返信

 id:simulaさんから返信をいただきました。ありがとうございます。さらにそれを受けてこちらも思ったことをつらつらと。

狭義の推理という方向性から進むようになっていたことで、読者の興味を引くようになっていたというのはその通りだと思います。自分の興味の対象がこの物語はどう読むのが適切か?なので、読者がどう読んでいるかとかその辺については考えが甘かったと思いました。

 少し話はずれますが「どう読むのが適切か」と「読者がどう読んでいるか」、このどちらに重点を置くかというスタンスの違いが、「ひぐらし」にまつわる議論を停滞させるひとつの原因になっているように思います。

 これまでの議論の流れとしては「ミステリーとして読んだ」プレイヤーが、「『ひぐらし』はミステリーではない(大意)」と批判し、一方作者の意図を知り「設定考察ものとして読むのが適切」とする人々が、ミステリーとしての瑕を瑕と認めた上で、「しかし『ひぐらし』の構造には可能性がある(同じく大意)」と主張している段階かと思います。ここからさらに話を発展するには、そのような見方の壁を越えて、ミステリーとしての壁を解消するにはどうしたらいいか、あるいは構造の可能性を実際に他の作品に生かすにはどうすればいいか、といったようなことを考えていくべきかと思います。

 ただ、ここまで来ると話が「ひぐらし」そのものから離れてきますし、問題が作品制作側のものになってくるので、あくまで作品そのものを思考の根幹に置いている多くのユーザーに「考えろ」と要求するのは難しいのかもしれません。私などは単に批判したり賞賛するだけにとどまらず、どうすればより良くなるかを考えるのも楽しいと思ってるんですけどね。

作者の意図は個々の事象を考えた上で、複数編を統合して考えて欲しいというのが適切ではないか

 そうですね、作者の発言などをちらりと見る限りでも、そのように表現するのが最適かと思います。

 ところで「ひぐらし」において「設定考察=ルールXYZの推定」という認識でいいのでしょうか。以下、そうだという仮定で話を進めます。

 問題はどうすれば「複数編を統合して考える」といった方向に読み手の思考を向けさせることができるのかということです。というのも、「ひぐらし」問題編を受けてまともに推理しようと思ったとき、「みっつのルール」というのはある種の前提になっている部分があるんですね。提示する情報の質と量を調整すれば、読み手の思考を「ルールを推定する」という方向に向けさせることは可能だと思いますが、そもそもそのような、ある種の前提になっているようなものを推理(推定)する、という行為が、果たして多数の人間が頭を付き合わせて行うほど魅力的なものなのか、と考えたとき、個人的にはどうにも首を捻ってしまう*1のです。

 そうなると、結局あれこれ考えずにただの読み物として読むのが一番、ということになって、それではさすがに面白くない(作者的にも「読み手に考えて欲しかった」わけですし)。ですからまあ、私としてもなんとかして「ひぐらし」から次につながることを見つけたいと思うわけです。せっかく何年もかけてプレイしてきたわけですしね。


 「『ひぐらし』は設定考察ものだった」という主張は正しいと思います。しかしそれはあくまで「制作者の意図していたもの=設定考察もの」だったということが、あとになってわかったというだけで、実際にプレイしたプレイヤーの思考を、そこまで持って行くことができなかったという事実が消えるわけではありません。結局のところ「ひぐらし」は、設定考察ものとしては失敗していたわけです。

 この問題を解消しない限り、「『ひぐらし』は設定考察ものである(だった、ではなく)」とは言えないのではないでしょうか。そして同時に、作品としての可能性を語ることもまた、できないのではないでしょうか。

*1:今のところ多分に感覚的なものであり、改めて細かく考察することが必要だと思いますが。

返信その2

 流星亭のKarmaさんからも返信をいただいていたようです。

 正直感情の先走った意見で反論する気力もあまりありませんが、偏った内容の批判を黙って見過ごすことで、向こうのサイトの読者の方に自分の考え方を誤解されるのは本意ではないので、一応内容的には理性的に反論していくつもりです。

 そもそもこれを読んだ上で批判してるのか伺いたい気分ではありますが、一応、読んでいただいたものと仮定して話を進めます。


 まずはこのコメントの意図するところについて。

 こちらのコメントへの返信に「悪魔の証明」の話題を持ち出したのは、そうすることでそのあとの、

それでもなお自分は「ありもしない高度な本格ミステリ的解決」を夢想して『ひぐらし』を過大評価し、失望したプレイヤーの側にも責任が無いとは言えないのではないか?と思うんです。

 の部分が無効になるからです。要するに「『ありもしない高度な本格ミステリ的解決』を夢想」することは、論理的推理を試みる限りにおいておかしいことでもなんでもないということです。私としては、あの作りなら問題編の最後までそういう読み方をしててもおかしくないんじゃない、というスタンスだったのでこのように書きました。

 後半は感情論だったので無視しました。以上です。


 で、読んでて思ったんですが、結局この方は「ひぐらし」批判が許せないだけなんじゃないでしょうか。

 何度か通しで読んでみましたが、どうもそうとしか思えません。私に対する反論も、客観的根拠のない主観的な願望や考えに基づくものばかりですし。

「推理」の定義を厳密には考えず、「予測・考察」レベルで考えていたプレイヤーが多かった

 そうですか。ではそうでない人もいたということですね。

悪魔の証明」云々以前に、全体像がまともに推理できていない時点で充分おかしいと考えるべき

 そうかもしれないですね。でも、私はそうは思いません。

 万事こんな感じです。


 「多かった」「〜べき」では有益なものはなにも生まれません。せいぜいが「自分が正しいんだ」ということを、相手にわからせる程度にしか役に立ちません。そんなものはただの話術であり、口喧嘩の領域で用いられる手段です。私がやろうとしているのは「分析」です。分析に口喧嘩の方法論を持ち込まないでいただきたい、と思います。

 Karmaさんのしていることは、私の目からは、プレイヤー一人ひとりの「『ひぐらし』の楽しみ方」というものを否定し、自分の読み方を押しつけているだけにしか見えません。それを「プレイヤーにも問題がある」などというのは、それこそ単なる問題のすり替えでしょう。「『ひぐらし』はこう読むのが正しい。こう読まない奴はアホだ」と言ってくれたほうがよほどわかりやすくて助かります。

批判側は「未完の作品に対する過剰な期待」や「ファン意識の影に隠れた自己愛」を自覚したほうがいいということは、きっちり主張しておきます。

 とのことですが、この言葉をそっくりそのままお返ししたいと思います。


 あれこれ言いましたが、ひとまずはこちらこちらの記事を読んで、私の問題意識が今どのあたりにあるかを知ってください。その上で理性的に疑問を提示してこられるならば、私も誠意をもって対応いたします。

こんなにヤバいのは(検閲削除)以来だ

V‐MAX―ヴァーシャ・マックス 正義を貫く物語 (富士見ファンタジア文庫)

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 1ヶ月前の積ん読を消化。

 まずひと言、ヤバい。何がヤバいってキャラ、ストーリー、すべてにおいて「ありきたり」の域を一歩も出ていない。今思えばタイトルからしてすでにそういう雰囲気は漂ってはいたのだが、そこで回避できなかったのはここ数年濫読を続けてきた弊害か。

 「王道」は「王道」たり得る背景があってはじめて「王道」になるのであって、そうでない「王道」はただ陳腐なだけである。いまだガキっぽいところを多分に残す我ではありますが、今更無根拠な正義が戦いの理由になると信じられるほどおめでたくはありません。

倍の枚数でじっくり書いたほうが良かったんでは

戦う司書と雷の愚者 BOOK2 (集英社スーパーダッシュ文庫)

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 どうも一部で評判が良いらしい話の続編。

 つーかぶっちゃけノロティ要らなくね? まあそれをいうならザトウ以外要らなくね、という話ではありますが。要は「ひとりの男が自分に克った」ただそれだけの話であって、そこに本質的に関係ない他人はことごとく不要、とまあそういう話。

 人数出すんならしっかり背景を与えて話に絡ませてください。というかこのままだと結局ノロティは「対して切実な理由もなくなんとなく武装司書になりたいがゆえに命令をはいはい聞くただの半人前」でしかないわけですがどうなんだ。