医療崩壊と言う言葉も旬でなくなったせいか、最近はあんまり聞かれなくなりました。この医療崩壊の言葉ですが、一般には地方の公立病院から医師がいなくなったり、救急での「たらい回し」激増みたいなイメージもありますが、私は本質的にはチト違うと考えています。ましてや大都会の大病院がある日を境にしてバタバタ閉鎖されるとか、ある日突然、医師が神隠しにあったように消えてしまうのでもありません。これも良く使った法則ですが、医療には3つの指標があり、この3つは並立しないとされています。すなわち、
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アクセス(医療機関の受診のしやすさ)
コスト(国全体で医療に費やす総費用)
クオリティ(医療の質)
クオリティに関しては様々な意見はあるかとは思いますが、欧米の医療に十分に比肩するものがあると信じています。そりゃ、一長一短はありますが、格別劣る面はありません。これも端的には周産期医療の死亡率の低さを示すだけでも十分かと考えます。つまり曲がりなりにも、
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アクセス、コスト、クオリティを並立させた
3つの指標の並立を支えていた魔法が解けてしまうと、みんな大好き「グローバル・スタンダード」への移行にならざるを得なくなります。つまりコストに応じた「それなり」のアクセスの医療体制への変換です。ただここから先は政治になってきます。政治は議会制民主主義であり、国民の投票で選ばれた議員が政治を行います。議員は任期中の政策の成果により審判を受けると言うのが基本的な仕組みです。政治家もあれも専業の商売ですから、「ずっと議員をしたい」と考えておられるわけです。そのためには任期中に
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あんまり評判の悪い事はやりたくない
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医療費を抑制しながら3つの指標を維持する
こんな状態がいつまでも続けられるわけがありません。政府も厚労省もバカではありませんから、ジワジワとアクセス制限に舵を切っているように感じています。ぶっちゃけた話、カネがないわけですから嫌でも進んでいくぐらいでしょうか。このアクセス制限も誤解があるように思っています。政府や厚労省が考えているカネは保険料と税金(公的保険部分)です。これの支出は増やしたくない、出来たら劇的に減らしたいです。国民が支払うカネについては考慮の外です。とくにアクセス制限が進むとそうなります。
アクセスはコストに比例しますが、公的保険部分のアクセスはそのコストに比例します。日本のコストならインフルエンザかな? と思って受診しようと思って予約を取れば「来週」クラスかと推測します。ガンの手術待ちが1年とか2年の世界です。その程度のコストしか今でもかけていません。ただこれでは不便です。とくに特別料金を支払える層は不満が出ます。ここは不満と言うよりニーズが発生するの表現の方が適切かと存じます。現在のようなアクセス環境の治療をコストが払えれば受けられる供給が行われると言うことです。従来、そういう医療が日本で殆ど起こらなかったのは、そんなコストを支払わなくとも公的保険で異様なアクセスがあり、わざわざ別コストを支払う必要性が極めて乏しかったからだけです。せいぜい差額ベッド程度でオシマイだったと言うところです。
しかしアクセス制限が進むほど、別コスト・コースの需要が生じるのも「グローバル・スタンダード」です。そういう医療環境は日本の医師も違和感があり反対はしていますが、医師如きが反対しても「もうけ主義」ぐらいにしか思われませんから屁のツッパリにもならないぐらいでしょうか。しょせんお上には逆らえないってなところです。別コースが栄えるほど産業としての医療は栄えるの算盤勘定もしっかりあるようで、財界もこぞって後押ししているのも周知のことです。
これは漠然過ぎる予想ですが、TPPはそういう舵取りを決定づける可能性はあるかもしれません。いわゆる「外圧」って奴で、政府が決めたのではなくやむなく外圧に押し切られた形にする政治手法です。外圧であっても政府に不評は出ますが、自分で決めるより非難は避けられます。世の中、そういう具合に流れる事はよくあります。今よりは不便になりそうですが、それもそのうち「慣れる」でしょう。いつの日か、「昔は大学病院だってすぐに受診できた」なんて話がお伽噺のように語られる日が来るんじゃないかと思っています。それが何年後かは・・・さあ、そこまではわかりません。
医療崩壊ネタも長い間関わっていましたが、今となって思うのはあれは崩壊ではなくて、グローバル・スタンダードへの再編じゃないかと今は思っています。崩壊するのは今まで続けていた異様な体制であり、崩壊後は焼け野原ではなく、本来「その程度」の医療体制しかなかった事を知ることではないかと・・・。