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2012-05-27

クリエイティブの可能性 春合宿(7) できることを、きちんとやる

時間が開いてしまいましたが、まだ続きます。

植林ボランティアを終えた後は、再び南三陸へ向かいました。目的は、震災後、地元の復興のために活動を続けられている武田雄高さんのお話を伺うためです。

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武田さんの復興活動

元々は薬剤師をされていた武田さんは、震災後、ランドクルーザーを購入し(!)、血圧や糖尿病の薬など様々な薬を届ける方面に運んでいたそうです。こう書くと(ランドクルーザーはともかく)そこまで驚く話ではないように聞こえますが、そこに至るまでの経緯は平坦なものではありませんでした。実家の薬局は瓦礫で埋まって入れなかったので、警察に事情を説明して瓦礫の撤去を頼み込んだり、ヘドロで汚れた器具などを洗浄したり、離島に薬を運ぶために田沢湖で使っている船を借りて届けたり。*1

その後医療チームが到着しましたが、地図はあっても目印が無くなっているので目的地に到着するのに時間がかかったりしていたので、同行して案内をするなどの活動をされていたそうです。そういった武田さんの働きのおかげで、災害時の医療体制で薬剤師の同伴の有効性が認められ、全国規模の体制に影響を与えている、とのことでした。*2

武田さんは、現在「地域復興支援基地 NANGO-BASE」を立ち上げ、引き続き被災地復興に向けて活動しています。


できることをきちんとやる

武田さんは「できることをひたすらやった」ということを述べていたのが印象的でした。前述したとおり、武田さんの働きのおかげで、災害時の医療体制が大きく変わろうとしています。しかし、武田さんが実際にやったのは、警察に瓦礫撤去をお願いしたり、ヘドロで汚れた器具を洗浄したりといった地味で細かい作業がほとんどでした。ランドクルーザー購入は確かに大きなアクションですが、それだけやったとしても、それ以外の地味な作業がなければここまで効果はなかったでしょう。



人間関係も同じ。できることをやる。



話を聴いている最中にいきなりそんな考えが閃いたので、僕は文字通りビクっとしました。

どうしてこんな考えが閃いたのか、全くわかりません。しかし、この考えは僕の心を大きく揺さぶりました。


「ノリ」とか「適当にやる」とか「普通にやる」とか。そういうのが会話とか組織の活動で出てくる度に憂鬱な気持ちになりました。それが具体的に何を表すのか、全然わかりませんでした。考えて考えて「自分の考えた普通」をやってこっぴどく怒られた時は頭を抱えました。こういった事がずっと尾を引きずっていて、馴染めないのはノリについていけないからだと思っていました。しまいにはそういうノリが大嫌いになっていました。

しかし、馴染めなかったのはそれだけが原因ではなかったのでしょう。それで何もできないと思いこんで、何もしなかったからです。だから、かつての組織なり所属なりに何か思いを引きずっているのだと。それが分かった瞬間、自分が(勝手に)気に病んできたことが、台風が過ぎ去っていくかのように無くなり、気持ちが晴れていきました。


「できることをきちんとやる」というのは、単純なことですが言うほど簡単な話ではありません。僕はそう思います。できないことに気を取られてできることを見失ったり、できることを過小評価して無力感に悩んだり。


武田さんたちに見送られながら、合宿メンバーはバスに乗って宿へと向かいました。車中で僕は瓦礫撤去のボランティアリーダー・金さん、今回の合宿リーダー・ゆーきさん、陸前高田の松を守る会の会長さん、先ほどお会いした武田さんの顔を思い浮かべました。色んな人が自分のできることを懸命になってやっている。

「僕は何をしたらいいんだろうな」

もう日が落ちてほとんど何も見えない真っ暗な外をぼんやり眺めながら、僕は物思いに耽りました。自分のできることを蔑ろにしてきた僕には、そんなに簡単に答を見つけることができませんでした。


バスが宿に到着しました。ボランティアなどの疲れがたまっていたのでしょう、いつの間にか寝てしまっていました。

宿の夕飯は美味しかったし、何より温泉は心身の疲れを癒してくれました。明日の朝も入るぜーと決めながら僕は満喫しました。けれどもその一方で、先ほどのもやもやはまだ自分の中で燻っていました。


入浴を終えてダイアログ(対話)の時間になりました。そこで僕は合宿メンバーの本気に触れることになります。人の本気は他の人の本気を呼び起こす。そのことが肌で実感できました。

次以降の記事に続きます。


※反応・感想が知りたいので、もし良い記事だと感じたら、はてブやRTをしていただけるとありがたく思います。

それでは、また。

*1:このへん、ノートを頼りに書いてますが、認識相違があったらごめんなさい。

*2:活動の詳細は、こちらの記事にも詳しく書かれています。

2012-05-01

クリエイティブの可能性 春合宿(6) 再び7万本の松

3日目、6:00起床。

普段の起床時間とほぼ同じでしたが、きちんと布団で寝なかった*1分疲労は溜まっていたし、体をかなり動かした上に前日酒を飲んだため起きるのはしんどかったです。それでも朝食を食べていくうちに体は起きてきました*2。6:30に出発し、再び陸前高田ボランティアセンターに向かいました。


再び7万本の松

この日のボランティア活動は、高田松原を守る会のみなさんと一緒に松を植える作業。陸前高田の7万本の松を再生させるプロジェクトのお手伝いです。そもそもこのボランティア活動は前回の冬合宿からの続きで、前回は整地のみだったのが、今回いよいよ植樹に入るとのことでした。

まず松を植える前の整地を行い、それから植樹。再生に向けての取り組みという明るい内容だからか、メンバーも和気あいあいと話し合いながら楽しく作業をしていました。僕自身、(運動量が少なかったという基本的な理由ももちろんありましたが)昨日より楽しく作業ができました。


陣中見舞いとして、サックス奏者の小林洋平さんから曲を聞かせてもらったり、横浜のありあけハーバーを販売されている上原淳一郎さんからお菓子の差し入れをいただいたり。本当に有難うございました。

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頂いたお菓子。奇跡の一本松が描かれています。


語り継ぐこと

印象的だったのは、高田松原を守る会の皆さんです。特に会長さんは実にいい笑顔で、とても楽しそうでした。

1年前、あんなにひどい災害に見舞われたのに。


「松を植えたところで、また地震が起こって同じように津波が来たらどうするのか」

植樹を始める前、そんな疑問を持っていました。しかし、その疑問の答えは松を植えていくことでなんとなく掴めました。

「それでも松を植えて7万本の松がある高田松原を復活させたい」

会長さん以下、ひどい地震や津波に見舞われても、陸前高田から「恒常的に」出ていく、という選択肢は持たないでしょう。それは高齢で移動が困難だからとかいった理由とは別に、そもそもこの土地に居続けたいという意志があるからです。そこには、ちょっとした面白い出来事や大切な人々、あるいはひどい自然災害など様々な出来事の記憶があって、その記憶は住み続ける人々の伝聞だったり記念碑だったりなどの様々な形で子孫へ、未来へと受け継がれていくのです。

きっと、そういったことの積み重ねが郷土愛というものなのだろうなと思いました。


マイナスを無くす VS 未来を作る

前述したとおり、植樹のボランティアは楽しかったです。要因はいくつかあると思いますが、「これから育つ木を植える」という未来へと繋がることをイメージしやすい作業だっため気持ちが明るくなった、ということは少なからずあったと考えています。瓦礫処理も確かに将来家を立てたりなど未来を作るためには必要な作業ですが、どちらかと言えば「マイナスをゼロに戻す」作業で、未来へと繋がる実感は植樹ほどは得られなかったのは事実です。

そう考えると、「瓦礫は被災地で全て処理すべき」という意見には賛同できなくなりました。特に「雇用が急減した東北にとっては雇用機会が増えていいこと」という意見に、です。まだまだ沢山の瓦礫が東北にはありました。1年以上経ったのに、です。それでもなお東北だけで処理する、というのは何時まで経っても終わらない作業のように感じられました。さらには、東北の人々がそのような「マイナスをゼロにする作業」に長期間従事するとどうなるか。東北の人は完全に意気消沈し、全く希望が持てなくなってもおかしくない状態になっても、不思議ではないでしょう。

おそらくかなりの極論だと思います。しかし、ボランティアで瓦礫処理と植樹を両方体験したことから考えると、これから東北が復興するためには、被災者自身の手で「未来を作る」ということを行なわないといけないし、そのためには未来を作ることに近い仕事をさせるべきではないかと思うのです。



植樹ボランティアを終えた一行は、地元の復興のために活動を続けられている武田雄高さんの話を伺うために、再び南三陸に戻りました。

次以降の記事に続きます。

それでは、また。

*1:初日はバス泊でした。思ったよりは寝れましたが所詮はバス泊なので……。

*2:本合宿のリーダー、野田さんのブログ読んで気付いたんですが、この時間の朝食って確かに普段より早いですね。旅館の皆様、お手数をおかけしました。そして、ありがとうございました。

2012-04-18

クリエイティブの可能性 春合宿(5) 陸前高田の温かい炎

陸前高田小学校に到着しました。

現地で待っててくれたのは、この春合宿で事前準備など裏で色々動いてくれている5人の裏部隊メンバー、そして社会福祉協議会の安田留美さんでした。

全員が集まったところで、キャンプファイヤーが始まりました。組まれた木に火が灯されるのを見ながら、もう20年以上キャンプファイヤーなんてやったことなかったなあと昔のことを思いました。

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いや、燃え盛りすぎだろ。


炎が落ち着いたところで、安田さんのお話が始まりました。拡声器を使っていて一部よく聴き取れなかった箇所はあったものの、僕にとってはショックを受ける内容でした。瓦礫も自分たちの財産であるという話、そして外からの援助を受け入れなかった理由についてです。


瓦礫も遺体も財産

安田さんが語っていたことで、鮮烈に印象に残ったフレーズです。きっとこの日のボランティア活動をする前にこの言葉を聴いてもピンとこなかったでしょう。しかし、南三陸で見たインスタント食品やファミコンソフト、酒瓶などを見た後ではこの言葉が何を意味するのか、ぼんやりですが感じ取ることができました。*1そこには確かに生きている人がいて、そこにいた人々の記憶があります。だからこそ、瓦礫もまた財産なのだと。

街の復興のためには、瓦礫は必ず処分しなくてはいけません。しかし、それでも丁寧に扱いたいという気持ちが感じられました。ボランティア活動で、僕は砕けたガラスや陶磁器を、さっさとどかそうとぞんざいに扱っていました。この話を聴いて申し訳なく思いました。

もう一つ安田さんが話していたのは、なぜ陸前高田が当初外部からの支援を積極的に受け入れなかったのか、についてです。


四十九日を迎える前に、自分たちの手で遺体を見つけたかった。自分たちの手で見つけて、供養したかった。


いくら自分たちの手で、と言っても限界があるんじゃないか。助けを借りて早く見つけて供養しようとは思わなかったのだろうか。当初はそう思いました。しかし、この理由が、先ほどの瓦礫の話とオーバーラップした時、考えが変わりました。亡くなったのは地元の人であり、自分たちの家族や友人。その人は「自分にとって」大事な人達です。外部のボランティアやその他の団体が迅速に活動を行い発見したその死体は、陸前高田の人々にとっては大事な人々の遺体です。いくら迅速に活動を行い、その死体を丁寧に大事に扱ったとしても、そこには埋めがたいギャップがあります。



昼間、瓦礫を無造作にバケツに放り込みました。

自分がボランティアでやったのは、要するに陸前高田の人々の遺体をぞんざいに扱ったようなもんじゃないのか?

あまりに恐ろしい仮説だったので、さすがに大げさだと打ち消しましたが、なんとも言えない気持ち悪さと後悔がべっとりと胸に残りました。


暖を取れるということ

それでも、その胸のつかえは程無く取れることになります。その後、裏部隊メンバーが炊き出しをしてくれたご飯と豚汁を頂いたお陰、という極めて原始的な理由ですが*2。しかし、昼間の復興商店街で買ったロールケーキがめっぽう美味しかったり、その日のボランティア作業の苦労を合宿メンバーと分かちあったり、その後改めて陸前高田復興について安田さんからお話を伺わせていただいたり、少しずつ体が心身ともに暖まってくるのを感じました。今回の合宿のテーマの一つに「感謝」があったのですが、この時感覚として理解できました。一人では暖まることができないからです。


陸前高田小学校を後にし、ようやく泊まる旅館に到着しました。そこで第一回目の「ダイアログ(対話)」が行われたのですが、今回のボランティアをテーマにしたものであまり明るい内容ではありませんでした。*3

ダイアログを終え温泉に入った段階ですっかり体が休むモードになっていたので、有志の飲み会もすぐに切り上げて僕は寝ました。布団てあったけーなー、と思いながら就寝しました。

次以降の記事に続きます。


それでは、また。

*1:「はっきりと」とは書けません。津波で財産を失ったことはもはや自分の想像の域を超えてしまっているとその時感じられたからです。

*2:ちなみにこの時鯖フレークの存在を初めて知りました。美味しかったです。なぜか近所で売ってないのが残念。

*3:この辺りは、後の記事でまとめて書く予定です。

2012-04-15

クリエイティブの可能性 春合宿(4) 奇跡の一本松じゃない方に思いを馳せて

瓦礫撤去を終えた僕は心身ともに疲れていたので、バス車内ではずっとぐったりしていました。

バスは陸前高田に到着しました。バスから降りた我々に見えたのは、3・11の津波でも唯一流されなかった「奇跡の一本松」でした。歩いていけるとのことなので、下から眺めてみたいと思い、一本松に向かいました。ただ、足場は工事中で不安定な上にボランティア作業で長靴を履いたままだったので、歩きづらかったです。大きな地震が起こりませんように、と思いながら一本松へ向かいました。


奇跡の一本松

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海岸には1年たった今も、津波で流されたと思われる木々が転がっていました。


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一本松に到着。写真が暗くてすみません。

陸前高田にはもともと7万本の松があったそうです。しかし、津波でほとんどの松が流されてしまいました。その中で1本だけ奇跡的に流されずに残ったのがこの「奇跡の一本松」です。もっとも、この松も海水で根が腐ってしまい、もうもたないというのが悲しいです。それでもなお、松は懸命に生きようとしているように感じられました。

この一本松は、奇跡的に残りました。しかし、それが意味することは、残りの6万9999本の松が耐えられずに流されたという事実です。流された松は、海岸近くに打ち捨てられたり、どこかの土砂の中に埋まっていたりするのでしょう。後で尋ねたところ、やはり「どこへ行ったのかは全然わからない」とのことでした。


記憶が無くなる悲しさ

もうここには、7万本の松はありません*1。ただ、復興のシンボルとしての松が一本立っているだけです。それが悲しいことだと感じました。そこにあった7万本の松とその記憶が、一気に流されてしまったように思えたからです。松原公園の表札を見た時と同じ悲しみでした。

地震津波で破壊されたのは、人々の生命や建築物といった目に見えるものだけではありませんでした。人々の思い出や記録といった、目に見えないものも同じように破壊されていました。忘れられたり、思いを馳せられなくなっていったのだと。一本松と周辺の打ち捨てられた木々を見た時、そのことが理解できました。たまにニュースなどで被災地の人々が語っていた「忘れられるのが本当につらい」という言葉の意味は、きっとそういうことだったのか、と。


少し大げさですが、その時僕が見ている世界が少しだけ変わって見えました。ボランティア作業で疲れた体ではまだ十分に受け止める事は出来ていませんでしたが、何か大事な手がかりを手に入れたと思えました。

一本松からバスに戻ってきて、添乗員さんに一本松の側に行ったことを話しました。すると添乗員さんは、また僕の見ている世界を変えるきっかけとなる言葉をくれました。


あ、あれ違いますよ?一本松じゃないです。



…え?


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奇跡の一本松って、向こうの根元が緑になっている方ですよ。この写真で言うと、黄色の枠で囲んである方。赤枠で囲んだ、手前のアレは枯れちゃってるんですよ。確かに大きいんですけど、スルーされてるんですよねー。」


マ、マジで…………?

俺が見てたの、ただの枯れた松だったの……?*2


Foursquareで確認すると、確かに写真は全て根元が緑色の松でした。根元が緑色になっていない普通の松と変わらない写真は一つだけ。僕がチェックインした時に撮影した写真です。



俺が感じた松の生命の息吹とはなんだったのか。

ボランティアの時に感じたものとは全く別種のもやもやを感じながら、バスは次の目的地、陸前高田小学校に向かうのでした。

次以降の記事に続きます。


それでは、また。

*1:この辺は後でまた書きますが、7万本の松を復活させるプロジェクトがあります。7万本の松を植える準備のボランティア|岩手県陸前高田市|情報レンジャー|助けあいジャパン をぜひご覧ください。

*2:でも考えてみたら、枯れた松があんなに残ってるのはそれはそれですごい気がします。

2012-04-14

クリエイティブの可能性 春合宿(3) 果てしない瓦礫撤去

南三陸町で防災対策庁舎を見学した後、ボランティア活動を行いました。前回一人でボランティアツアーに参加した時は体力の要らないメンタル系ボランティアでしたが、今回は瓦礫などを撤去するバリバリのパワー系ボランティアでした。

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ボランティアセンターに貼られていたメッセージ。もちろんこれ以外にもたくさんありました。作業の説明を受けて荷物を運び、再びバスに乗って作業現場へ。


瓦礫と生活用品

今回の作業は、整地ができるように、近隣に住む方が瓦礫を見て心が折れることの無いよう瓦礫などを撤去するというものです。

実際に作業をしてみると、本当に様々な物が落ちていました。コンクリートや鉄線・ガラスなど、かつて建物の一部であったと思われるものから、防災対策庁舎でも見た生活用品、インスタント食品、酒瓶*1ファミコンカセット*2、もっと多くの生活用品が落ちていました。ここも津波に呑まれた場所。改めてそう実感しながら、淡々と作業をしました。

とはいうものの、パワー系に分類される作業なだけあって、運動不足の僕にはかなりしんどい作業でした。ガラスや陶磁器を拾うのはまだしも、シャベルで掘るとまだまだ瓦礫が出てくるのには参りました。また、木造の家の柱なのか結構大きな木材も埋まっていて、そういうのは数人ががりでないと掘り出すこともできませんでした。掘ればほぼ必ず何らかの処分しないといけない瓦礫や木材は出てきて、バグの多いシステムのテストをしている気分になりました。やってもやっても何か出てきて、キリがありませんでした。


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我々が片付けた瓦礫の一部です。作業は午後2時半に終了しました*3。活動終了時、ボランティアリーダーの方から挨拶がありました。

「皆さんのおかげで、ここの場所を終わらせることができました。本当にありがとうございました。」

本当はもう少し挨拶があったのですが、よく覚えていません。というのは、最初の言葉がずっと引っかかってしまっていたからです。


確かに我々が片付けた瓦礫はかなりの量でした。しかし、周りにはまだまだ瓦礫が落ちていました。また、全ての箇所の地面を掘ったわけてはないので、まだまだ埋まっている瓦礫・木材は多いでしょう。それなのに、終わりというのがよくわかりませんでした。多少瓦礫があっても、この場所を整地するには十分という意味だったのでしょうか*4

とはいっても、あの瓦礫を完璧に片付けるのは不可能だということはその時の僕にも感じられました。あまりにも量が多く、あまりにも人が足りませんでした。きっと先に進むには、たとえ完璧ではなくても「これでOK」とどこかのタイミングで判断を出して進めていくしか無いのでしょう。炎上プロジェクトもたしかこんな感じだったな、と暗い気持ちに襲われました。


いつになるかわかりませんが、あの場所はもう一度訪れたいと思いました。あの瓦礫だらけの土地はどうなるのか、その後どんな結論が出てどんな街になるのか、結末が知りたいです。たとえそれがまだまだ先の話でも。


そんな決意はしたものの、その時は徒労感と作業後の疲労でずっとぐったりしていました。ボランティアセンターに別れを告げて向かった先は、今回の震災で最も被害が大きかったエリアの一つ、陸前高田でした。

次以降の記事に続きます。

それでは、また。

*1:驚いたのは、何故か割れもせずに完全な形で残っているお酒があったことです。銘柄の名前は「古代」。土だらけのその瓶にぴったりで大笑いしました。

*2:タイトル部分が剥げてたのに、右側のイラストだけで「あ、スーパーアラビアンだ」とわかった僕はもっと評価されていいと思う。

*3:まだ活動できるという人が結構いましたが、「余力を残して終えてもらわないとボランティアとしてきてくれないので、意図的に短くしている」とのことでした。

*4:この疑問をなんであの時リーダーに聞かなかったんだろうと激しく後悔しています。