コロンバイン高校からJR西日本に愛を込めて

 http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20050505k0000m040148000c.html

 思い出すのは、コロンバイン高校でガキが銃を乱射した時のこと。あの事件で問題とされたのは、いわゆるサブカルで、そもそも、ガキに銃を持たせることができるシステム自体は不問にされました。
 そこで、ムーア監督は「じゃあ、なんでよ。乱射の前に、あのガキたちがボウリングしたのを問題にしねえんだよ。もしかしたら、ボウリングが乱射の原因かもしれねえじゃねえか。どうなのよ、おい。」って、異議申し立てしたのが映画の『ボウリング・フォー・コロンバイン』でした。
 もちろん、あの醜くてデブでダメな白人のルックスをもって、優れた知性を有するムーア監督のことですから、その異議申し立てというのは、サブカルのみに目を奪われて、拳銃の所持を許容するアメリカ社会に対する痛烈な皮肉だったわけで、本気で、ボウリングに怒っていたわけじゃありません。
 もし、あの映画をみて、「そうか、ボウリングって、そんなに危ないんだ。だったら、まず、サブカルの前に、ボウリングを禁止しないといけませんね。」などと考えた人がいたら、会って話をしてみたいのは確かですが、でも、やっぱり、ちょっと頭がおかしいというか、コンテクストが分かっていない馬鹿者というか、そういう謗りを受けても仕方がなかったでしょう。

 で、毎日新聞(僕が確認したところでは、朝日新聞にも同じ記事がありました)。これは由々しき事態ですな。
 銃の乱射事件をJR西日本脱線事故に置き換えてみればよいのです。どれだけ、新聞記者の頭がおかしいのか分かるんじゃないでしょうか。新聞記者たちは、本気でボウリングに怒っている。これは異様なことです。その当日にボウリングに行ったっていうのは、不謹慎で考えが足らないところはあるにせよ、事故とは何の関係もない。もちろん、今後の事故防止には役立つわけがない。
 コロンバイン高校のガキの銃乱射とボウリングのあいだの距離と同じくらい、脱線事故とボウリングのあいだの距離は離れている。しかし、新聞記者たちは、その距離を短絡して怒っている。ムーア監督が冗談で言ってみせたことを真に受けてボウリングに怒っているのと同じです。残念ながら、そのくらい、この新聞記者たちは愚劣です。

欲望は別の場所に

 で、「うんうん、そうだね」の無限反射みたいになっちゃうので、トラックバックってあんまり好きじゃないのですが、友人が冴えたことを書いていたので、トラックバックしておきます(http://d.hatena.ne.jp/takabe/20050505)。

・「いかに効果的に怒るか」をマスターしないと、「反省」という効果は望めない。私が「学校」という場で学ぶことのできたもっとも有益な知識の一つだ。と言うか、「学校」とは、教師を反面教師としてそういうことを学ぶ場ではなかったか。新聞記者のみなさんはそういうことをきちんと「学校」で学ぶことなく社会人になられてしまったらしい。御家庭でどのように子供と接しておられるのか、ちょっと心配してしまう。

 takabeさんの意見は正論で、僕もその筋自体にはおおむね賛同します。
 ただ、思うのは、この新聞記者たちは(そして、こうした記事を望む読者たちも?)、JR西日本を反省させるという「効果」などは微塵も求めていないということです。その意味で、こうした正論を述べたところで、彼らには痛くも痒くもないでしょう。
 ボウリングと列車の脱線事故を一緒に論じてしまう「知性」がない人たちなんだから、それはそれで仕方がないのです*1。こうした批判をきちんと読むことができるような人間ならば、そもそも、こういう記事を書かない。

 むしろ、問題は、新聞記者たちが事故再発も求めていないし、JR西日本のシステムが改善されることも求めていないとすれば、では、なにを求めているのかっていうところにあります。
 つまり、仮に、takabeさんが述べたように、きちんとJR西日本が正しいシステムを内面化し、そのシステムに従属して、反省の「主体」となるような「効果」を求めるとするならば、学校の教師のようなディスクールを使ってはいけないということになるでしょう。しかし、彼らは、そういったディスクールを使わない。とすれば、彼らは、「反省」という「効果」を求めていないということになる。では、どんな「効果」を求めているのか。彼らの欲望はどこに向けられているのか。そういった問題です。

 彼らは何を求めているのか。

 takabeさんに従って、「学校」のメタファーに寄り添って考えるのであれば、恐らく、彼らは、自らを「先生」たる地位に仮構することを求めているように思われます。
 換言すれば、彼らは、特権的な語り手としての地位を求めていて、だからこそ、彼らは「当事者」の場所において語るのではないか。
 つまり、自らを特権的な場所で語るものとするためには、特権的な語り手としての自分と普通の語り手を差異化しなければならない。そのための戦略として選ばれたのが「当事者」の場所において語るということで、だからこそ、彼らは、「当事者」的に「その日にボウリングに行っていたのは不謹慎じゃないか」だとか「ポケットに手を突っ込んで謝罪にくるのは、失礼なんじゃないか」だとか、そういった「当事者」において腹が立つことをあたかも「当事者」を代理するかのように語ってみせる。そういうことなんじゃないでしょうか。

 もっと言ってしまえば、新聞記者たちにとって、自分たちは特権的な語り手でなければならないという前提が最初にあって、国家権力によって、その正統性を制度的に担保されている事故調査委員会のような専門的な機関のディスクールを退けて、その特権的な語り手たる地位を担保するためには、当事者たる地位を目指さなければならない。というか、その場所以外には、自分たちの特権性を担保してくれるものはない。だからこそ、彼らは、記者会見の場で、あれほどまで(嬉しげに?)「人が死んでるねんでえー」と叫び、自分たちは「死者」の代わりに語っているかのように自らを仮構する。

 しかしながら、誰も死者の場所で語ることはできない。そして、また、アウシュビッツ以降、死者の場所において、死者を代理して語るっていうのは、基本的には(というのは、例外的に、その表象の限界を超えるような芸術形式も模索されているから)、知性をもって語るものがまず最初に避けるべきものとされている。それは、死者ないし他者の声に自らの声をかぶせることによって、再度死者を殺すという行為に他ならない。

 とするならば、新聞記者たちは何を欲しているのか。恐らく、それは、死者の場所において、死者を再度殺し、特権的な語り手としての自分を生きのびさせるということに他ならないのではないかという気がします。その意味で、彼らの「ボウリング」に対する言及は、そもそも語る者としての倫理に反するような気がしてなりませんが、いかがでしょうか。

 

*1:たぶん、徹夜して一生懸命記事を書いているんでしょうが、「知性」がないのは「知性」がないのだから、仕方がないのです。徹夜して、血反吐吐いて過労死するくらい働いているんでしょうが、「知性」がないのは補えない。