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よろづ天道まかせで

おのれかしこからむとのみする

宣長が、かの国について言及していることはいまもそのまま妥当するのかもしれない。

「かの国は・・・いと上代よりしてよからぬ人のみ多くて、あぢきなきふるまひたへず、ともすればば民をそこなひ、国をみだりて、・・・それをしづめ治めむとては、よろづに心をくだき、思ひをめぐらしつヽ、とにかくに、よからむ事をたどりもとむる程に、おのづから賢(さかし)く、智(さと)り深き人も出来(いでく)。さるから、いとヾ萬の事に、さるまじき事にも、いたく心を用ひて、めにみえぬ深きことわりをも、あながちに考つくしなどしつヽ、いさヽかのわざにも、善さ悪さをわきまへあらそふを、いみじき事にして、おのづからさる国のならはしになりぬれば、人ごとに、おのれかしこからむとのみする故に、かの実の情の、物はかなくめヽしきをば、恥かくして、言にもあらはさず、まして作りいづる書などはうるはしく、道々しき事をのみ書すくめて、かりにもはかなだちたる心はみえずなむある。げに国を治め人をみち引教へなどするには、さも有ぬべき事なれど、これみなつくりかざれるうはべの情にて、実の心の有様にはあらざる也。」
本居宣長、『石上私淑言』)

悪賢く、利口そうに、うわべをかざり、善悪をあらそうことをたいそうな事と考え、おのれはすごいんだとする。まったく人間としてのまことの情などなさそうだ。

しかし、世界中がそうなんだろうな。まことのこころなんてのは日本人だけなのかもしれない。さかしらな方々からばかにされるお人好しということになるのだろう。少しは、「おのれかしこからむとのみする」ようなみっともない態度もとるべきか。