議論の仕方② 〜感情と論理の対立は乗り越えられるか〜

昨日の議論の仕方の記事の続きです。



昨日の記事の最後の方に「自分が間違っているかもしれないという考えを常に頭の中において議論することは、感情を巻き込む様な議論になると特に難しい」と書きました。


先ほど紹介した本、"Thinking Fast and Slow"の序文にもこんな事が書いてあります。(もうくどいのでリンクは貼りません。笑)


"Questioning what we believe and want is difficult at the best of times, and especially difficult when we most need to do it"

"私たちが普段信じている事や欲している物を疑う事は、最善の状態であっても難しい。とりわけ、最もそうする必要がある時に難しい。"(訳は僕です)










さて、「宇宙には果てがあるかどうか」系知的議論なら、皆が中立に、論理的に話せます。それは、自然科学で解がはっきりしているテーマであるばかりでなく、皆、その結論がどうであろうと自分に影響はないからです。


でも、それが身近な話になってくると話は変わってきます。

「国民の税金をどの程度、途上国援助に拠出すべきか」的な話になってくると雲行きが怪しくなってきて、


さっきの記事でも書いた様に、自分の生活に直接関わる、「雇用規制を撤廃すべきか」とか「TPPを締結すべきか」系の話になると、議論は感情をモロに巻き込んだヒートアップ対決になります。笑






キーワードは「感情」な気がします。これが入ってくると問題がややこしくなる。生産的な会話をしたいときに、この「感情」をどう考えれば良いんでしょうか。

今の所、僕は、相反する二つの考えを持っています。


①さっきの記事でも書いた様に、議論に感情が入り込み、各々が自分の感情に従って「俺の気持ちお前には分かるはずねー!!」的な事になると、もうそれは生産的な議論ではなくなってしまいます。なので、議論するとき、少なくとも学問的な、生産的な議論をしたい場合には、どんなテーマであっても、徹底的に感情は排除して、冷静に、論理的に議論すべき。


というのが一つ。


②でも、「感情」は人間にとって最もと言って良いくらい重要なポイントです。例えば、①の様に、徹底的に感情を排除して、論理的に議論し、ある一定の結論にたどり着いたとしましょう。それは、論理的には皆が正しいと認める結論です。でも「理屈では分かるけど、なんか気持ち的にしっくりこない」というのはよくある事です。この「論理的には正しい結論」で、皆が「不幸せ」という「感情」を抱いてしまったら、この結論に何の意味があるんでしょうか。それは「正しい結論」なんでしょうか。








①をサポートする根拠は「感情的な対立は悲劇を生みかねない。実際生んできた。」です。
感情、また、そこから来る「主義、主張」は、人それぞれ違って、どれが正しい、ということではないので、お互い相容れない場合は決別→紛争、という事態になりかねません。

歴史上、膨大な数の命を奪ってきた宗教戦争とか、「自由が人間を幸せにするんだ」という主義の人達と「平等が人間を幸せにするんだ」という主義の人達が、代理戦争の下、多くの人を殺した冷戦、が良い例だと思います。

なので、感情や、そこから来る主義主張は徹底的に排除して、最小公倍数としての「論理」だけで議論しましょう、と。
(まあ、「論理」が最小公倍数なのかは微妙な話ですが。「論理的」であることは、文化によって違うので。それはまた別のテーマとして書きます。。。)





②をサポートする根拠は「感情的な対立を乗り越えた時にこそ真の理解が生まれる。」です。
簡単に言えば「喧嘩する程仲が良い」のではないか、ということです。感情的になって喧嘩して、その後にお互いに謝って、仲が深まる、というのは良くある事だと思います。人間はどうしても感情的な生き物なので、「感情を見せる」ということは「自分の素の姿を見せる」ということにも繋がります。それは相手を信頼している証拠です。①のように「感情を見せないで論理だけで議論する」ということは「自分の本当のところはみせないよ。見せても分かり合えないから。だから、まあ、お互い表面的に分かり合えるロジカルな面だけでお話しましょう」と言っている事と同じとも考えられます。これは、妥協的な案だと考える事もできます。










僕の今の所の答えは「状況、文脈によって使い分けるべき」です。

日本の様に、価値観が似ている人が集まる場所では②は絆を深める有効な方法だと思います。(もちろん必ずしも上手くいくとは限りませんが。)雨降って地固まる、的な、スポ根系ドラマは、僕は好きです。

でも、国際社会で色々な価値観、宗教、の人が集まる場所では②は極めて難しい。上に説明したような、今までおこってきた、もしくは現在進行中の数々の悲劇を考慮にいれると、①の「ロジックだけで会話して、感情の深い所には入り込まない」方が「マシ」かもしれません。








というか、そもそも、「論理」と「感情」の間に明確な境界線があると考えるのは、ナンセンスでしょう。
こないだも書いたけれど、「心と体」「自然と人間」etc etcが不可分な様に、「論理と感情」も不可分だと思います。



そうすると、上の①、②、みたいな分け方もナンセンスなのかもしれません。








話がこんがらがってしまいましたが、とりあえず大雑把なまとめとしては


(まとめ)
生産的な議論をしたいときには、「感情」を考慮にいれることが大事である。それは、より深い絆の素地にもなるし、避け難い対立の原因にもなる。コンテクストの中で判断しなければならない。






みたいな感じでしょうか。

んー深いテーマだけど、面白い!やっぱり議論はおもしろい!