『ゴータマ・ブッダ考』をめぐって(秀逸なコメント)

今年2月7日の記事への「o」さんのコメントが非常に面白かったので、コメント欄をこちらに転載します。並川孝儀さんの新著『ゴータマ・ブッダ考』を巡るやりとりです。2月9日の記事「ブッダは2600年前に生まれた現代人か?」も参照してください。

フルナ
『はじめまして、協会のHPにときどき書き込みをしているフルナと申します。ちょっと気になる新刊情報がありましたのでご紹介します。

ゴータマ・ブッダ考 [著]並川孝儀
http://book.asahi.com/review/TKY200602070370.html
読んだ訳ではないので批判はしにくいのですが、なんだか無責任な印象を受けました。』

ajita
『フルナさん、こんばんは。『ゴータマ・ブッダ考』Amazon.co.jpでランキングが急上昇してたので、はは〜ん、宮哲さんが朝日で書評出したな…と思っていました。そのとーりでしたね。僕も読んでないので何とも言えませんけど、宮哲さんあたりが喜びそうな内容みたいですね。とりあえずブッダの輪廻説については、石飛道子先生の『ブッダは輪廻を説かなかったか 仏教と輪廻』(http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/essay.idx.html)読めば「まったく乱暴な説述」に凝り固まってるのはどちらさまですか?と普通の知性ある人ならわかると思います。宮哲さんが批判してるのはたぶん宮元啓一先生のご著書だと思いますが、「韻文、散文の区別」「語形の変化」がブッダの真説を判断する基準には必ずしもならないということは、宮元先生ご著書のなかでしっかり論拠を述べられている訳で、それに「まったく乱暴な説述」と不当な中傷後記:言いすぎました)を加えている宮哲さんの「まったく乱暴な説述」ぶりには苦笑せざるを得ません。どちらにせよ、『ゴータマ・ブッダ考』に関してはいずれ読んで面白かったらレビューしたいと思います。
では、お幸せでありますように。』

ajita
『追伸:宮元啓一先生のお立場については、『仏教かく始まりき----パーリ仏典『大品』を読む』のご紹介
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/hon/daihon.html
こちらにUPされてます。いくら大朝日のお墨付きがあっても、一発撃沈だと思います。
でも日本の人文系学問だと、自らの方法論を相対化することへの拒絶感はすごいです。
ま、顛倒した世間の商売ですから、気にしませんが。では、お幸せでありますように。』

フルナ
『ajitaさん、丁寧なレスありがとうございます。

ぼくが朝日の書評を読んでまず思ったのは、「輪廻がないなら、頑張って修行する必要なんかないでしょうに」でした。ちょっと乱暴ですが・・・。ともあれ、長老についていくだけです。

三宝の御加護がありますように。』

o
『フルナさん、ajitaさん、こんにちは。正論が通らないのが、世の中じゃないでしょうか?
なぜなら、人は馴染み(アラヤ)を愛すからです。
和辻哲郎は、文献学・原典批判という手法を用いて輪廻を仏教から排除しようとしました。
それは彼が馴染んだ常識的世界観を擁護したかったからで、仏教の真実を描きだしたかったからとは思えません。

この和辻の手法に荒巻典俊説を加えたのが並川『ゴータマ・ブッダ考』ですが、まったく受け入れられません。
なぜなら、経典を最古層と古層に分け、最古層より古層が輪廻に対して積極的だということから、
釈尊が最古層より輪廻に対して消極的で「あくまで現世に力点を置くという態度を強く示していた
のではないかと推定できる」としています。ですが、その根拠である最古層が輪廻に対して否定的表現をとる
から消極的というのは、他生や再生が望まれないことを指しているからです。

他生や再生、つまり輪廻を厭う、否定的であるというのは通仏教的であり、
特殊な表現でないことはお二人には自明のことでしょう。
それに対して古層が輪廻に対して積極的というのは、輪廻の中で良い生まれを望むことを指してます。
これまた通仏教的で、生天と言われ解脱に向かわない人への方便的教え、本来否定されますが、
悪趣に行くよりはマシといった内容であることも、お二人には自明のことでしょう。

つまり「資料に対して一貫した姿勢で臨み、それに基づく研究が徹底され」ているのではなく、
釈尊は「現世に力点を置く」としたいために意図的に最古層が輪廻に対して消極的だと解釈しているのです。
この現世というのは、彼が馴染んでいる常識的世界観であることは明らかでしょう。
このような研究はまったく支持できません。

凡人が馴染んでいる常識的世界観、つまり普通の認識が無明に覆われて倒錯した見方をしていて、
それを行によって打ち壊さなければならないのに、かえって凡夫の常識的世界観を
擁護する仏教学者が多いのには、困りものです。輪廻解釈はその試金石になると思いませんか?
(ちなみにこの常識的世界観から逸脱した思想がカルトと呼ばれるようです)

しかし世の中はこの常識的世界観を擁護する仏教学を好むものです。理由はもう言うまでもないでしょう。

三宝の灯明が無明の闇を払いますように!』

ajita
『oさんこんばんは。

いやぁよくまとめて下さってありがとうございます。頭の無駄な回転が省けてすっきり致しました。

>(ちなみにこの常識的世界観から逸脱した思想がカルトと呼ばれるようです)

カルトとゆー言葉の定義がわけわかめですね。でも現代日本語的には常識的世界観を抱く世界に具体的に脅威を与えて犯罪行為を誘発するような集団をカルトと呼ぶのではないでしょうか?

仏教は「逸脱」ではなく、文字通り「超越」の道ですから、常識的世界観のなかで生きている人にもその範囲内で最高の生を送る方法を教えてあげられるわけです。だから常識的社会に迷惑をかけることはないし、むしろ利益しか与えない。

いわゆるカルトは所詮、常識的世界観の一部分をカットして妄想で代替しただけの代物だから、常識が備えていた「制限された認識の中での実用性」さえも失っている。だから世間にも出世間にも役立たず。ただの妄想のゴミです。

ブッダの教えがいかに受け入れられ難くとも、いわゆるカルトなんかと境遇を共有したくないので、僕はそのように理解しています。

では、お幸せでありますように。

追伸:このエントリ、元記事がコメント欄と関係薄いので、4月2日付けで新たな記事にしました。よろしければそちらをご覧下さい。』

ゴータマ・ブッダ考

ゴータマ・ブッダ考

しかし、『ゴータマ・ブッダ考』一時はかなりランキング上に行ったにもかかわらず、amazon.co.jp で全然レビューが上がらないのは何故でしょうか?web周りを検索しても曽我逸郎さんのいかにもとゆー感じの書評以外はほとんど見当たらないのですが…。

〜生きとし生けるものが幸せでありますように〜