• 洗濯物を干して、バディウの『愛の世紀』を読む。久しぶりに読み返してみて、とても面白かった。
  • まず「出来事」がある。「愛は、結局のところ世界の内部に生じるからです。それは、世界内の法則によっては予測も計算も不可能なたったひとつの「出来事」です。何ものも出会いを計算づくでセッティングすることはできません」。そして次に「点」がある。「「点」とは、そこにおいて「出来事」が再び至近距離から把握され直すような特殊な瞬間です。あたかも「出来事」が移動され、変容されて再来したかのように、そこにおいて再び生きなければならないような瞬間」であり「「点」とは、それが政治であれ、愛であれ、芸術であれ、科学であれ、真理の構築の諸帰結が、あなたが「出来事」を受け入れ、それを宣言した最初の瞬間におけるように、根本的な選択をやり直すようにあなたに強いる、そんな「瞬間」で」あり、「「わたしはこの偶然を受け入れ、望み、引き受ける」と新たに言わなくてはならない」。つまり「ひとつの「点」からもうひとつの「点」へと移動する生成過程がある」。ここで重要なのは「生成過程が通過する「点」としての試練を目的と混同しないこと」で、「目的とは、差異の観点からひとつひとつ「点」をたどりつつ世界を経験すること」なのだ。だからバディウは「愛がシークェンスをなす反復進行的であるということを」認め、「愛はひとりでに展開するものではないということです」と述べる。たとえば「偉大な絵画とは、それ固有の方法を用いて行なわれる、表彰されたものには還元不可能な何かの把握なのです。潜在的な「出来事」が表象に穴を開けるのです」。そして、「愛とは、「出来事」が生存に穴を穿ちに来る、そんな瞬間」であり「いくつもの「点」を経由して根気よく進められる真理の生成へとこれを導かないのならば、奇跡はシュルレアリスムの詩の領域に留まってしまう」のである。
  • 柚子が帰宅してから出かけてシネマ神戸でカール・Th・ドライヤーの『吸血鬼』を見る。明るい靄のような夜の闇が、半透明の青年の挙措が、猫と話すような声の娘が、とても美しい。

  • 夕食はスパゲティを茹でて食べて、元町で買ってきたケーキも柚子とふたりで食べる。先日聴いてみてとてもよかったダネル四重奏団の旧盤の録音で、ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲《第5番》を再び聴いてみるが、やはりよい。続けて二度聴いてから《第1番》も聴く。フランク・ステラが亡くなった。「ブラック・ペインティング」で止めずに空間に突き出す絵画まで進んだステラは、本当に偉大な美術家であり続けたと思う。

  • 柚子と待ち合せてシネリーブル神戸でマルコ・ベロッキオの『エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命』を見る。仕事帰りなので誘拐されてから少しうとうとしてしまったが、まるで小細工のない映画で、JLGの『奇妙な戦争』と同じショスタコーヴィチでがんがん盛り上げつつ、解説字幕も画面の半分ぐらいにどーんと入れつつ、いい場面が次から次にやってくる。スカートの中に入るエドガルドに、ベルトルッチの『ラストエンペラー』の溥儀の紗幕を思い出す。とても満足して、ミント神戸でパスタを食べて帰宅する。洗濯機を回す。