apoPTOSIS:mod.HB

最近は写真日記。

続頭の良し悪し:巣食うコンプレックス

 先日の内容けんけんが反応してくれたので、話を少し前進、もしくは自分の内側に進めることができる。
 けんけんは僕と同い年であり、僕よりも学歴が高い。学歴エリートと言えるレベルである。

僕は「頭いいね」という言葉は正直飽きるほど言われてきた.京大だからとか,昔の出来事を細かいところまでよく憶えてたりとか,分厚い本を読んでるからとか,人と違う視点で物を見てるとか,何だかよく分からないことを研究してるからとか,そんなことを色々と言ってもらえるのは,有難いことだと思っている.

 僕とは正反対の評価を得ているので、僕の状況の比較対象にはもってこいである。前回書いた様に、僕が生まれ育った環境での頭の良し悪しは学歴がメインだった。つまり「良い学校に入れなければ馬鹿」と言われ続け、そう刷り込みされてきた、ということである。その影響はこの一連の僕の文章にも伺える。単純にいえばいわゆる学歴コンプレックスということになるのだろう。
以下、wikiからの引用である。

自身の評価を学歴と強く関連付ける行為(学歴コンプレックス)の典型的な例として、相反する以下のような二つの側面が見られる。

* 個人は学歴によって評価(ないし差別)されるべきではない(そうされたくない)。
* 個人は学歴に見合った評価がされるべきだ(そうでなければ不当だ)。

学歴コンプレックスの問題意識は、学歴とこれにまつわる社会構造の問題というよりも、当人の現実認識が「学歴」という一つの指標に囚われている結果に過ぎないと見なせよう。

学歴は本人の努力を前提とするが、本人の先天的能力に加えて家庭環境や社会環境といった多様な要因が複雑に絡み合って決定される属性である(→ピエール・ブルデューによる『文化資本論』)という側面を持つ。しかし学歴コンプレックスを持つ本人は、学歴を個人における後天的な行為(努力や選択)の最終審判として過度に重視し過ぎる傾向があると見なせる。

 けんけんに「アタマイイ」といわれ、僕は嬉しいと思った。何故「嬉しい」と思ったのか。一つは単純に「褒められた」と感じたからである。もう一つは自分より「学歴」が上の人間に、「アタマイイ」と言われ「認められた」感覚があったのだろう。
 これらの無意識を解体してみる。「褒められた」と感じ、「嬉しい」と感じる。「アタマイイ」が褒め言葉になるのは、自分にその自身がない表れであり、頭良くなりたいという願望の表れでもあるだろう。そして何より自分より「学歴」が上、そう感じている根源には自分の「学歴」が低いものだ、というコンプレックスの表れでもある。「認められた」という感情は、結局のところけんけんに「認められた」という単純的なものではなく、「高学歴のけんけん」に「認められた」というものであり、主体がけんけんではなく、けんけんのバックグラウンドにスライドしている。
 そういった無意識の構造は以前から意識していた。意識していた分、ネタとして用いることにしていたが、いい加減そこから抜け出したいとも感じるようになった。僕の場合は自分の学歴を誰よりも下に見る傾向がある(三流であることには間違い無いが)。そのために自分より「学歴が高い人間」に対して、無意識の内に「特別視」する傾向にあった。「この人は自分より頭の良い人なんだ」というバイアスが存在していた。自分がその「学歴が高い人間」になった場合、どういう反応を示すのか大体の想像はつく。多分生粋の学歴エリートに対して同様にコンプレックスを抱くのだろう。
 対象が僕同等、もしくは低い場合、「この人は自分より頭の良い人なんだ」というバイアスのかわりに、「何でも話しても良いんだ」という安堵感が生まれるのだが、これもまた間接的に対象を「学歴が低い人間」と認識している点で根底にはコンプレックスがある。以上において、高い、低い、同等の学歴の比較は僕自身のコンプレックスを根底にした主観的なものであることは追求することもないだろう。
 これから先、僕がこのコンプレックスを克服するには自分の成すことを成さなければならないのだろう。強いていえば、そのためのモチベーションもそのコンプレックスから生じている場合が多々あり、自分の成すこととコンプレックスの相関関係ができあがっている。今より自分を成長させるには、それは最低限乗り越えなければならない壁でもある。もうちょっと自分を信じてあげたいとも思う。

穏健な宗教と科学

 good2ndの日記 - 穏健な宗教より。

ニセ科学がらみで「穏健な宗教と科学は共存できる」というような言い方がされてました。でその、「科学と共存できる穏健な宗教」ってどんなんだろう、というのがどうもよくわからない。「穏健」というのが、単に狂信的でないとか暴力的でないとか反社会的でない、というのであれば、まあ日本にある大抵の宗教は穏健ということになるんでしょうが、「科学と共存」というのがどうも。

 以前は僕も宗教と科学が相反するものだと考えていたが、
 理系と文系:Ver.2.0を書いたあたりからは、双方の原理は同じものであり、成立するためにそれぞれが必要不可欠であったと考えている。根本部分として、近代科学を信じるのか、宗教を信じるのかの差異になってしまうのだが、今さら近代化学至上主義に対して言及する気はない。単に指摘できる点として、「穏健な科学と宗教は共存できる」と置換できることがあげられる。つまり排他的一神教の様な排他的科学であっては、多様性は認められずにその客観性を失うことになる。つまりはニセ科学同様に盲信的になる可能性がある。
 科学、ここでは自然科学を念頭に宗教と対比させているのだろうが、その自然科学者達のベースには宗教があったことは見逃せない。多神教世界でのギリシア哲学や、一神教世界でのイスラム錬金術など、西洋近代科学成立に欠かせないものは宗教と共存していた背景がある。また大学の成立にしても、神学がメジャーの一部であり、日本においても寺院は研究機関としての役割も担っていた。また近代科学の発端である西洋においては科学者であってもそれぞれに信仰をもっている場合が多い。例を挙げれば切りがないのだが、科学の始まりからして西洋においては科学と宗教は共存しており、科学が宗教の存在を否定することは考えられないだろう。要するに信仰の自由を認めることも科学の多様性という見識があるのではなかろうか。
 問題点はやはり日本人の宗教観ではなかろうか。今では形骸化し通過儀礼的な行為が多いが、元々は宗教を起源にしているものが多い日本文化。それらを無意識に行いながらも「私は無宗教です」と言い、「科学を信じます」では矛盾だらけである。どちらかといえばその無意識を客観するものを担うのが科学であるのに、主体的に信じる対象として科学が用いられる。戦後の新興宗教では信仰者の救済をメインに捉えず、教団側の利益を追従するが為に反社会的に成りやすい。これは例えば教育勅語に見られた様な、自己肯定のための排他が基にある所為だろう。
 要するに「共存」できるかできないか、ではなく、宗教あってこその科学であり、科学が成立したからこそ宗教はその存在意義を確立したともいえるだろう。以下、駄文ではあるが以前書いた神さまなんて信じていない僕らのためにから引用して終わりたい。

 主観的であることは非科学的である、とすれば歴史学どころか真に科学的なことなんてこの世の中にありゃしないんだ。観察者にはいつだって主観が宿る。そしてまた、観察者は観察対象に影響を与え、それまであったあるがままの形を変えてしまったり、観察者のフィルターによって情報は置換される。それが例え数値化という名の近代科学的幻想であっても、数字は結局人間の範疇を超えることはない。つまり数字なんてものは人間が事物を読み解くための方法であって、変換されてしまった時点で結局それはそこまでの意味しかないんだ。何が言いたいかって、要するにこうやって言語化している段階でこぼれ落ちてしまう、もしくは言語化することすらも不可能な事物の色とか匂いとか感触とか姿形とか、五官で感じるべき事物は、結局は削ぎ落されて本当に伝えたいことなんて伝わらない。ましてや五官フレームで感じられる情報量には限界があり過ぎる。言語的転回もまた近代科学の基礎だけれど、それに縛られ過ぎて見落としてるものがあるんだろう。