シナノキの樹皮で縄をつくる(全三回) の第一回目を実施



六合村根広地区、中之条町入山の中村義司・千代子さんご夫婦のお宅にうかがい、シナノキ樹皮の繊維から縄をつくる全三回の学習会の初日を実施しました。


シナノキの樹皮で縄をつくる(2014年度 第一、二、三回 浅間・吾妻塾)
http://ecotourism.or.jp/monodukuridendoushi/shinanoki-juhi-nawa.html



    


根広にある、ねどふみの里に集合して、田代原の山口一元さんのお宅にうかがいました。山口さんは酪農(約70頭)、農業の他に食品加工業も営んでいます。手作りのウルイの煮物、そして草津の銘菓「あったか草津」(山口さん生産の大豆を使用)をご馳走してくださり、いろいろと地元のお話をお聞かせくださいました。


山口さんから牛糞堆肥を購入すると、

  • 2tトラック  10,000円+交通費2,000円
  • 4tトラック  20,000円+交通費2,000円
  • 軽トラ(約1t)配送料込みで5,000円


だそうです。かつて小渕恵三氏が会長となり進めた1987年制定・総合保養地域整備法(そうごうほようちいきせいびほう)=通称リゾート法により、商業地草津町のベットタウン六合村として機能を存分に発揮するための、夢の「大沢橋」建築構想がが進められていて、六合村にも当時はかなり仕事があったそうです。その後、橋の建築がダメになり、中之条町と合併したために六合支所では仕事をスムーズに進められなくなったりで、ますます仕事がしにくくなっているそうで、若者を六合地区に留めさせておくのが困難になっているとのことです。



      


一元さんの自慢の炭窯はとても大きく、立派です。福島原発事故の前に椎茸のほだ木で伐っていたナラの木は、このところはめっきり黒炭の原料となりました。最近試してみたのはリョウブの炭。固くて形が崩れなく、なかなか良い炭になったそうです。



    


今日の伐採木の確認をしつつ、畑のウルイ、経営している納豆工場(六合の幸工房)などを拝見して、伐採スタート。





義司さんのチェーンソーが調子が悪く、一元さんので伐採していただきました。



  



直径20cm以内で、年輪を数えると樹齢は30年未満。この位までがいいのだそうです。形成層のところはヌメヌメしてて、これならうまくいきそうです。



    


軽トラ荷台に積める、150cm程度の長さに玉切りして、積み込みます。義司さんが剥け具合をチェック。かなりの上モノをゲットできたとのこと。



  


一元さんからお土産の「六合納豆」をしこたまいただいて、田代原→根広の義司さんのお宅へ。凄い大釜がありました。まずはこの大釜に水を湛え(入っていましたが)、火を焚きます。



    


シナノキ皮むきを開始。マイナスドライバーを木口面の木部と師部の間、形成層といわれるヌルヌルの部分に差し込みねじ込んで部分的に(幅約5cm位に)剥がし、剥がした樹皮を掴んで下までバリバリと剥きます。



    


この位の幅で下まで剥け切れるようだったら、材料としても良い、つまりシナノキの「伐り頃」ということになります。その後は上手に剥くと、残った樹皮の全部を繋がった状態に剥くことができます。ヌメヌメしていて気持ち良い〜。



    



幅5cm程度の樹皮がたくさん採れました。これをさらに外樹皮と、「甘皮」と呼ばれる内樹皮とに分けていきます。うーん、私が裂いたものは両方に斑模様が現れています。千代子さんが「もっと内側の皮だけに剥がせるはずだが…」と仰られます。



  



とすると、この斑模様は内樹皮ではなく、コルク層にあたる部分ということでしょうか。かなりこのコルク層は厚いです。あ、義司さんのあの剥き方は…そうか、外樹皮を剥がそうとするのではなく、内樹皮を剥がそうとすれば良いのですね!





解りますでしょうか。これがシナノキの内樹皮にあたる部分です。樹皮全体の25%位、これだと、左右に裂いた時に、左側(内側)に斑模様が出ません。大釜にたくさん材料を入れて煮るためには、極力、内樹皮以外のものは省きたいのです。


また、生立木の際に、地面に近かった部分は、形成層が十分に水を吸っていたためかズルズルと剥けやすく、上部=樹冠に近い方は形成層が乾いていて、木部と師部が剥がれづらい、という状況でした。樹木を伐ったのが10時過ぎでしたから、夜間に充分に水を吸い上げた、そのすぐ後、例えば早朝に伐採すると、高い枝でも剥けやすいのかな、そう思いました。



    



中村家の納屋での昼食。トマトやブロッコリー、ウルイの味噌汁でおもてなししてくださいました。そこに、山口一元さんの「六合の幸工房」の「六合納豆」が。大粒で味の良いこと。最高に贅沢な時間を過ごしました。都会の方々がこの「自然に親しみ先人の知恵を知る(地元野菜と山菜のランチ付き)学習会」の存在を知らないなんて、なんて可哀想なんだ、と思います、ハイ。



    


昼食後、作業を再開すると、千代子さんがシナノキ内樹皮を50cm位の束にまとめてくれました。



    


束ねた内樹皮を、沸騰した大釜に次々に入れてゆきます。入れるときは同じ向きにします。



    


灰を窯の中に入れます。千代子さんは火の番を。この大釜は、伊勢崎の方で学校給食に使われていたものを引き取って補修したのだそうです。釜で茹でなくても、温泉に漬ける(ねどする)と1ヶ月くらいで次の工程ができるが、川に漬けただけでは次の工程には進めない、しかし、時期が遅れた材料、つまり水を勢いよく吸い上げている時期を外した、例えば盛夏のシナノキ材であれば、どうやっても樹皮を剥がせられないので、1ヶ月間川床に漬けておいてから茹でないと使えないのだそうです。



    


まだ入りそうなので水を足しておきます。剥き終わったシナノキ木部はこんこん草履作成時の木型をつくるのだそうです。無駄のないこと。





大釜内の煮汁が赤くなってきました。これは、灰を入れたからだそうです。仕上がりも赤くなるそうです。灰を入れるのは、そう教えられてきたからであるが、材料を柔らかくするためなのではないか、とのことです。余談ですがスタンさんも樹皮で紙漉きイベントをやる際には重曹を入れているそうです。



    


全部の皮むきが終わったら材料をつぎ足し、灰をたっぷりと投入します。



    


重りをのせて、灰をお湯に落として混ぜて、さらに重しをのせて…





蓋が締まっていませんが、これで朝まで煮込めばなんとかなる、そうです、楽しみ!



    


根広集落の各家庭には尻焼温泉が引かれていて、中村家の温泉オーバーフローの容器に、余った内樹皮を漬けることにしました。こちらは一ヶ月後に次の工程となります。こちらは、灰は入れていません。また温泉により漂白作用があるので仕上がりは白くなるのだそうです。温泉は最近になって配管されたものなので、昔はもちろん温泉は使っていません。シナノキ材料は全て、お湯で煮ていたそうです。



  


今日の作業が一通り終わったので、中村さんご夫婦にインタビューしました。

  • シナノキは根広や田代原にはほとんど無かったが、紐や縄にするために、みんな野反からこいで持ってきては近所に植えていた。また、植木として売れた時期があった。
  • 野反にはかつて、シナノキは随分あった。縄を作るときは野反まで行って、その場で生立木の樹皮をはがし、さらに内樹皮だけを剥いで背負子に積んで山を下った。
  • 剥ぐときは手に届くような高さにある枝を折って下に引っ張った。若い木の方が剥ぎやすかった。
  • 中村さんの親の時代は生活の中でかなりシナノキ作業をした。子供の頃、雨が降ると農作業ができないので、納屋で内皮のしごき作業を手伝わされた。義司さんの代になり、現役中(林業や議員)はあまりできなかったが、仕事がひと段落してから、伝統的技術を見直すためにも現在はたびたび行っている。
  • オオバボダイジュは根広や田代原にも少しは自生していたようだが、オオバよりもコバ(シナノキ)の方が丈夫な縄ができた。
  • シナノキは萌芽更新するのでは。日あたりによっては10年後位に材料として伐れる程の太さになった。


また、昔の入山根広の暮らしぶりも思い出すままに語っていただきました。

  • 昔は、炭俵の縄を作るのは年寄りと子供の仕事で、子供の頃から縄ないをさせられた。
  • 昭和15年に小学校入学、その後すぐ(昭和16年)太平洋戦争開戦となり、着るものも無かった。
  • 学校の校庭にわら人形が作られ、大人たちが竹やりで敵をつつく練習をしていた。子ども達はその姿が気になって勉強なんてできやしなかった。
  • 履物も服も売ってないし買えない。配給制で回ってくる靴は1クラスに一つか二つだけで、抽選で配られた。
  • 小学校帰りに山に遊びに行っちゃあ、草鞋はダメになってしまい、裸足で帰ってきた。
  • 旅行があったが、履物がないから父親の地下足袋を履いてきた友達が何人かいた。
  • 根広の子供は入山分校に通ったが、天皇誕生日など、特別な式典がある場合は小雨の本校に呼び出された。砂利道で片道2時間はかかった。その際には草履をもう一足持って行く。履いていった草履は帰りにはかかとが破れてダメになり、持っていった草履に履き替えた。
  • 荷付場の諏訪神社のお祭りは昔は賑やかで、出店も多く、草津からも人がたくさん来ていた。根広からもみんなで出かけ、神社のあと、草津まで遊びに行ってから帰ってきた。
  • 子供の頃は、長野原の祭りにも行った覚えがある、養蚕神社?
  • 病人が出たら、病人かごに入れて交代で草津の病院や楽泉園に連れて行った。病人かごはねどふみの里資料館の2階にある。
  • 千代子さんの妹は、はしかにかかって死んだ。草津の病院の帰りに息絶えてしまった。
  • 昭和16年〜17年は、はしかや赤痢で、このあたりで十数人の死者が出た。病人にフルーツを与えてやるために、どどめ(桑の実)を採ってきては食べさせた。


いろんなお話を聞かせていただいたおかげで、シナノキ縄を使っていた時代の生活の様子を思い浮かべることができました。これでますます、気持ちを入れて明日からの学習会に取り組めます。


竈の火は、中村さんご夫婦が夜間、見ておいてくださるそうです。助かりました。大雨の予報ですが、上手に煮えてくれますように…






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