マンガと小説

古典的な議論なんですが、お付き合い下さい。

かなり意識として変わっている部分はあるでしょうが、現在でも「小説 > マンガ」として位置付けられている方は多いと考えています。これは時代が遡るほど強かった意識で、私の子供時代はマンガを読むことさえ目の仇にされました。親的な評価として「マンガは下らない」であり、マンガを読む時間があれば「本(小説を含む)を読め」とされ、私はマンガを買って欲しいとさえ口に出来ない家庭で育ちました。

一方で小説であれば寛容だったのでかなり自由に買ってくれましたが、これも途中から「下らない小説よりも、人生のためになる本を読め」とかなりの強い忠告が入ったのを覚えています。私の親ははマンガどころかアニメも敵視し、さらにテレビも敵視し、小学校4年ぐらいから後はロクロク見ていません。我が家の事はさておき、認識として「小説 > マンガ」の位置付けは強かったように感じています。

私は小説も好きですし、マンガもアニメも大好きです。私個人の中で小説とマンガの間に序列付けはありません。あるのは表現手法の違いによる芸術であると言う感覚だけです。たとえて言えば絵画と彫刻みたいな違いです。絵画と彫刻の間に芸術的序列がないのと同様に、小説とマンガの間にも差がないと考えています。違うのは表現手法だけと考えています。


マンガは小説に較べて、読んだ時に抱くイメージが画一的だの批判は昔から根強いものがあります。小説なら様々なイマジネーションを膨らます事が出来るのに、マンガは視覚に強く訴える絵があり、読んだものはそれに制約されてイマジネーションの膨らみが限定されてしまうというものです。この主張は一理はあると思いますが、一律に切って捨てるのには無理があると考えています。

マンガも小説もある題材をストーリー化と言うか表現化しているのですが、基本として扱える題材の守備範囲に違いがあると考えています。わかりやすいものとして、スポーツと言う題材があります。マンガではスポーツを題材とした作品が、それこそゴマンとあります。野球なんて数え切れないぐらいありますし、サッカーやテニス、格闘技なんかもたくさんあります。

一方で小説でスポーツを題材にした秀作は少ないと考えています。あるにはありますが、比較すると非常に少ないと考えています。これは小説と言う表現手法が、スポーツを扱うのが基本的に苦手であると考えています。スポーツの動きのある情景を文字で表現するのは、小説的手法では容易で無いという事です。その困難さを乗り越えた秀作も存在しますが、基本的に苦手であるから作品も少なくなっていると考えます。

小説でスポーツを表現する時には、スポーツの動きその物よりも、それを巡る人間模様、経過に重点を置いたものが殆んどの気がします。私も閑話でサッカーとか、バイクとか、野球を題材にしたものがありますが、重点を置いているのは人間模様であり、スポーツの動きそのものを描いた部分は僅かです。どう言葉を連ねても、実際の動きを文章化するのは非常に困難であると言う事です。

その点、マンガは画像と言う武器があり、文字では表しきれない動きをイメージとして読者に提供できます。マンガの古典的名作に「あしたのジョー」がありますが、これを小説として書いたところで、マンガに匹敵する感動を読者に与えられたかは極めて疑問です。言ったら悪いですが、たとえ小説化されても売れない本として忘れ去られてしまったと考えます。


小説をマンガ化したものもあり、マンガを小説化したものもありますが、この試みは個人的にはあまり成功していないように思っています。小説をマンガ化したものにはまだ秀作がありますが、マンガを小説化したもので思いつく秀作が乏しいと言うのがあります。小説化もマンガ化も、これが為されるのは元の小説、元のマンガが確固たる地位を持っているのが前提です。

もう少し言えば、題材として小説なり、マンガに適していたから原作は成功しているのであり、これを小説化したり、マンガ化するのは不得意分野の題材を扱っているからだと考えています。マンガ化でも小説化でも成功するには、基本条件としてマンガなり、小説が、本来不得意の領域の題材を、作者の力量でなんとかカバーしていたものに限られると考えています。

つまり、本来は小説の手法なり、マンガの手法で書く方が相応しかった題材であったものだけが、小説化なり、マンガ化に成功するんじゃないかと言う事です。


マンガと小説が得意分野として重複する部分もあるとは思いますが、そういう部分は案外少ないようにも思っています。広く重なっているというより、狭く重なっているイメージです。広く重なっているように見えるのは、小説なり、マンガの作者があえて不得意分野にチャレンジするからだと思っています。本人はチャレンジとは思っていないかもしれませんが、結果としてそうなっている部分が多い感じです。

これは作者が新たな作品の題材を探す時に、基本は「これを作品にしたい」が一番であるからだと考えています。ただその作者が持っている表現手法が小説なり、マンガに限定されているために、作品化するときにミスマッチが生じると考えています。もちろんミスマッチを乗り越えて秀作になる時もありますが、多くは駄作の海の中に沈むとすれば良いでしょうか。

理想的には取り扱い題材を吟味する時に、これは小説の方が適している、これはマンガの方が適しているを判断し、それに相応しい技法を駆使すべきなんでしょうが、あらゆる技法を十分に駆使できる人間など滅多に無いとした方が良いのかもしれません。


たいした話ではなかったのですが、小説とマンガは単なる表現手法の違いであり、表現手法が違うので得意分野がこれも異なる存在と考えています。小説とマンガの二元論で考えると話が見えにくくなりますが、表現手法と言う事になれば、これに映画や演劇を加えればわかりやすくなると考えています。とある題材を表現するのに一番相応しい手法は何になるかです。

表現手法の重なった分野の題材なら小説にしようが、マンガにしようが、演劇にしようが、映画にしようがヒットします。これは原作からのアレンジを行った者の能力に依存する場合もありますが、もっと大元は題材がいずれの表現手法でも、そもそも適していたからだの考え方も成立します。さらに言えば、あらゆる表現手法に適した題材はさして多くないとも言えます。

映画化や演劇に仕立ててもヒットしない小説やマンガは数多くあります。逆に映画や演劇でヒットしたものを小説化やマンガ化しても売れないものも多々あります。その事自体にさして不思議を感じる人は少ないと思いますが、それで映画や演劇と小説に高低を付けようとする者は少ないと考えています。これは映画や演劇は小説とは次元の違う芸術と見なしているからだと思っています。

同様にマンガと小説にも同じ関係があり、同じ関係があるのなら高低もまた無いとするのが妥当と考えています。一つ言えるのは、小説、マンガ、映画と並べると、より後者の方が視覚的イメージが強くなります。映画になればこれに音声イメージも加わります。視覚や音声イメージが加わるほど理解がしやすくなると単純化してもさほど間違いではないと考えています。

マンガは小説より視覚イメージが強烈なので、より低年層にも理解者が広まる性質があります。だからマンガは子供向けとの批判もありますが、これは子供「だけ」向きと考えるよりも、表現手法の年齢層への幅広い波及力がマンガの方が小説より強い性質を現しているだけと考えています。


それだけの話なんですが、たまにはこんな日もあると言う事で宜しくお願いします。