教養

 次回の文化系トークラジオ〜ライフのテーマは、「教養」だそうです。

 「教養」と聞いて真っ先に思い出すのが、高校時代に出会ったこの本です。

教養としての大学受験国語 (ちくま新書)

教養としての大学受験国語 (ちくま新書)

 高校3年生の後半、夏休みも終わり、いよいよ受験勉強真っ盛りの時期に、

現国の授業で毎時間1題1題40分ぐらいで説きながら、

先生の解説を受けるというスタイルで進められていきました。

 正直言って、先生の解説は分からなかったし、問題も分かりませんでした。

でも、そこに掲載されている文章は、とても魅力的でした。

なにか、こちらに訴えかけてくるものがあったんですね。

 そこで、書店に行って、現物を実際に買ってきた、石原先生の

解説を読んでみたんですね。そしたらびっくり。分かるんですよ。

いかに学校の先生の「解説」がまずかったかが分かるのですが、

その分かりやすさと、内容の衝撃度に度肝を抜かれたのを覚えています。

 正直その頃、ジェンダーとか国民国家とか何一つ知らなかった私にとって、

それまでの世界が「ガラリ」と音を崩れていったことを思い出します。

今思えば、あれこそ私が経験した「言語論的転回」の一つだったのです。

新しい言語(ことば)を獲得するとは、それぐらい衝撃的だということでしょう。

 石原さんの本を読み終えた後、早速書店に走り、

上野千鶴子著『発情装置』(笑)を買いました。石原さんの本では、

『<私>探しゲーム』が問題文として取り上げられていたのですが、

私が行った書店には、上野さんの本は『発情装置』しかなかったんですね。

まぁ、なんだかすごい書店です。

 読んでみると、のっけからびっくり仰天でした。折しもその頃「援交ブーム」

で、「援助交際する若い女はけしからん」というマスコミ言説にしか

ふれていなかった私は、「買う男」に対する想像力を徹底的に欠いていました。

上野さんは、まさにその「買う男」に焦点を当てて、『発情装置』を書き出して

いたのです。

 さらに、ブルセラでパンツを売る女子高生などは、結局「オヤジ」に

収奪されているんだなんていう構図は、今考えればマルフェミ学者の

面目躍如といった感があるものの、当時の私にとってはとても衝撃でした。

 「教養」ってなんでしょう?

 結局のところそれは、「世界の見方を変える」ことなのかもしれません。

「教養がなくたって生きていける」それはその通りでしょう。

「世界の裏」なんて知らなくたって、がっぽり金だって儲けることはできる。

むしろ、そんなこと考えない方が、よっぽどお金なんて稼ぎやすい。

 ライフで本田由紀さんが出演したときに、柳瀬さんと意見が食い違ったのは、

まさに本田さんの「教養」と、柳瀬さんの「リアリスト」的側面が

正面からぶつかった結果だと思います。

 本田さんの言いたいことはよく分かる。けれど、本田さんの言うことを

真に受けてしまうと、ほんと働くことがばかばかしくなってしまう。

「やりがいの搾取」というけれど、これだけ大人が「苦しい苦しい」と

喘いでいる今、「まったり」と日常を過ごしてなんていられないという

危機感を、若い人は大なり小なり持っていると思います。

 だからこそ、「搾取」されていると分かっているけれど、「やりがい」

つまり、「必死になれること」がない人生はむなしいんだという強烈な

思いがあるから、「必死に」なってないと、なんだか社会からつまはじき

にされているような思いがあるからこそ、馬鹿のように働いちゃうんじゃ

ないだろうか。

 「教養」からだいぶ話が逸れましたね。

 まぁ、いいんです。いいたいのは、下手に「教養」なんて身につけちゃうと、

社会を斜にみることを覚えちゃって、「一歩」を踏み出せなくなることを

言いたいだけですから。

 それでも私は石原さんの本に感謝しています。大学に入ったその年、

石原さんが成城大学から早稲田大学に移ってくるという、

すごい偶然もありました。授業も受けました。

厳しかったけど、とてもすてきな先生です。

 来年早稲田に入学する学生は、是非とも(もぐりでもいいから)聴講

してもらいたいものです。

東大脳という病

 伊藤乾著『超「東大脳」の育て方』を読む。

超「東大脳」の育て方

超「東大脳」の育て方

 なんていうのか、期待して読むと裏切られるという感じです。

はっきりいって、これを読んでも東大にはいけません。

むしろ、東大へのあこがれをかき立てたり、やっぱ東大ってすごいだ、

ということを確認するのに少し参考になる程度でしょう。

 なんせ、のっけからこうです。

 ≪著者は東大の助教授であり、毎年約3000人の東大合格者をみている。

そのような現場では、東大生なんて当たり前の環境で、なんら

珍しいものではない。大切なのは、東大にはいることではなく、

東大に入ってからいかにのびるかだ。≫

 最初から少し心配になりました。

 著者は、どうやら東大生の間での「格差」を問題視しているようです。

「東大脳」の前に「超」とついているのは、普通の東大生を超える

という意味なのでしょう。ただ、大学生の学力低下が明らかな現在、

東大生間の「格差」なんて、他大学の教員からみれば、

うらやましい限りだと思います。

 私の経験から言って、一般に高等教育に進むにつれて、

そこで学ぶ生徒(学生)の質は、どの学校に行くかによって、

著しく異なります。公立の中学から進学校の高校に進んで、

そのことをはっきり自覚しました。一言で言えば、明らかに

「オカシイ」奴がいなくなったのです。

 授業中絶えずしゃべってる奴、落ち着いていすに座っていられない奴、

規律を全く無視する奴、そして大変失礼ですが、(精神的な)障害

を持った人など。

 (ここで言い訳ではないですが一言添えておきます。あえて私が、

人格を疑われかねないのを承知で「(精神的な)障害を持った人」

と書いたのは、それが疑いのない現実だからです。

 入学試験というのは、「ひと」と同じように学習できない人間を

排除する機能を確実に持っているからです。これは、悪しき習慣

であると思います。一刻も早く撤廃される日が来ることを望みます。

そのために私は来春から予備校に就職し、そうした制度を国より

早く打ち立てたいと思っております。)

 東大とは、そうした排除の頂点にある学校です。

私が考えるに、現在の学校制度は、「選抜」ではなく「排除」の

ほうにより注目すべき点があると思います。3000人が選ばれたの

ではなく、3000人以外が排除された結果、「東大の新入生」

という集団ができあがったのです。

 そこで、入試の本質が「選抜」ではなく「排除」にあるとすると、

多数が排除された後に残った学生とは、「優秀」であるより、

「無害」であることに長けた人間であるといえるでしょう。

そんな無菌室状態の学生を観察して「東大脳」を語ろうと言うのですから、

話が現実離れしてしまうのではないかと、危惧したわけです。

 案の定、そうでした。例えば著者自身の「普通」の生育環境を

みてみましょう。著者の高校時代の志望が、このように語られています。

 ≪じつは私は高等学校時代、最初は文系を志望しました。それは、

早くに亡くなった父が経済学部の出身だったので、マルクス経済学と

計量経済学のまんなかみたいなものを勉強してみようと思ったからです≫

 思わないって(笑)こりゃいかんと思ったら、

≪小遣いゼロ、ただし本は欲しいだけ≫買ってもらえたらしく、

興味ある本を手当たり次第読んでいったそうです。

普通の家庭では、そうはいきません。小遣いはやるが、本を買うなんて

無駄なことには金を使うな、と教えるでしょう。

かくいう私も「本が買いたい」と親にねだったとき、

「暇つぶしのためなら本なんか買うな」と一蹴されました。

私の親にとって、本とは暇つぶしの道具に過ぎなかったのです。

そして、大半の家庭では、本代を出すくらいなら、生活費の足しにしたいと

考えるものではないでしょうか?

 それでは、東大脳を育てる秘訣とは何か?著者は、なにも特別なことを

する必要はないといいます。ずばり、≪子供以前に、まず「親」の意識、

日常生活への心構え≫が大切だというのです。

 諏訪哲二さんの本を読んで勉強してください、としかいえません。

なぜ勉強させるのか?  教育再生を根本から考える 光文社新書

なぜ勉強させるのか? 教育再生を根本から考える 光文社新書

 はっきり言って、最近の教育研究動向に疎いのではないかと思います。

学問的な厳密性、科学性を言う著者にしては、杜撰かなと。

 理屈はいつも死んでいる、ではないですが、「正しい」ことはいくら

でもいえます。問題は、それがどれほど実効性があるからです。

この本のほぼ1章まるまるお亡くなりになられた著者のお母さんの

思い出話に割いているところからして、自分のお母さんと同じことが、

他の家のお母さん方にもできるはずだという前提があるように感じられます。

 無理だって。むりむり。

そう。無理なんです。だから、家庭に子供を抱え込まないで、

地域社会などが一丸となって子供を育てていける環境を作りましょう、

という話になってきているはずが、素朴な家庭教育礼賛主義に

陥ってしまっているところをみると、この人も結局「古い」価値観の中で

安住して生きていける地点にいるのだな、と思わされました。

 「新しさ」とは、なにも著者のように、最先端で活躍している

人間の特権ではありません。最先端で活躍している人は、

すでに「成功」を勝ち得ている点で、体制の側に与していると言うべきです。

しかし、今現在問題なのは、荒廃しきった家庭環境をどう改善していくかです。

「これから」ではなく、「いま」「現に」苦しんでいる家庭・子供をどうするか。

超「東大脳」を育てるのもいいけど、それ以上にやること、あるんでないかい?

「自分以外は馬鹿ばかり」は、若者の傾向か?

 俗流若者論によれば、今の時代は「自分以外は馬鹿ばかり」の時代だという。例えば、当然受かると思っていた就職活動にことごとく失敗した若者が、「俺(私)を採用しないなんて、全く馬鹿な会社だよ」なんていったりすることをさして言うようだ。
 
だが、この「自分以外は馬鹿ばかり」という風潮は、若者特有の現象というより、古くからある考えをずっと聞かされ続けてきた結果なのではないか、と私は思っている。
 
とあるレストランでバイトしていたときの話。自分を優秀だと思っている社員の口癖は、「上のやつ」または「同僚のあいつは」なんにもわかっちゃいない、というものだった。「優秀な俺」から見て、「現場を知らない会社経営者」や、一緒に現場で働いてはいるけど「無能な同僚」は馬鹿で、「優秀な俺」だけが会社のこと、現場のことをよくわかっている、という愚痴を聞かされたものでした。
 
ここで大切なのは、そうした愚痴を言っているのが、一人ではないということです。つまり、批判した相手に、批判した当人が批判されているという構図が明らかにできあがっているのです。
 
テレビドラマなんか見ていても、よく居酒屋の場面であるでしょう。若手を飲み屋に連れて行った先輩社員が、さんざん上司の悪口をいうなんて光景は、一昔のテレビドラマの定番だったように思います。
 
若者は、こうした言説を「学習」しているのです。親がさんざん家庭で言っている愚痴、つまり、会社の上司が以下に無能か、という話をさんざん脳にすり込まれてきた結果、自分を棚に上げて上司をけなすのが悪いことではない、と思うようになったのではないでしょうか?