遊藍:馬法使い RSSフィード

  • 千葉大学馬術部携帯サイト
  • 2012-02-07

    [][][]『正しい日本語』について

    正しい日本語を使おうとか、日本語がおかしいとかっていう指摘をする人がどこにでも少なからずいるけれど、その方たちは果たして正しい日本語をいつも常に使えているのだろうか?

    いや、それ以前に、正しい日本語ってなんだろうか?

    言語体系ははっきりと線引できるような固定された体系なんだろうか?

    言語はこれまでもずっと、変化を続けてきた。

    かつてから、若者の言葉遣いを否定する言説は続いていたらしい。

    では、大昔の言語こそが正しくて、今の言語は全て間違っているのだろうか?

    バベルの神話がそのとおりならそうかも知れないけれど、自分はそうではないと思う。


    言語は生き物で、きっちりとしたルールに沿って運用されているようなものではない。

    自然科学で求められるような、『原理』のようなものがあって、それを元に運用されているものではない。

    世界を記号化し、コミュニケーションをとる中で、その運用法をその時々に、目的に合った形で工夫され、変えられてきた道具だと思う。

    だから、どんなにルールを明文化してみても、そこに例外が残る。

    ある言葉の意味を述べるのにいくつもの場合分けが必要になったりする。


    ひょっとしたら、今学校で教わっている文法が間違っているかもしれない。

    (余談だが、自分は小学校の時から、割と自信を持って学校文法は『正しい日本語』と違うと思い続けて、考えている)

    そもそも、日本語文法というものが形作られたのは、西洋の言語が入ってからであって、その西洋言語の構文を元に当てはめて日本語に合わせた体系を作ったものだと聞いた。

    そういう成り立ちの文法が果たして、本当に正しいといい切れるのだろうか?


    かつて、天動説が地動説に取って代わられた話がある。

    実は、地動説が最初に提唱された時に、天動説より正確に星々の運行を予測できたわけではない。

    単に、地動説のほうがシンプルなモデルであっただけで、数字は天動説のほうが正確に出せた。

    しかし、地動説の方がシンプルな記述で、例外的な計算が少なく導出することが出来たのである。

    その後の観測技術の向上などにより、実際に地動説に取って代わられ、さらに大きな視点での宇宙のモデルに取って代わられていった。


    日本語文法、いや、場合によってはその他の国の文法でさえもこのようなコペルニクス的な転回がないといえるだろうか?

    例えば、本当に日本語の文章は主語が省略されているのだろうか?

    正しい日本語には主語が必ず存在していなくてはいけないのだろうか?

    実際に、このような疑問を問うた書籍もある。>『日本語に主語はいらない

    実際にこの書籍にある全てが正しいとは言わないし、それなりに批判はある本のようだけれど、こういう議論が今なお残っている日本語において、『正しい日本語』を使えと言う人達は、どこまでその『正しさ』を信じているのだろうか?


    もちろん、そういう問題を知っていて、考えていて、なおこれは確実に間違いであるという具体的な箇所を指摘することは出来るだろう。

    そういう批判に対しては、きちんと耳を傾けねばならないと思うし、そういう指摘は有用であると思う。

    けれど、自分の使わない使い方をしているとか、自分には理解の出来ない用例だったとか、自分がなんとなく不自然に感じたとか、あまりに適当な批判を投げかけたりはしていないだろうか?


    また、言葉は生き物である。

    原義から時代を経て定義は変化し、多様化したり、限定されたりして使われている。

    今辞書に乗っている意味が全てではない。

    その変化が妥当であるか、という視点も必要だと思うし、そうするためには批判に於いて深い知識と洞察が必要とされるだろう。

    言語・言葉とは、そういう深いものであるということだけは認識して欲しい。

    それでもなお批判する価値があると言う時には、丁寧に、言を尽くして対話して欲しいものだ。

    2011-08-16

    [][][]風邪薬・感染・似非科学

    本物の風邪薬が発明される: ニュースの社会科学的な裏側

    http://www.anlyznews.com/2011/08/blog-post_15.html

    ついに!?これはノーベル賞モノの研究


    というわけで、前に書こうと思って放置していたのを書く機会が来たようだ


    風邪を治す薬というものは、現状ありません

    風邪薬と言って出されるものは、解熱剤・抗炎症剤・咳止めなどの症状を抑える薬と抗生物質などになります

    発熱を主とする症状は、風邪の原因となるウィルスに対する免疫作用なので、症状を抑えると【治りが遅くなります】

    ただし、症状によって食欲不振や不眠などの症状が出る場合には、そのせいで体力が落ちて免疫が低下する可能性があるので、服用したほうがいいこともあります


    抗生物質は、【ほとんど効果がありません】

    抗生物質は、細菌を殺す効果がありますが、ウィルスに対しては全く効果がありません

    普通の風邪は、ウィルスが原因になります

    風邪をこじらせた場合に、細菌感染である肺炎などになる可能性があり、その場合には抗生物質を服用します

    が、一方で予防的な効果としては、ほとんど期待できないとされていますので、細菌感染が疑わしい場合のみ服用するのが本来正しい用法です

    無意味な抗生物質の使用が増えると、耐性菌が増殖する可能性があり、ホントに必要なときに抗生物質が効かなくなるおそれがあります

    (↑なので、もし、服用を勧められて、服用を始めた場合には病気が治ったからと言って途中で止めないほうがいいとされています。指定分は飲み続ける。あるいは、まったく飲まない。)

    さらに、菌であれば耐性のないものはすべて殺すので、大腸菌も壊滅的な被害を被り、腸内環境の悪化がおきます

    そのリスクがあっても、効果を得るために抗生物質が必要な場合はあって、そのために使うのであって、病気の時に飲むから体にいいモノ、ちょっと調子悪いから早めに飲んでおこうなんてシロモノではないよ


    感染とは、体内でウィルスや細菌が増殖することであり、ウィルスや細菌が【存在する】ことではありません

    体表面や外部環境には無数に原因菌はいるので、0にすることは病院の無菌室など特殊な環境を除いて不可能です

    非常に感染力が強い代わりに、常に存在しているようなタイプでない場合には体内に取り込まないようにしての予防が効果的になることもありますが、多くの場合には、取り込んでしまっても免疫が働いて感染しないようにするのが最大の予防法です

    その条件で行くと、睡眠と食事が最重要

    免疫の問題なので、基本的にはどの病気も治すときも睡眠を食事は最重要です

    HIVウィルスなど、免疫系を破壊する系統の病気や遺伝子疾患などは睡眠や食事では予防・治療できませんが)


    同じ理由で、怪我の治療も【殺菌消毒しないほうが早く治ります】

    新しい創傷治療

    http://www.wound-treatment.jp/

    創傷治癒の基礎知識

    http://www.wound-treatment.jp/wound006.htm


    殺菌消毒が一般的になる以前は、傷を放置することが多く、生活環境も悪く、栄養状態も悪かったために感染症になるリスクが高かった

    殺菌消毒するようになってから、感染症が急に減ったために、効果があるとされてきましたが、最近では実は傷口を綺麗に洗って清潔な状態を保つ=水洗いで十分だという話になっています

    縫った傷なども、濡らさないようにしたり、消毒薬かけるより水洗いしたほうがいいみたい


    殺菌消毒で、細菌は殺せますが、菌を殺す薬品を使うということは、当然表皮に保護されていない傷口の細胞も壊します

    再生は正常な細胞から起きるので、そこを壊される=傷口が広がるということです

    治りが遅くなれば、当然感染症リスクも上がります

    (化膿のメカニズムは、殺菌とは無関係で、そもそも傷口を殺菌しても周囲からすぐに押し寄せてきて効果は長続きしません。殺菌消毒は手術などで使う道具、傷のない正常な表皮などでは効果があります。)

    今では、キズパワーパッドのような創傷被覆材が開発されて売られているのでこれらがオススメ

    新しい創傷治療<治療材料について>

    http://www.wound-treatment.jp/title_hihukuzai.htm

    通常の絆創膏と比べて、高価だけどはがれにくく(傷の状態にもよるけど、数日間位ならつけっぱでも可)、比較的早くに治るため、意外と経済的



    一方で、まったくもってトンデモ似非科学による言説が結構おおっぴらに広まったりしてるけど、根拠の方をちゃんと調べればある程度は予測がつく

    根拠を見ても、正しいとも間違っているとも言えないというタイプの言説はあるし、時に根拠となるデータがでっち上げだったり、根拠がめちゃくちゃでもたまたま合ってるなんて場合もあるけど

    データで気をつけないといけないのは、一見正しいように見えて、実は別のもっとシンプルな説明がつけられていたり、すでに別の根拠で証明されているような場合、また統計・アンケートの場合にはそのデータの出し方をどうしてるか

    統計って、(本人がそのつもりかどうかはともかく)一番嘘をつきやすい手段だからね

    間違えでも、信じていて問題がない場合もあるし、間違っているために大きな害がある場合もある

    危険性があるなら避けたいというのは当然だけど、ホントは危険じゃないけど危険な可能性があるかもしれないから避けようとして、そのために全く別のより大きな危険に身を晒すようなこともあるから気をつけないといけない

    効果がある可能性があるなんて論文は上手くやれば捏造・・・といっちゃ聞こえが悪いけど、十分にありうるものでなくても構わないのであれば、統計のとりかた次第でどうとでもできる、と

    だから、データがあるから本当だということにはならないというのは知っておくべきだよね


    例えば、あるグループにはヨーグルトを毎朝食べさせて、それ以外にはあげなかったら、あげたグループの〜〜が良くなったなんてデータがあったりする

    (実際この手の研究方法・データは多いと思うよ)

    だから、ヨーグルトに含まれる〜〜という乳酸菌には〜〜の効果があるなんて言っちゃう

    でも、食べなかったグループがその他の点で同じ栄養素を摂取しているか(朝飯抜きの集団で一報にだけヨーグルトを毎朝食べさせたら、そりゃ健康になるよね)とか、ヨーグルトの栄養素(乳製品の栄養価は高い)が効果があったのか、特定の乳酸菌が効果があったのかは、別の種類の乳酸菌が入ったものを与えたグループや、同じ栄養素を取らせたグループなどと対比しないとわからないよね

    だから、薬の治験では、薬を与える集団と薬でない特にたいした効果のない栄養剤を与えたグループとで比較したりする

    何も飲ませないわけでないのは、プラシーボ(偽薬)効果があるため

    効果がないものでも、あると思い込むと何もしなかった時と比べて良い結果が得られる(悪いと思ってやると悪い効果が得られる)というもの

    こういう、データに影響を与える要素をいろいろ排除して、それでもなお効果が期待できるだけの有意な差が認められて初めて【科学的に効果がある】と言える


    もう一方はメカニズム的な研究をして効果があることを証明する方法もあるけど、これはどちらかと言えば、実際に効果があるものがどう効果を発揮しているかを調べることが多い

    勿論、メカニズム的な方から開発されて、それを実証実験によって証明してというのも結構あるけれど、どちらにしてもそういうホントに効果があるかどうかの対照実験というのはほとんど、ちゃんと行われるので、これに不備がある研究を根拠にしたケースは懐疑的に見ていいと思う


    マイナスイオンとか、プラズマクラスターとかああいうのも、なんかぁゃιぃけど、一般的に正しいと認知させてしまった似非科学だよね

    まぁ、あの辺りはそんなに害もないと思うし、実際効果はあるのかもしれないしそのあたりはよく分からないけど、効果があると証明されたものでは実はなかった気がする


    水の伝言みたいなヤツはもうほんとにどうしようもない

    宗教みたいなものとして、信じるのは自由だけど、科学ではない


    科学で証明できないもの、否定できないものがあるということを拡大解釈してなんでもありにしちゃうタイプは問題だよね

    特に、原発事故で絶対安全だとまったくもって科学的でない思想を持ってたタイプが翻って、科学が正しいとは限らないからって、有り得ないことまで信じたり、有り得ないことを絶対安全がなかったんだから、絶対ありえないなんて可能性もないはずと言ってしまったり、反対方向に落っこちてしまっている人も多い

    その両面はコインの裏表でおんなじ思想なんだよね

    似非科学に騙されたり、絶対安全を信じていたりした人は、反省の仕方を間違えないでほしい


    科学は、答えをくれるものではなくて、答えを出すための方法論だよ

    2011-08-04

    [][]科学とは何か

    一般の科学不信が高まってる今日この頃

    一般的に、科学って言ったときに連想されるのは科学技術やそれによってできた電子機器などなどではないかと思う。

    けど、実際の科学はサイエンス=スキエンティア=知識であって、科学者の営みとしての科学はつまり知識を追い求める方法論のこと。

    だから、科学的に正しい=事実であるというわけじゃないし、科学的に間違っている=事実でないというわけでもない。

    でも、それに過剰に反応して科学にも分からないことがあるんだから調べてみなきゃ分からないはずだとか、わからないことがたくさんあるんだからこれも否定できないんじゃないかとか言うことがよく言われたりもするけど、それも違う。


    現時点でいろいろ確かにわかっていることはあって、様々な方法で検証されてその上で耐えてきた理論と矛盾することは、まず間違っていると言っていい。

    新しい理論、従来の発想を覆す理論や事実というのは、ちゃんと過去のデータの説明も付くもので、より包括的な理論になる場合がほとんど。

    ニュートン物理学が否定されて相対性理論・量子力学が出てきたこととかね。


    ただ、新しい理論はより正しくあるべきというのはまたちょっと難しい問題で・・・

    例えば、今じゃ常識になってる地動説。

    これが最初に出てきた時、一般に信じられているのは天動説だったんだけど、実は星の動きについての説明や計算は天動説の方が正確だった。

    なぜ地動説が選ばれたかというと、そのほうが単純に説明ができたから。

    天動説での星の動きの説明はあまりに複雑すぎた。

    今では周りの理論が整備されて、地動説で充分に正確な予測が成り立つように成っているけど、初期の地動説はそれくらい精度は悪いものだった。


    こういう風に、より単純なものを選ぶという指針・原理を【オッカムの剃刀】という。

    多くの場合、これで正しいものを選択することが出来る。

    ただし、ここで大事なのは、これによって切り捨てられた複雑な理論は否定されたわけじゃなく、保留されただけということ。

    一先ず切り捨てられずに残った理論を否定する事実があれば再浮上する可能性もあるし、どちらが正しいか検証することが可能な方法があればそれによって否定されたり、立証されたりする。

    ただ、どちらでも説明できるのであればより単純な方を暫定的に置くということ。

    現実問題として結構この方法でうまくいっているというのは面白い事実ではある。


    閑話休題

    だから、科学はある程度正確に否定したり肯定したりも出来る。

    ある事象に対して、有り得ない事と断じることも可能だし、まず確実と言うことも可能である。

    ただ、その時に大事なのは『何について』『どういう理由で』そのように判断したのかということ。

    例えば、今回の地震や原発事故。

    有り得ないと言われていたと言う人もいるが、これは飽くまで『確率的に遭遇することはまず無い』という意味でしか使われていなかったと思う。

    一部のおかしい人を除いて、ね。そのへんは、『何について』『どういう理由で』をよく見れば判断は付く。

    確率的に低いことは、逆に言うと起こりうるということ。

    その確率も、正確に導き出せることもあれば、根拠やデータが少ないために信ぴょう性の低いものしか出せないこともある(地震予測の%とか)

    だから、事象と起こる/起こらないの間の部分がじつは重要で、この部分をすっ飛ばして結論だけ先取りしようとする人たちが勝手に踊っていただけ

    だけど、これは誰しもやりがちなことで、でも科学が存在するのはこの間の部分を含めての解答


    ちゃんと間の部分を見ておけば、『原理的に起こりえない』(今の根本となっている理論がひっくり返るようなことがない限り起きない)のか『確率的に有り得ない』(低いから気にすることはない/気にする方が無駄が大きい)のかはわかる。


    でもって、例えば今回の原発事故。これは確率的に起こりえないものが連鎖した形。

    一部には確かに、絶対安全なんて変なこと言ってる人いたらしいけど、常識的に考えて事故が起きる可能性は0なんて有り得ないはず。

    なんせ、自然界でも偶然、臨界しちゃうようなもの(天然の原子炉がある)を取り扱っているわけだし、きちんとした管理下においておかないと危ないものがノーミスでずっと管理し続けられるなんて、ちょっと考えれば誰も思わない。

    ましてや、過去に実際に何件か起きているわけで、それを絶対に安全なものと信じていた方が問題。

    ずっと推進派と反対派の変な対立がちょくちょくニュースになっていて(避難訓練しようとしたら、『絶対安全』なんだから、訓練する必要ないだろ。必要なら原発やめろ→じゃあ、訓練止めますとか)真っ当な推進派・許容派・反対派は何を馬鹿な事言ってる/やってるんだってことを繰り返してた

    こういう内容では0か100かなんてものは殆ど無い。

    原発を使うべきかどうかの議論はさておいて、使うのであれば事故は起こり得るものとして、コスト的に可能な範囲で事故を防ぐ対策は十分に取られるべきであったし(より安全な新型の新設と交換で古いタイプの廃炉や、設備の補修・改善など)、起きてしまった場合の最悪は想定してそれに対する対応策も予め協議して練っておくべきだった。

    今回、国際的な基準としてある程度出されている原発事故対応の指針についての議論で実際の動きを止めてしまったり、その指針の部分に従ってその指針の意図するところを理解しないで用いようとしていたり(例:年間20ミリシーベルトで許容して『除染をしない』)なんてのをやっているのもその準備の不十分さが主因だと思う。


    一方で、この放射線問題に大して、変な情報が出まわったりする。

    例えば、特定の菌が放射性物質を分解して無害化する、とか。

    こういうのは、『原理的に起こりえない』部類で高校レベルの知識で判別がつく。

    生物レベルで起きている現象は『化学反応』で、つまり分子レベルの操作。

    放射能を持つのは原子であって、分子レベルでいくら分解したり結合したりして物質を作り替えても放射能はなくならない。

    原子を変えられる方法は、限られていて『半減期を待つ』(時間が経てば勝手に崩壊して別の原子になる)『高エネルギーで圧縮する』(例えば、太陽の重力の中心近く。原子同士がくっついて別のものに変わる。)『高エネルギーをぶつける』(加速器など。原子をくっつけたり壊したり出来る)

    ちなみに、今の核分裂型の原子炉に使われているのは、放射能を持つ原子が出す放射線によって周囲の原子を変えて連鎖反応を引き起こすもの。


    だからって、これを見聞きした人が放射能に生物は役に立たないって結論だけ引き出して覚えてしまうと、それもまたおかしい。

    例えば、放射性物質を選択的に取り込む植物や微生物があったとする。

    これは、原理的に可能で、実際に起きてる。

    で、こうやって取り込んだやつを集めてどこかに運べばその場所の除染は出来る。

    単に、存在を消せないだけで、移動・コントロールしやすい形にするという意味では有効な手段になりうる。

    ただ、前述のように放射性物質そのものを変えたり消したりするわけじゃないので、どうやって集めるかとか、どこに運ぶかとかの問題に変わるので、そこを解決しないとダメというのもちゃんと間を見ればわかる。


    科学が、なにかの事象に対して語る時、かならず前提条件がある。

    例えば、原発なら、どの程度の天災でなら安全。その程度で済む確率はどれくらいだから、どの程度安全。どういう事象にはどういう対応をとっていて、だから安全。

    それは逆を返せば、その想定に入っていない場合は安全とは限らないということ。(これは=危険を意味しないというのも大事。これは集合の問題。)

    例えば、放射性物質の除去なら、原子は基本的には変えられないという原則が正しければ有り得ない。その原則が成り立つ範囲で事象を語っているなら有り得ない。その原則が成り立つと考えられている範囲が正しければ有り得ない。など。


    科学の役割ってそういうもの。

    科学は答えをくれるものじゃなくて、答えの出し方を教えてくれるもの。

    その答えがどれほど正しいか、どの程度正しいかもちゃんと分かるようになってる。

    そして、上には書かなかったけど、科学では原理的にわかりえないこともわかってる。

    原理的にわかりえないというのはつまり、いくら実験しても証明する手段がないということ。

    わかりえないかどうか分からないものというのもあるし、現在では技術的に証明する手段がない(コストや規模、時間の問題で実験することができない)ものもあるし、単にまだ実験が終わっていないというものもある。

    そういうのを全部一緒くたにして、科学を否定したりするのは、科学(の出す結論)を信仰するのと同じくらい愚かな行為。


    本来は、こういう科学という方法論を学ぶのが義務教育での理科の役割なんだと思う。

    というか、ちゃんと学べるようになっているはずなんだけど、需要の方は結論である『知識』だけになってるから、結局歪んだ形で身に付いている人たちが少なからずいる。

    ちゃんと、推論と実験・実証・証明に結びつけての知識を科学・理科として教えるのが大事なんじゃないか、それが科学リテラシーなんじゃないかと。

    [][]学校教育

    義務教育、学校教育について、上との関連からちょっと。


    例えば、社会人になってPDCAというサイクルをならって、いいことを教わったと得意になっている人は、それは小学校レベルの理科で学べた科学の手法の一変形だと、ずっと前に学べたはずのことだと反省すべきなんだと思う。

    こういう人に限って、学校教育を馬鹿にしたりする(自分も学校教育が素晴らしいとはこれっぽっちも思ってはいないけど)


    学校で何を学ぶかは、自分次第。学校が提供してくれるのは学ぶ機会。

    義務教育というのも、親が子供に学ぶ機会を与える義務であって、子供が勉強する義務じゃない。


    だから、何を教えるか、どう教えるかという議論は大いに結構で、それはそれで大事なことだけど、その環境を与えられる側がそれを欲しなければ学校は意味が無くて当然。

    例えば親が、学校で教わったことなんて何も役に立たなかったと思っていて、そう子供に教えていたら、その子供はまた学校から何も受け取ることなくまた子供にそう教えるかもしれない。

    こういう態度のほうが、例えば学ぶことは大事で学校はいいところと教わりつつ学校に行きながら仕事をしている子供よりもよほど、本来の意味での義務教育の放棄だと思う。


    教育する義務があるのは学校・教師だけではなくて、親から周囲の大人も含めて、つまり子供を持つ日本という国家社会全体である。

    学校・教師にも一定の責任があるのは勿論だけど、親やその他の家族がその責任を丸投げしていいことにはならない。

    義務教育に対して間違った知識が横行しているように思う。

    学校教育の改善も常に大事だけど、社会の大人たちみんなが教育の義務に対してすこし考えなおさないといけないのではなかろうか。