ラテン音楽は座禅である。

ああ今日も変な訪問者が来たりせんやろか。憂鬱や。まお来たら来たでテキトーに行こか。いやテキトーに行けそもない…。んな感じだ。当たり前の話だが面白くないことがあると次の日まで気分が悪いし体が疲れる。そんなん感覚が何日も抜けないこともある。どんな出来事のダメージになるかは後になってみないと解らない。どうやらタチの悪い訪問者が悩みのスイッチになっているのは間違いなさそうだ。でも悩むのは出来事のせいぢゃなくホントは煩悩のせいだ。自分ぢゃ把握もコントロールもできない煩悩の動きに苦しむ夜なんざぁ体も重いし呼吸も乱れる。そんな時にゃ座禅をやると見事に体も呼吸も軽くなる。でも煩悩がキツすぎる時は正直に言えば座禅も無力だ。そもそも座禅に入れない!んな時ゃあ六弦琴でテンションを変えないと座禅にも入れない。あの琵琶の名手でもあった鴨長明が琵琶を弾いていたときの心境なんざぁ今の当方には窺い知れないが確かに音楽は座禅に劣らず憂いを除き雑念を払うのには役立つようだ。特にラテンはリアルに効く。。同じ音楽のドライブ感なら聴いているより演奏で興が乗ってきたときの方がインパクトが大きい。あのトランス的で
エクスタシーな意識状態は一種の瞑想的変性意識の現れなのかも。実は座禅の途中には音楽だけでは到達できない特殊なドライブ感なんかが体験される。これを抜けた辺りには浮遊感とかや融解感みたいなのが待っている。気持ちいい。その先には座禅さえ必要としない無我とか無心とかいう伝説の境地があるよな予感もする。それまでは音楽やら座禅やら修法やらのチカラを借りていこう。

雑念を分解する

禅では雑念が湧いても放っておきましょう雑念は起こるままに任せましょうと教えるが実際に何をすればいいのか解らない。それを自分のチカラで掴んでいくのが禅なんだろうが当方みたいに気の短い面々には観の知恵を借りて雑念を分解処理するのも悪くないだろう。雑念を分解する作業にはエーリッヒ・フロム式の夢分析の基本手順が有効か。フロムは夢を通じてクライアントの最近の心境を調べ次に幼少時の体験から類似の心境を探し出す。フロムの見解によると夢は言語化できない自分の心境の現れだと言われる。分析によって言語化できた今の心境は実は表面的なもので根底には幼少時の切実な感情が隠れていると捉えた。観では夢を媒介にするのでなく雑念そのものを詳しく観察しフロムの夢分析と同じように雑念を構成している今の感情や欲求に分解し忘れていた昔の心境へと降りてゆく。このとき自分の心が遠い過去の膨大な記憶にも左右されていることも実感するだろう。そして雑念の構造が掴めると雑念は自然に分解してゆくようだ。この段階を過ぎた後に現れてくるのが独特なドライブ感や浮遊感や融解感だった。やっと見えてきた世界は座禅の奥座敷なのか入り口な
のか。もしや迷い道なのか。