『心にナイフをしのばせて』2

先日のエントリの続き
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20061125/1164468671

サレジオ学園で起きた寮生同志の事件。この加害者の鑑定書を読むと加害者が突発的に切れて犯行に及んだことが判る。もともとそうした癇症を持ち合わせてはいたようで、いわゆる「切れる子」だった。
彼がいじめを受けていたとされるそれはどのようなレベルのものだったか判らない。いじめを受けて刃傷沙汰に及ぶというなら有名な浅野内匠頭の松の廊下なんぞが有名だが、耐えがたきを耐えて怒りの暴発ってのは、庶民的な英雄物語によく散見できる。
寮生活という逃げ場のない世界での環境がどういうものだったか判らないが、こういう観点で見るなら今のいじめ問題にも通じる事件ではあるが、とにかく件の書を読む限りに於いてはそれらは問題ではない。前エントリで書いたように、あくまでも被害者家族の苦しみの生活が中心だからだ。

被害者の父親がカトリックに帰依したことで、なんとか悲劇を克服して生きているように見えるのは何故か?おそらくかなりぎりぎりの精神で生きていたことは書からも伺える。母親と違って父親が壊れずにいれたのは何故だろうか?
これがrice_showerさんの疑念だった。
先日回答したことのほかにもう少し考えてみたのだが、キリスト教そのものが「息子を奪われた母の物語」を内包しているからとも言えるし、福音書は「なんだか思想犯として、世間をお騒がせしてしまった罪で理不尽に刑に処されたある男の物語」でもあるわけで、それは弟子達や家族からするならば「突然に大切な存在を奪われた」ということだったり。
キリスト教の固有性があるとするならまさにそこに尽きるのだが、とにかくまっとうな死に様ではない。ブッタともムハンマドとも違う。しかも弟子にまで見放されている。とにかく惨めだ。名誉もなくどん底で死んだ男がいるだけだ。
だから、苦悩にあるとき感情移入しやすいモチーフがある。そして過去のキリスト者たちがその苦悩を何度もなぞりそれぞれの人生に照らして考え続けている。そういう不条理な人生の悲嘆の重層な歴史があったりするので、同志が過去千年以上に渡っているようなものともいえる。ある意味不条理な悲嘆に強い宗教ともいえる。
翻れば、神はナニもしない。イエスの十字架にも手を差し伸べない。隣にいる悪党にまで嘲笑される。ここにおいて父なる神は沈黙していたといえる。沈黙する神に対するイエスの「信」は痛々しいとも言える。
だからキリスト教は子の父なる神と子なる神の関係性を追及してきた。そしてこの物語があるからこそ「人として生きる不条理さ」をわれわれはどこかで知ることにもなる。正直、すっきりしないような話が異常に多い福音書は、小説としてみ読むなら破綻が多く矛盾も多いがそれが人間の性の営みに通じるともいえるので、個々に感情移入しやすい要素があるだろう。

被害者の父親が福音書に何を読み込んだかは知らない。
カトリックの祈りの中にゴルゴダの丘までの道行きをなぞる祈りがある。あるいは「ピエタ」と呼ばれる母マリアの悲嘆を描く像がある。有名なのはミケランジェロピエタだろう。親が無くした息子を嘆くに、これほどまでに美しい像は見たことがない。母の悲しみは浄化され神の手に委ねられる。
わたくしもまた友人が死んでのち、ピエタをモチーフとした絵を描いたことがある。150号ぐらいの巨大な絵だった。描かずにはいられなかった。それを描くことで友人の死を克服しようとした。その絵を買ったのは、癌であとわずかの命とされた若き画商だった。
彼が何をそこに見ていたのか知らない。