吉田アミの日日ノ日キ

吉田アミが書きました。

共感しなくちゃならないのかな?

 ふつーに不思議に思うんだけど、なんか見たり聞いたり人とのコミュニケーションにおいて共感ってそうするもんなんだろうか。私はほとんど他人に共感することはないような気がしてきた。共感しないでも相手の意見をああ、そういう意見あるよねーとは思うが同じ気持ちになるというのはない気がする。「確かにそうだけど、でも、〇〇だよね」みたいな言い方をすることが多いよな。これってどんなサブカル脳?ようするに天邪鬼なだけだが、「わかるわかるうんうんー」みたいなノリは苦手なんだよなー。なので、たまにものすごく、ぴったりな人がいると盛り上がる。私が今までもっとも盛り上がった話の一つで、子供の頃に小麦粉を練って粘土のようにして、パンのミニチュアを作り続けたというものがあるが、その時の気持ちは共感以外のナニモノでもなかったなあとか。共感は大切だけど、共感「だけ」が大切なわけじゃない。違和感も同じで大切だし、違和感「だけ」が大切なわけじゃない。いつでも世界は矛盾している。こんにちわ世界。

 とか思って昔なんか書いたなーと思って読んでみたが今もまったく同じ気持ちだ。なので、貼っておこう。

http://d.hatena.ne.jp/amiyoshida/20030825/1061804593
まあ、この日記とかと関係のないところもあるがおおむねそんな感じ。これは私内ルールなので他の人がどういう心持でやっているか知らないし、興味もない。みなが別々の方向を向いてめいめい勝手にやっていればよい。無理に仲良くなんかなりたくない。たまたま気が合えば仲良くしたいけど。好きな人には好かれたいが嫌いな人には嫌われるか、放っておいて欲しい。私もそうする。お前の考え変えてやる!とかいう傲慢な態度もイヤ。

一人一人の生い立ちも人相も性格も違うように心の琴線はそれぞれが持っている。同じであっていいはずがない。千差万別。十人十色。人の日記や文章、リンクなどに触発されて、それを切っ掛けに妄想したり、考えたりするのは、アリだと思うし、ドンドンやればいいが、出発点は同じでも終着点は別々じゃないと私は面白くない。時には「あ、きみとは同じゴールに来ちゃうねあははは」もあってもいいと思うけどあんまりそういうのが多すぎると途端に飽きてくるし、この担当は君に任せた!よろしく頼むよ!と勝手に私は任せてあさっての方向へ走り去ってしまいたい。任せられた人はもちろん委任されたことさえ知らん顔だと思うが、私は勝手に任せているよ。思考の分担作業。思考の合理化っすよ。

おんなじネタでも切り口が違うもの、今までにない新しい発見、まさかそれがそうなるとは!と驚かさせてくれる人がダイダイ大好き!それが私の中にまったくない要素だとますます興味津々。共感するばかりでは傷をなめあって精進しないもんである。そういう停滞しきったぬるま湯に沈殿していくのはうんざりだ。居心地が良くなってくると私は途端に不安になってどこかに逃げたくなる。もちろん時にはとどまることも大切だけど私はどっかに行っていつもびっくりしたり感動したりしていたい。そんな風に思う。

それに自分の思考が誰かの思考になりかわっているかも知れないという胡蝶の夢幻想が常にあるので、私はちょっと思考が似ていたり共感してしまう文章を読むとうれしい!この人わかっているなあーと思う反面、心の奥底で恐怖感が芽生える。殺意が芽生えることさえも・・・。好きなものが似ていると考えが似てきてしまうけど、あんまり似てくると気味が悪い。ドッペルゲンガーを見れば自分は死ぬというし、この人の存在があるなら私はここにいる必要はないのではないだろうか?それは存在恐怖となって襲ってくるという根っからの前衛体質である。隙間産業と言ってもらってもいい。これは即興音楽をやっている弊害かも知れない。音がかぶらないように、とか、誰かの音に反応しないようにとか音に意味を持たせないように、とか考えているからなあー。そんな美学にのっとって私は人生を生きていますよ。

明日になったらとつぜんあきてなにもかもすててしまいたくなったりまちがえてえらいめにあったりすればいいすればいいんだ自分などは所詮、それっくらいのみそっかすで十分なのだ。

私は人は100パーセントわかりあうことはできない、と絶望したところからはじめるのが相手を理解する唯一の方法であると思ってる。それ以外の方法は洗脳か勘違いか幻想でしょう。

ひょうひょうと誰にも取り込まれることなくどこか世界を拒絶していきたい。こんなややこしいひねくれた人間をわかってくれる人なぞ、相当、慈悲深い人でなければ無理だ。やすやすとわかってもらいたくなんてないけど。理解されるとたぶん、死ぬ。さようなら。

 絶望からしか希望は、はじまらないのかもね!