デザイナーズベイビーと存在していることに対する愛

秋津君の病気が子供に遺伝する確率は、1割弱らしい。というか、ダウン症検査はしていない。

5体満足で生まれてくれたらな、という思いがあるのは認めるが、別にそうでなくてもしょうがないかなっと。

ツイッターを見ていたら、2人目以降はダウン症やったら兄弟が可哀そうなので、検査する、という意見もあった。

一人目がダウン症でも、二人目以降が助けてくれるので、もっと産め、の鴨ちゃん理論とは真逆だな。

うーん、僕は病気をしたので、人生が思い通りにならなくても受け入れることを知っている。

それにも程度があるっていうのも分かるし、将来、投げ出したくなることもあるかもしれない。

でも、銀の匙を加えてくる子が少ないというか例外で、不条理がない人生なんてありえないことは実感がある。

思いどおりにならない人生である。多かれ少なかれ認めがたいことを受け入れなくてはいけない程度の差である。

不条理の分からない人の生息域は狭く、(コミュニケーション強者は強者とだけしか付き合えない?)、傍から見て、楽しい人生かなーと疑問にも思う。

本を読んでいると、本を読むこと、考えることを職業にしたかった、病気をしなかった人生を考えることがないとは言わない。

でも、妄想に浸るのは楽しいが、時間の無駄でもある。


人生を計画しようとしても、そうならないことはよく分かる。

で、かわゆい子が欲しい、と思って、確率の問題だと思って、外れてもいいからと投資して、実際にそうはならないガッカリ感と、

何もせずに外れた(?)ときのガッカリ感は違うのだろうか?

努力して志望校に落ちたガッカリ感と、何もせずに落ちたときのガッカリ感で言うと、何もしなかったら、ま、当然だな、で、努力しておけば良かったかなというか、棚ぼた人生で愉しいのか?

いや、自分のことで努力するのはいいけど、子どもの設計に抵抗があるのは、倫理観で引っかかるのか?

愛するってことは、存在を愛することか、属性の束を愛することか。

僕のテーマの一つに、「昔の愛で現在の惨状にどこまで耐えなければいけないのか」というのがある。

これは条件で考えていることで、存在を愛するというのは嫌な面も含めて(多かったとしても)愛することで、そんなの親子の情でしかあり得ない、夫婦でも無理でしょ。

僕は親に愛情を注いでもらって、その有り難さが分からない気味ではあるが、人が存在を愛してもらえる、一番確率が高くて唯一になりがちなのが親子の愛だろう。

子どもに条件を付けるのはどうか。

って、僕は子供に勉強を教えるのに冷静になれない親の情というか、幸せになってもらいたいという親の切なる願いを否定する気もないが(と弱気)。

ま、僕は無償の愛を注ぐのに、親が選択した事実があったら支障があるかなと思うので、したくない派かな。