「忘れる技術」で忘れられた訳では無いけれど


「忘れる技術」(山田霊林著)を題名にひかれて買ってきました。
その頃どうしてもどうしても忘れたいのに、忘れられない事があったので。
忘れる技術。
本当に忘れたい事を、すぐに忘れられたらどんなにいいだろう。
……でも、それだと成長もしないかな。
それでも、何らかの成長を阻害する程にインパクトのある出来事は、確かに害になるような気もします。
とか書いてると、「MIND ASSASSIN」(かずはじめ)を思い出したり。
で、この本は、「禅」の思想に基づいて書かれています。私は禅の思想は何となくしっくりくるので好きです。

印象に残った所を抜き書きしてみると、

「角を矯めで牛を殺す」とは、そのことです。
牛の角をゆがんでいるから、まっすぐにしてやろうといって、角を直したりすれば、牛は死んでしまいます。それと同じく、行儀が悪いといって、法律だ、道義だと、いろいろ鋳型を作り、人間をその型の一つにはめこもうとすると、人間はその清新さ、溌剌さを失って、ぎすぎすした、融通のきかない冷血漢になりかねません。
自分自身はしっかり規律を守り、秩序正しい生活をしつつ、他人に対しては、ゆったりと、人間味豊かにほほえみかける。
そういう人でありたい。そういう人のいるところは、つねに物事が順調に進み、明快健実です。p134

曾呂利新左衛門の作だという狂歌があります。「天と地を団子にまるめ呑むやつを、まつげのさきで突き飛ばしけり」とあります。
大きいごとくにして大きいと言いきれず、小さいごとくにして小さいと言いきれぬのが、人間の一瞬一瞬であります。
――p88

すばらしい人間関係は、人生をなにもかも、すべて味わいつくした、いい「おじいさん」のなかにあるように思います。すばらしいおじいさんというものは、孫がいっしょに遊んでほしいといえば、いっしょに遊びます。


また、どんないやな人間が出てきて、何を言おうとも、それには頓着しない。悠然としている。といっても、刺激に対して無感覚なのではない。無感覚ではないが、それによって沈まない。新しいゴムまりは、どんな刺激を与えても、いつも弾力的な調子のいい在存です。ところが、古くなったゴムまりは、すぐへこんで、じつに不愉快です。しかも、もとへもどらないのです。いつも清新溌剌として、新しいゴムまりのような弾力性のある人間でありたいものです。
――p154

この本は、実際に「忘れる技術」がシステマチックに書かれているわけではありません。
すでに修業を積んだ凄い禅の大家の体験談がいくつか出てきて、読んでいると、スケールがもう……違います。毎日繰り返しにある事さえ忘れているし。
だから私の忘れたかった事もそのままなんだけど、いつか何とかなるだろう、くらいにゆったりとした気持ちになれました。