京都議定書

二酸化炭素による地球温暖化に関する昨今の状況は、いろいろな意味で考えさせられる。

まず第一点は、判断する課程の問題だ。先日、「京都議定書」が発効となった。それを報じる新聞によると、NGO 団体のメンバーが着ぐるみを着て市民に訴えていたようだ。その姿の写真が掲載されている。その事自体を否定するものではないが、科学的な判断と、感覚的・道徳的判断とが混在しているとしたら、それはあまり良いことではないように思う。例えば、「地球を大切にしよう」「地球にやさしい」といった表現について考えてみよう。このような表現を普及させることは、次の二の点で問題だと思う。まず、このような感覚的な表現は問題の本質を隠す危険がある。環境の保全は、別に「地球にやさしくすること」が目的ではない。実は人間自身が継続して生存するために必要なことなのだ。自分自身のための行為を、あたかも他者に対する厚意のように表現することは、科学云々以前に、道義的にも問題がある。次に、好き嫌いが判断基準に据えられていることも危険だと思う。本来、「こうするとこうなって、みんなが困るからこうしよう」となるべき話を、「地球が好きだから、地球を守ろう」と、好き嫌いを判断基準に据えてしまったとしよう。すると、環境破壊する人に対して、いくら説得しても、「僕は地球がきらいだから」でオシマイになってしまう危険がある。子供がゴミをポイポイ道に捨てるのも止められないだろう。大袈裟に言えば、論理的・社会科学的な判断を、きちんと説明して、市民を説得すべきだ。

次の点は、科学と市民との解離の問題だ。実はまだ、人間活動に伴う二酸化炭素の排出が、地球温暖化の理由であるとする論拠は無い。無いから嘘だと言っているのではない。まだそれ程分かっていなのだ。確かに、理屈の上では、二酸化炭素を増やせば温暖化は進むだろう。しかし、温暖化が進んでいるから二酸化炭素が増えているのかもしれない。温暖化が進むと、海洋が二酸化炭素を出す傾向があることも分かっているのだ。一方で、温暖化の理由はいくらでもある。太陽定数の変化や、絹雲の量などによっても地球の気温は容易に変わる。とても、「人間活動に伴う二酸化炭素の排出が温暖化の原因である」と断言できる状況ではない。もしも、将来、「人間活動に伴う二酸化炭素の気温への寄与は極めて小さい」ということになったら、人々はどのような判断をするのだろうか。恐らく、「科学は狼少年だ」論に発展し、科学不用論へも発展しかねない。この点も二重の意味での危惧があるわけだ。つまり、科学的な論拠がはっきりしないことへの人々(あるいは政府)の盲信と、それが誤りだと分かったときの科学への不信を増長させる点と。

いずれにしろ、色々考えさせられる。

LCP を passive に

Debian GNU/Linux京ポン AH-K3001V を使ってデータ通信する話。やはり時々ハングアップする。そこで、/etc/ppp/options の passive を有効にする。ここまでのノウハウをまとめると、次のようになる。