変えことのできるものと、変えることのできないものを識別する知恵

いつの頃だか忘れてしまいました。ある本の読んでいた時、「キリストの教会には解釈(トランスレイション)はあっても変革(トランスフォーメイション)がない」との表現に出会いました。大変驚くと共に、残念ながら納得する自分がそこにいました。聖書の解釈をできるだけ間違わないように務め、そして説教を準備し、語ってきたつもりですが、果たして教会に変革が起こったのかと問われれば、自信をもって答えることができません。それは、いい加減に語ってきたと言うことではありません。それなりに誠実に、自らの持てる力を込めて語ってきたにもかからず現実がともなっていないと思えるからです。
 そんな時1934年の夏、ラインホールド・ニーバーが小さな教会で説教した時に語られた「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないもについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」という言葉に大きな感動を受けると共に大変慰められ励まされました。解釈ではなく変革を求めながら、変革を促すことができない現実を目の当たりにすると、深いため息しか出てきません。が、ニーバーは勇気と冷静さそして「変えることのできるものと、できないものとを識別する知恵を求め」るのこと大切さを教えてくれたからです。
 旧約聖書第1サムエル記23章17節に「恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。私の父サウルもまた、そうなることを確かに知っているのです。」とあります。ダビデのいのちを狙うサウル王は王位継承者は息子ヨナタンではなく、ダビデであることを知っていました。しかし、サウル王は神のみこころを知っていながら、これに従おうとはしませんでした。あくまでも王位継承者は息子ヨナタンであると固執しました。これでは変革はありえないでしょう。変革はみこころに従うことによってのみ可能だからです。知った事に生きることなしに変革は起こらないでしょう。
 人が人を変えることには限界があります。しかし、変革を求めながら変革できないものを識別する時、変革できない現実を突き破って神に向かう信仰が芽生えきます。そこに大きな慰めを見出すことができ、言いようのない安心が生まれてきます。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ロマ7;24)この絶望こそ勝利者であるキリストへの信頼へと向かわせるからです。
「 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(ロマ7;25)