でぃーう゛いでぃー
くるいざきさんだーろーど、きんぐ・こーん、わらいめしをみました。
ほんじつさいしゅうび
きょうでえんばんなつやすみぼんさいてんはさいしゅうびです。
きょうはあさねりまくびじゅつかんのふなだぎょくじのてんじをみました。すうてんですがまるきいりのさくひんがあり、そういえばせんじつわたりうむでかいさいされていたちんぽむてんにもてんじされていました。やはりぱんふれっとにものっているやみあがりにかいたじがぞうはとてもはくりょくがありました。そのあととしょかんでぜんえいのいでんし、あーもりーしょうものがたりなどをよみました。
うちあげでのわりとくだらないはなし
うちあげではすずえりさんとしゃりんのかたがたとせいさんとわたしの5にん。すずえりさんは「わるいものもいいものだうんどう」ということをやろうとしているというかちょっとやっているらしく、どうやらそれは、わるいものはいいものだ、いいものもいいものだとおもえばすべていいものになるのでそれでいいじゃないか。ということらしいです。すばらしい。
そしてのみかいらしくはなしはそれてしまい、おみせでおつりをもらうときにじぶんのてのしたにてんいんがてをそえてくるのがいやなので、じぶんのてのこうにがびょうをいくつかさしておいて、てのひらに「てのこうにがびょうがいくつかささっています」とかけばそういうことはなくなるのではないか、そうではなくてとれいのようなものをもっていき「これにいれてください」といえばてをふれずにすむんじゃないか、そのとれいはおりたたみしきでむねぽけっとにつねにいれておきたい、しかしそこまでするならむしろそんなものいらないのでこのままでいいのではないかというはなしなどをしました。
またじかんがきてしまったのでこのへんで。
えんばんへめんてなんすへ
さぶうぇいでしょくじをしてからいちどえんばんにいってぼくのさくひんのめんてなんす。いちにちいっかいはめんてなんすをしないといけません。そしてばいとへいき、よるはえんばんのいべんとへ。まーく・さっどぐろぶさんとしゃりんのかたがたのらいぶです。まーくさんはりょうしりきがくのけんきゅうもおこなっているおんがくかで、いべんとによんだりきょうえんしたり、しん・ほうほうのきこうしゃになっていただいたりといろいろおせわになっています。しゃりんはちょっとまえまではしゃりんのさいはつめいというなまえでかつどうしていたのですが、うちあげではなしをきいたところ、「しゃりんのさいはつめいではなまえをおぼえてもらえないのでもうしゃりんだけでいいや」ということでなまえをかえてしまったらしいです。しかし、しゃりんのさいはつめいもしゃりんもそうですが、なんでこんなにぐーぐるでけんさくしにくいなまえにするんだとおもいました。このひはざんねんながらまーくさんのらいぶをみることができませんでしたが、しゃりんのらいぶはとてもおもしろかったです。おとのしゅつりょくがしんぷるなので、おとがなまにちかい。
ぎんざのえこあんへ
ないとうようこさんがてんじをしているてんらんかいへいきました。7がつ23にちから30にちまでぎんざのえこあんでかいさいされた「わたしのなかのこいずみやくも」てんです。
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わたしの中の小泉八雲 http://echo-ann.blogzine.jp/blog/2012/07/post_d3bf.html
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ちかてつぎんざえきのc8ばんでぐちからみえるさぶうぇいのとなりのびるのさいじょうかいです。へやは4.5じょうくらいのちいさなへやに7にんのさっかがひとりいってんずつ、それぞれのなかのこいずみやくものしょうせつからいめーじしたさくひんをてんじしていました。にほんがふうのものであったりさいみつがてきなものがおおく、とてもみごたえのあるさくひんばかりだったのですが、ひとりだけかくめいでもおこそうとしているのではないかというさくひんがありました。ないとうようこです。これだけあかとくろのはんがで、15x10せんちくらい。とりあげたさくひんは「むじな」。
ぼくはおさけがのめなかった
このひはこうえんじからくらまえまでばいくでいき、かいどうさんのいえのちゅうりんじょうにちゅうしゃさせていただいていた。そこからやひろまでちかてつでむかったので、ぼくはさけをのむことができなかった。