自己評価の正しい仕方。伸びた鼻をへし折ろう。

今の自分に自信がありますか?

背筋伸ばして廊下を競歩のあなたも満員電車でうつむいて毎日通勤のあなたも、

その問いに答えるということは、自分への評価を下したことになるやん。

その評価はどうやって下したかな?その方法は自信を持って正しいと言える?

自信を持ってなかったら、これから先を読んでみてちょ。
自信があっても、先を読んでみてちょ笑。

ちなみに自分でもびっくりするぐらい長くなったけど、途中読むのが面倒くさい人は、この日記の三分の四ぐらい下がると5行ぐらいの空白があって、そこに結論がありまするよ。

では、始まり始まり。

なんだか最近、自信がなくてさ、もやもやしてたんだよね。

俺の現在の状況は自分では納得いってなくて、周りの人と比べて落ち込んで、自分がおそらく受けるであろう社会的評価を予想して焦ってた。

今の俺の現在の状況を説明すると、

一般教養が専攻の北部の四年制大学で上から5番の大学
人類文化学部
GPA(成績) 3.7
TOEFLとTOEICは知らん
英語は会話レベルの中の上くらいか

まー、簡単にいうとこんなもんかな。これはもちろん学校生活の中での自分であって、プライベートの充実度だったりは関係ないことにしてる。

一見、良さそうに見える(?)けど、俺には自分に自信が持てない。

それはなぜかというと、

GPAは4.0を取る気でいて、英語をネイティブと会話してもひけを取らないレベルにまであげて、将来自分がやりたいことが出来て社会にしっかり貢献ししっかりした生活が出来るぐらいにしたかったから。

また、周りのレベルが高い。約80パーセントの親しい友達は大学院に行き、彼らは俺よりも多くのクラスと取り、クラブ活動に参加し、将来やることをしっかり見据えて走ってる。インターナショナルの友達も多くが成績上位で、奨学金をもらい大学院に行く予定で、英語を流暢に喋る。

そして、どーやらアメリカの大学をただ卒業した程度では、社会的な評価は低いようだ。まー、俺の学校の知名度とかいろいろあるんやけど、それは端折る。とりま、現在の俺への評価は高くないな、と感じている。

説明能力も思考の瞬発力もプレゼン力もコミュニケーション能力も経営力もまだまだだ足りない。

そういうことで、自信がなかった。

何か問題があるととりあえず書きながらブレインストーミングするってのが俺の解決法で、それをしてみると、ある発見があったので、それを紹介してみる。

それを読んでみて、ちょっと楽になった人がいれば幸いだと思う。

それを書く前に言いたいのは、俺がしたいのは傷の舐め合いだったり、その傷を隠して治療をしないということではない。つまり、自信がない自分に自信を持たせる為に、自己防衛の為に、間違った論理を使って、自己正当化したいわけではない。
世の中の一つの側面は間違いなく競争であり、それに負けたものは小さいパイを食べるしかない。

http://blueoceanj.blogspot.com/
元々のブログ。

じゃ始めてみる。

冒頭で自信の得る過程について質問をしたけど、普段、皆は自信をどのように得ているだろうか?自分への評価をどうやってしているだろうか?

おそらく、周りの人との比較、ではないだろうか。自分が参加しているコミュニティの中で重要視されている能力を、そのコミュニティ参加メンバーと自分との比較で評価している。
これを「相対的評価」としよう。
例えば、A社のサラリーマンであるあなたはA社内の同僚と自分を比較して自己評価をしているだろう。同僚よりも昇進が早かったから自分の能力は高い、といった風に。また、自分と同じような境遇で育った、例えば出身校が同じ、他人と比較して自己評価をしていると思う。例えば、元同級生よりも俺は年収が高いから俺はすごい、という風に。

これはとても自然なことだと思うんだ。皆がしていることだと思う。

ただ、それはとても変化のしやすく環境に寄り過ぎる評価の仕方ではないだろうか。
例えば、A社のあなたは大手のB社にヘッドハンティングされそこで働き始めたとしよう。A社での評価が高かったあなただが、レベルの高いB社では低い評価を与えられ始めた。その評価を与えられてどうなるか、例えば負けん気を発揮して頑張るのか、落ち込んで鬱になっていくのかはその人に寄ると思うが、その環境の変化に伴う感情の変化、または自己評価の変化に伴う行動の変化は不安定すぎないだろうか。

つまり、あなたの自己評価が環境に寄るのはいかがなものかと。それは自分の人生を他人にコントロールされていることになるのではないだろうか?

この見方はおそらく俺が普遍(いつ、どこででも変わらない。真理。)の状態を高く評価して求めていて、そして自分の人生を自分でコントロールすることにこだわっているからだと思う。

しかし、その「周りとの比較による自己評価の方法」は不安定で、他人任せなのでやらない方が良いと思うってのが俺の意見だ。


では、どんな方法で自己評価をすればいいのか?


それはその分野における参加者全員との評価なのだろうか?これを前にあげた「相対的評価」と対にして「全体的評価」としよう。
例えば、あなたが営業の分野で自分の評価を知りたいと思い、この評価方法を使って評価する場合、評価対象は地球に存在し営業という仕事に携わる人間全員である。まー、そんなでかい規模で評価できるわけないんやけどね。まー、仮定ってことで。
その分野での人間全てを含めて自己評価をした場合、それは全体的評価が出来ているようにみえる。上にあげた全体的評価の定義に添うと、出来ているように見える。
そしてその評価は普遍であるようにみえる。なぜならそれは周りの状況に左右されないからだ。比較対象が狭い周りの範囲ではなく参加者全体なので、それによって与えられた評価はどこに行っても通じる。つまり普遍で、他人にコントロールされてないように見える。

しかし、やはりその前提での全体的評価、ある分野における参加者全員との評価は、実は限定的で移ろいやすい評価であり、普遍ではない。

それがなぜ限定的かというと、それは過去に存在する人を含めていないからである、また宇宙は果てしなく広い。つまり確実に普遍であるこてゃ出来ない。まーそこまで考えちゃうと行き過ぎなんやけどね。

一つ重大な欠点は、それは不確かだということだ。なぜなら人それぞれに自分で選べなかった環境というものがあるからだ。つまり、今の自分の現在地はあなただけの力によって到達できたものではない、ということだ。もちろんそこに着くまでにあなたは努力をしただろう。しかし、様々な人の助けをたくさん借りたはずだ。
つまり、ある分野における全員と比較したところで、その全員の境遇はそれぞれに違う。小さい例を出すと、ある事情で中学までしか教育を受けられなかった人と、例えば大学まで教育を受けられたあなたの10年後の例えば知識の量を比較して、あなたがそれによって自信を得たとする。その得方は正しいのであろうか?
よく考えてみるとあなたの知識量が多いのは良くある話で、それはあなた個人の努力というよりも相手の環境が要因ではないだろうか。
という話である。





とか、まー大分広げたけど、言いたいのは、周りとの比較で得る自己評価は普遍ではない。その評価で一喜一憂するのは馬鹿げてるからやめよーぜ、って話。そんなもんでコロコロ感情を変えるのは環境に流されすぎてると思うよ、って話。

だから、自分の評価ってのは過去の自分とするのが一番いいと思う。昨日、一週間前、一ヶ月前の自分と比べて成長してるかって風に。
そして、その成長度ってある方向性がないと評価できない。だから、それを決めて評価をする。
例えば、アメリカ人と英語で問題なく会話するって方向、目標を決めて、その目標を自分がどれだけ達成出来ているかを、過去の自分と現在の自分を比較して評価するってこと。
タイムラインとか用意すれば尚良いと思う。


それにしても、やっぱり言葉ってのは不確かでめんどくさい。
竜樹が言ったように、やっぱり全ての物事は繋がっていて、言葉ってのはその繋がりを切ってある部分だけを説明することしか出来ないから、言葉ってのは結局不確かなもんなんだろう。

その不確かささえも不確かだ。