微妙な違和感

女子選手は男性指導者のセクハラ行為に寛容−。こんな調査結果が、熊本大でこのほど開かれた第21回日本スポーツ社会学会で発表された。県内でも後を絶たないセクハラ事件の背景について研究者は、「一般社会と懸け離れた考えが醸成されている可能性がある」と、選手側に人権意識が十分に根付かない環境を問題視する。
(後略)

記事で紹介されている研究も―報道されていることから判断する限り―尊重すべき問題意識にもとづくものであろうし、その研究を紹介した報道にも敬意を表したいと思うのだが、どうにもひっかかるところがある。具体的には「女子選手は男性指導者のセクハラ行為に寛容」であるとか「セクハラ被害は小中学生時代から受ける可能性もあり、早くから選手側へ人権意識を育む必要がある」といった表現。本来許容すべきでないことまで許容するのを「寛容」と表現するのはおかしいだろう。また、被害者であったり被害者足りうるスポーツ選手が同時に後輩に対しては加害者であったり、将来指導者になった時に加害者になったりすることはあり得るという観点からは「人権意識を育む必要」があるというのはもっともだろうが、この研究及びこの記事の文脈で考えるなら「人権意識を育む必要」があるのは指導者の方であって、選手に必要なのは「嫌なことを嫌と言えるためのエンパワーメント」ではないのだろうか。
もっとも、これはこの記事を書いた記者の問題というより、この種の問題についてきちんとしたボキャブラリーを持っていないこの社会の問題であるのだろう。「エンパワーメント」なんて、まだまだ熟した言葉とは言えないし。