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プログ

2010-08-21 光画が出来るまで①

iPhoneアプリ、新約・北風と太陽が多分もうすぐできる。

できるできると言いながら半年くらい経つ気がするが、今度は本当にできると思う。

ボクも26で、同じ事の繰り返しが増え、「アレはいつの事だったろうか。。」と言う場面が増えたので、記録の意味も含めて、ブログにこのアプリができるまでの道のりを書いてみようと思う。

少しでも興味を持って頂ければ幸いです。


2008年8月


今から丁度2年前の事だ。ボクは今と同じトキワ荘と言う恐れ多い名の家に住んでいて、隣には漫画の先輩のTさんがいた。Tさんとボクは仲が良くて、漫画を一緒に作ったりする程だった。

なんとフスマ越しでの生活を強いられているので、ペンネームはフスマゴシにした。二人ともいる時は音楽もかけれないし、独り言も言えない。ボクは独り言を言う習慣があったが、そのおかげで少し治ったと思う。今でも時々言う。

それでも、フスマを開いて音楽をかけたり、クーラーの涼しい風を分け合ったり(ボクの部屋にはクーラーがあるが、Tさんの部屋にはない)まぁ、窮屈な思いをする事も多かったけど、楽しくやっていたと思う。我の強いボクがそんな生活をもう3年も続けれているのは、単にTさんが人格者だからだ。そんなスローライフを3年くらいやっている。スローライフじゃいけないのだけど、怒られないとやはりスローになってしまう。


そんなボクたちが、週に一回くらい集まって一緒に漫画を作ろうと打ち合わせをした事があった。10個くらいアイデアがあったんだけど、結局形になったのは「北風と太陽」と言うフザけたギャグ漫画だった。(フスマゴシコンビはこの後、もう一話他の漫画を描く事になる)形と言っても漫画の下書きの下書きと言う非常にラフなものだ。所謂ネーム、と言うヤツだ。


ボクたちはネームを持って、出版社に行った。今思えば、ネーム1つで担当もいない出版社に乗り込むなんて、いい度胸してたと思う。2人で一社、ぼく一人で一社行った。評判はまぁまぁだったが、コレ一話だけあってもどうしようもない、と言う事だった。


とにかく、載らないんじゃしょうがない、と言う事で、この「北風と太陽」はお蔵入りする事になった。

それから一年後の話しである。


大学の友人の結婚式の披露宴でお祝い漫画を披露する事になったのだけど、パワーポイントを使った。

それが思いのほかウケが良かった。

なるほど、漫画を紙芝居風に見せるのも悪くないな、と思ったのだった。


その後、その披露宴に居合わせたテレビの制作会社に勤める友人からテレビのフリップ作りの仕事が舞い込んで来た。

何事も一生懸命やるべきだ、とか思いながらせっせとフォトショップを使ってフリップを作っていた。

手描きの絵と写真の背景を合成しているとき、雷に打たれた様に「クリックしたら動くフラッシュ紙芝居」を作ったら面白いんじゃないかと思った。

そのときフラッシュにしようと思った作品が、「新約・北風と太陽」だった。

コレだけ聞くと普通の発想だが、ボクの頭の中は滅茶苦茶面白いモノを考えついたと言う事で一杯で、近所を2、3周くらい歩き回った。

自分の持っているショボショボなフラッシュ技術を使って、コレを実現しようと思ったのだった。

ちなみに、このとき作ったフリップは企画自体が没って使われる事は無かったって言う。。


しかしそれから1週間くらい経ったある日、某雑誌のボクの担当編集者の方から電話があった。

漫画で賞を受賞した、と言うのだ。(これはフスマゴシコンビで描いたもの)

「これから一緒に頑張りましょう」と言う編集者さんの言葉にとりあえずヒジョーに嬉しくなって、フラッシュ紙芝居は頭の片隅に追いやられ、漫画のネーム作りに励む日々が始まったのだった。


それから3ヶ月くらい経って、ネームがなかなか通らずうんざりしているある日、また他の大学の友人から電話があった。

新宿に1日だけアルバイトに行かないか、と言う誘いだった。

何せあまりに割のいいアルバイトだったので即オーケーして、アルバイトに行った。


案の定アルバイトは割が良く、大学の友達3人でお金をもらってほくほくしてビルの外に出た。

ボク以外の2人はサラリーマンで営業中にアルバイトをする、と言う実に不届きな行為をしていたので、すぐに会社に戻った。

一人取り残されたボクは、新宿の隣の初台にあるICCと言う現代美術を扱う施設にブラリと立ち寄った。

展覧会自体はまぁ、割と普通で特に覚えていない。

時間があったので、そこに常設してあるインタビュービデオを見る事にした。


とりあえずビッグネームがずらりと並ぶインタビュービデオの中で、ボクの大好きな、ビル・ビオラナム・ジュン・パイクのビデオを見る事にした。

ビル・ビオラは思っていたより普通の人で、アーティストと言うよりはマジメなサラリーマンと言った印象だった。


方やナム・ジュン・パイクに対してはダリの様なアーティスティックなイメージを抱いていたのだけど、真逆だった。

柔和な高木ブーみたいな老人だった。

その高木ブーが日本語で語っているのだった。

ナム・ジュン・パイクソウルニューヨーク東京を股にかけた国際的アーティストで、日本語も堪能だったのだ。

そのナム・ジュン・パイクが変な訛りのある喋りで、ボクのその後の一生を決定付けるかもしれない言葉を放った。

「これから40年は、ウェッブの時代」


前から言われてる事だし、本当にそうなるかも分からない。

だけど、それから3日くらい、事ある度にその言葉を思い出し、妙に新鮮な気分になった。

つづく