べれば、出稼ぎ先の日本に住む等新しいコミュニティに属した女性たちは、それでセックスワーカーとしてのアイデンティティや経歴から距離を置き、新しい土地で生きるテクニックを発達させていた(318頁)。
 でも、それが伝統的な道徳意識から完全に切り離されて生きるようになったということかというと必ずしもそうとは言い切れないようだ。たとえば、日本に居着いたある女性は夫や子どもにはタイ語を教えない一方で、怒ったときなどはそれをタイ語で表現し、自らの感情を隠しているのだという。青山さんはそれをこんな感じで説明している。

彼女は、タイのアイデンティティを自分のなかにとどめ、傷つけられることから守ることを選んだ。これにおそらく密接に結びついた二つめの理由は、彼女が自分の過去の「逸脱の経歴」を、新しいコミュニティでの新しい生活に滲み出させたくなかったということだ(355頁)。

 さて、こんな感じでボクがこの本のなかで一番印象深く受け取ったのは、伝統的な絆が崩壊し、昔ながらの道徳意識にのっとって生きようとしても、それが幸福な生活につながる保証が得られなくなってしまった一方で、それでも手元にあるそうした道徳意識をあれこれ活用しながら、生きのびていこうとする彼女たちのたくましさだ。
 でも、さらに世代が下がれば、そうした感覚すら失われていくであろう。たとえば、性被害にあった女性の一人についての次のような描写はそれを予示するものであるようにも読める。「ピモンパンの調査を適用すると、マイは、現実の性関係は、公的規範とは対照的に、より自由で多様なものだということを経験するには若すぎたために、規範からくる圧力を額面どおりにとらえなければならなかったと言えるだろう」(171頁)。
 このように述べるとき、ボクは現在の日本の社会のことを思い浮かべている。そして、たとえば、規範の圧力を正面から受けとってしまう存在として、引きこもりや摂食障害の人たちなどのことを思い浮かべてしまう。彼ら彼女らはしばしば「よい子」だと言われているが、よい子というのは言ってみれば、規範を額面どおり受け取ってしまう子どものようなものだと言っていい。彼ら彼女らはある意味で無防備なのだ。ところが、しばしば差別的である昔ながらの道徳意識が、他方でわれわれを守ってくれることもある。そんなわけで、伝統的な道徳意識を抱えて生きるとはどういうことかと改めて考えてしまうのだ。

「セックスワーカー」とは誰か―移住・性労働・人身取引の構造と経験

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*1:ただし、一人だけパープというちょっと違った意識をもった下の世代の女性が出てくる。

*2:この本のことを思い出している。http://d.hatena.ne.jp/Talpidae/20080126/p1

*3:

タイからのたより―スナック「ママ」殺害事件のその後

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