新作CDについて

先日2枚組CDを2種出版した。
例によってややこしめなコンセプト文はバイリンガルで載せてあるが、もうちょとぶっちゃけた話を書いておこうと思う。
今回の2作は自分にとって少し制作が進んだ感のある作品と認識しているので、その理由をなるべく理解してほしいと思うからである。
まずは「The Temple Recording Toshiya Tsunoda」から。

これは海外でインスタレーションのような形で去年から数回発表している。
録音は3年前のものだ。
作品の発端はずいぶん昔に遡る。

中学校の時、親友たちと近くの海でよく日の出を見に行ったが、その時、一緒に見ている色彩が果たして同じように体験されてるのだろうか、という思いが頭をよぎった。
生まれた時から赤が青く見えていたらどうやってもお互いの体験は比べることができないだろう。当時は脳を入れ替えたり眼球を入れ替えれば分かるだろうと話し合ったが、
恐らくそれでも無理だろう。体験の積み重ねが感覚器や脳に既に働きかけ形作られているから、そう簡単にはいかない。
作品のルーツはここにある。それともう一つ。
これも高校時代のものだ。友人たちとマネキンの首をちょん切って、バイノーラルマイクを作った。そのマイクでステレオ音響の定位に関心が湧いた。
空間に包まれるような聴こえ方は一体どういうことなのか。
体験を想起させる音響体験とは何か。体験と場所を別々に分けることはできないのではないか。

体験はその人固有のものだから、二人で同じものを同じ場所と時間に見ても同じ印象を受けているとは限らない。
同じ風景を見ているとき、恐らく他人も同じ体験が生じているだろうと信じるしか術はない。
そこで、或る風景を前に、二人でひとつのステレオを作ってみようと考えた。
風景を一緒に見ている体験の記録なので、そこに居る、身体の音が入ったほうがいいと考えた。
そこで、聴診器に小型エアーマイクを仕込み、こめかみに固定し録音。
マイクは筋肉や血流の振動を拾うだけでなく、周囲の環境音も入る。
左右のこめかみマイクはレコーダーの左右のチャンネルに振り分けられる。
この録音は拡張されたステレオ音響かもしれない。
また、何でも風景に成り得る。それは向き合った時に形作られるものだと思います。
これは風景が体験されている間のフィールド録音だと言えるだろう。
上記の疑問などを考慮に入れたらフィールドは場所を指すだけの意味に留まらない。

この録音はヘッドフォンで聞くことが適しているかもしれない。
拡張されたステレオである。
作品の内容は保証しない。感覚的で面白い音響を作ろうと思って行った作品ではない。或る場所が風景が体験されている間の記録。異常な録音であることは間違いない。
一つのステレオ音響を二人で作るということ。
それをステレオと見なせるのは、オーディオシステムの助けを得ている訳だが、実際、ここに超越的な視点は成り立つだろうか。
これをパフォーマンスにして人前で実演したら、作品は先の「視点が成り立つか」という疑問に収斂して、録音作品とは別の意味を持つだろう。
ジャケットとフォトカード2枚の撮影は坂田峰夫である。

2枚組になっているが、もう一枚のCDは以前椎木静寧氏のキュレーションで行われた「きこえないおと」展(TALION GALLERY)で頒布されたCDを追加した。
つまりもう1枚のCDはPreviously Releasedである。http://d.hatena.ne.jp/anatema/20120624
これは椎木さんの知り合いの画家とその友人によって一つのステレオ音響を二人で作ったものだ。
先に書いたこめかみ録音と設定は同じである。
こちらには5つトラックがあるが、二人で自分にしか聞こえない音でハミングをしてもらっているものがある。
(音程はギター用の音叉を基準にしている)
その意図は、二人を彫刻のように考えた結果である。
展示では椎木さんの撮影した写真が展示されたが、今回のパッケージ化に際してA2サイズのポスターを作った。
これは単なる宣伝ポスターではなく、作品の一部と考えている。
ご覧いただければ分かると思うがポスターの中央で折る訳にはいかない図像だ。

筒や箱に収めほしいところだが、海外の郵便事情は劣悪でポストに入らないとそのまま放置されてしまうそうだ。
残念なことに海外ではポスターの流通は難しい。そこで国内限定と相成った。
ポスターの代わりに小さいカードを作って挿入したが、ポスターと比べると明らかに見劣りする。
部屋に貼る貼らないは別としてポスターを見てほしい。
しっかりした紙の悪くない印刷である。

300枚のプレスCD、3枚のフォトカードとポスター付、店頭では2000円くらいだろうか。

O KOKOS TIS ANIXIS  Toshiya Tsunoda

フィールド録音を部屋に持ち帰って聴く。自分は何かを探そうとして聴いてしまうが、同時にその録音に対してどのような意見が提出できるか考え始める。
何かしら注目することが見つかると、それが録音のテーマのように見え、他の録音を思い返し、共通点を探り出す。
昨年からマイクを大幅にグレードアップしたものに交換したせいか、細かい音やはっきりしない響きに注意が行くようになった。
フィールド録音を作品として出すとき、偶発性の問題が出てくる。そこで何が起きるかコントロールはできない。
音楽的な意図をもって変更する作家がいるが自分にはできないことだ。それよりも自分が何にどう注目しているか示したほうがいいと考える。
そこで、今回は各録音にその場所の特徴を表す小さな出来事に注目し、
それを繰り返しループとして録音素材を中断するように挿入してみた。
一瞬を繰り返してみると、偶発性が余計に意識される。
作品解説文に「私たちは録音の現場で起こる偶発性を操作できない。そこに寄り添うように関わるしか成す術がない」と書いたが、まさにそのようにそこで注目したポイントに焦点を当ててみた。
つまり作り手が構成を考えるのではなく、その偶発性に従って私が注目している部分を強調してみた。
したがってこれはトラックの長さや全体のバランスのような視点でループを挿入したものではない。注目した出来事が起きた時にそれを行った。
唐突にループが入るのでリスナーはCDがエラーしていると勘違いするかもしれない。
リスナーは唐突に流れを分断する不可解な音響に出会うだろう。一瞬に物凄い密度があることが理解される。その一瞬が連続しているのだ。
ここに収録された録音は2012年の3月から6月の間に行われた。
春の音。ただそうであるだけで凄い気がしてしまう。
私が各トラックで注目したものを列挙する。
disc 1
1.小さい木の実が風で揺れて草叢に落ちる音
2.鶯の鳴き声のシーケンス
3.山寺の境内の出来事
4.徐々に暮れゆく空き地に響く音
disc 2
1.祠のトタン屋根に落ちる枝の破片
2.風で枝が擦れて生じる一瞬の高い音
3.池とその周りの出来事
4.漁師の焚火の爆ぜる音

タイトルはギリシャ語で「春の粒子」。
数年前から中世や古代の哲学を読んでいて、その創造性に興味を持っている。
今回はアトミズムのようなものを風景の中にいて感じたのでギリシャ語にしてみた。
この2枚組CDは2枚とも72分以上収録されている。パッケージの裏には英文のコンセプト文があるがケースの中には日本語訳を入れている。
300プレスCD。
こちらは1700円前後ではないだろうか。




いずれの作品も水道橋のFtarriと高円寺の円盤に置かれている。
近々TALION GALLERYとl-e大崎にも置いてもらう予定。
海外はErstwhile RecordsとMetamikineに出しているがTemple Recordingにポスターは付かない。